弔いの歌


 すべての始まりは多分、遠い昔の話だ。
 オレたちがあの日から今まで歩いてきた道がずっと短く感じられるほど、きっと、遠い話だ。


 そう、あの日――

 オレがポケモン泥棒どもから仲間を助け出すついでに、ワケありの人間の女の子を檻の中から連れ出して、数年後の。
 いろんな土地を転々とした末、カントーのとある町の雑貨屋に転がり込んでから、1年くらい後の。
 あの四畳半の部屋で例の本が発掘されてから、たぶん数ヶ月くらい後の、あの日。

 扉は開かれてしまった。
 オレは地獄の入口を見てしまった。



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 思い出したくもなかった昔の記憶をついよみがえらせてしまったのは、店の2階にある物置部屋の掃除を、仲間と一緒に任されたときのことだった。
 正確に言うとそこは物置と化した書斎で、“例のカフェ”が最初の店をとある森の中に出してしばらくするまで、その店を作らせた女が自分の寝床にしていた場所でもあった。その女、オレたちのトレーナーは、もうここにはいない。この部屋を出た後に住んでいた家も今はもうない。全焼した家から運び出された荷物の一部がここに運び込まれたのは2年前のことで、今では元々あった本の山に負けない存在感で空間を圧迫している。見てるだけで床が抜けそうだ。
 もちろんその荷物の大半は、思い出の手がかりになる以外には何の役にも立たない。そんな雑多な物を整理して、出来れば捨てて数を減らすことが、その日オレと仲間たちに与えられた任務だった。

「……とは言っても、なあ……」
 作業はあっさり行き詰まった。
 どれが必要でどれが無駄か見分ける以前に、本人が「不在」っていう事実自体が重すぎる。段ボール箱から何を取り出しても、どうしても何かを思い出して、つい捨てられずに箱へ戻してしまう。オレだけじゃない、一緒に作業してるニューラのクロウズもミミロルのアワーも似たような調子で、部屋の中は本当に静かだった。
 これがヒロだったら、毒舌まき散らしながらぽいぽい捨てて楽に作業を終わらせてたんだろうな。でもリザードンをこの狭い部屋に入れるわけにはいかない。1分もしないうちに尻尾の炎が何かに燃え移るに決まってる。
「あーもう……やってられるか!」
「ひぃっ!?」
 勢いに任せて立ち上がったら、背中合わせで作業してたアワーがびっくりして悲鳴を上げた。オレの方もぎょっとして振り返って、多分そのときに肘でもぶつけたんだろう。

 あっという間に頭上が暗くなって、すぐ近くに積まれていたノートの小山がオレの上に覆い被さった。

「…………。」
「ナイツー、生きてるー? ゴーストだから死んではないと思うけど一応訊くわよ、生きてるー?」
「平気平気、オレこう見えて結構打たれ強い……」
「そうよねぇ、昔からあれだけ殴られまくってたんだから」
 オレはクロウズのせせら笑いをノートと一緒にはねのけてから、差し出された手をとって起き上がった。それから足元に散らばったノートの一冊をその辺に放り投げようとして、表紙を見たら、手が止まってしまった。
 ここにもあったよ。思い出の品。
 宝石の両目に映ったのは、サインペンで横書きされたタイトルの筆跡。見間違えるものか、この部屋の惨状を作った張本人、現在某所で療養中と聞かされているトレーナーが書いたもので間違いない。片隅の署名を見るまでもなかった。
「何ですか、それ?」
 アワーがぴょこんと耳を揺らして後ろからのぞき込んできた。そのさらに後ろにクロウズが立ったんだろうな、オレより先にその文字を読み上げて答えまで出してきた。
「リスタちゃんが昔書いてたお話ね。確かアンタがここに来る前。カフェが島に移る前に」
「あ、聞いたことあります。町内のミニコミ誌か何かに書いてたっていう」
「あの頃は大変だったのよ〜。毎週毎週締め切りに追われて、原稿から逃げてはお仕置きされて……」
 クロウズが口元に手の甲を添えて笑ってるのは見なくても分かった。そのポーズもカマネコ扱いの原因なんじゃないかって思ったけど、半殺しはごめんだから口に出したい衝動を我慢して、オレは拾ったノートのページをぱらぱらとめくってみた。
 開いたページの中で、少しかすれてるけどしっかり残ってる鉛筆書きの文字。内容も見覚えのある懐かしい……あれ?
「どうしたんですか、ナイツさん。急に険しい顔して」
「……違う」
「「えっ??」」
 両側から違う声で同じ音が聞こえた。
 オレは念のため、手近にあったもう一冊のノートを拾ってそっちも斜め読みしてから、後ろを向いて首を振った。
「違う。これ、町内誌に出してた奴じゃない」
「はぁ? 何で? だってそのタイトルは……」
「内容が全然違う。あれに出してたのはポケモントレーナーの話だったろ。でもこれはそうじゃない。色々違うし何よりポケモンが出てこない。クロウズも見てみろよ」
 先に目を通した方のノートを差し出して読ませたら、クロウズの口がだんだん強く曲がっていった。
「……ホントね。アタシあの話は全部読んだはずなんだけど、こんな話見たことない。没ネタかしら。でもそれにしても……」
 困ったように耳を丸めてるアワーにもう一冊を渡してから、オレは3冊目を見ようとして、“あること”を思い出した。
 手に取りかけたものをそのままにして、部屋の西側にある入口の引き違い戸に背を向けて、反対つまり東側の壁一面を覆ってそびえる本棚を見上げた。上から途中まで隙間なく詰め込まれた本たち。下の方は積まれた段ボール箱が邪魔で様子が見えない。
 オレは無言で段ボール箱を一つずつ動かし始めた。
 ヤミラミにはでかすぎるって? 分かってるよそんなもん。
「て、手伝いましょうか……?」
「いい。オマエはそのノート元通りに積んどいて」
 不器用ミミロルを片手で追い払って、なんとか全部の段ボール箱を部屋の北側、窓枠の下へ退去させた。全容が現れた本棚を今度こそ上から下までしっかりチェック。ひらめいた疑問への答えはすぐに見つかった。
「ない。どうなってんだ、確かにここにあったはずなのに」
「今度は何よ。さっきからろくな説明もしないで次々と勝手に……」
 ノートをオレの頭に叩きつけたクロウズの手が、そのまま止まった。
 耳元でアワーが息を呑む音も聞こえる。近寄りすぎだぜ。でもその気持ちは分かるかもしれない。
 2匹ともオレと同じように、ささやかな異変に首をかしげたんだろう。

 隙間なくいろんな書物を詰め込まれているはずの本棚の、最下段。
 ちょうど一冊分だけ、不自然にスペースが空いている。

「……これがどうかしたの」
「だいぶホコリがたまってますよー。もともと何もなかったんじゃないんですか?」
「そんなことない。アレは絶対ここにあった」
 とはいっても今は何もない。手を突っ込んでも、身を乗り出して目玉が隣の本の縁にぶつかっても、そこには空気しかなかった。
「だから何が……」
「さっきのノートの……何つーのかな。資料……かも?」
 振り返って見たノートの山は、ついさっきよりはマシになってたけど、あんまりきれいな積み方じゃなかった。コイキングが隣で跳ねただけでまた崩れそうだ。

 山積みの一番上から一冊取って、小さめの丁寧な字がびっしり書かれたページをもう一度読み返しながら、オレは回想を始める。


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 リスタがその本を見つけたのは確か、皆がよく知ってるあのカフェが最初の店を出す前の年の、年明けくらいだったと思う。
 何かの拍子に発見したらしいんだけどオレはその時その場にいなくて、何か伝えることがあってトレーナーを探しにその部屋へ行ったら、散らかった四畳半の真ん中に座り込んだリスタはもうその本に夢中になっていた。

 先に言っとかなきゃならない。この頃のリスタはまだ、控えめだけど感情はちゃんと揃ってたし、何かの責任や使命感に取り憑かれることも、まして誰かに恨みを抱くようなこともなかった。
 居候してる雑貨屋で働いたり、近所の人とポケモンバトルをしたり、暇な日には旅の途中で見つけたお気に入りの店――ジョウトとカントーの中間にある街に存在した某カフェ――へ遊びに行ってマスターや常連客と雑談して帰ってくるような、割と普通の女の子だったんだ。

 その普通の人間が、手持ちポケモンの呼びかけも無視して読みふけっていたのは、妙に分厚くしっかりした装丁の本だった。
 表紙は光り輝くように真っ白。印刷じゃなくて刺繍のようなやけに凝ったデザインもすぐ近くで見ないと分からないくらい、とにかく白一色。
 近づいたついでに中を覗き込もうとしたら、やっとリスタがオレの存在に気づいてくれた。
「……ナイツ? どうしました?」
 こっちを見たのは一瞬だけ。すぐまた本に視線を戻したから、オレは片手を前に出して強制ストップをかけて、預かってきた伝言を伝えた。
「分かりました。すぐ行きます」
 生返事かと思ったらそうでもなくて、リスタは今度こそ本を読むのをやめてくれた。そして白い本を閉じながら立ち上がると、それを本棚の一番下の段に納めて、狭い階段を下りていった。
 その一連のモーションの間に一瞬だけ本の中を見ることができた。何とか調っていうか、いかにも古そうな装飾過多のフォントで埋め尽くされたページを、オレは一行も解読できなかった。
 あれは何語なんだ。


 その後しばらく、リスタは休憩時間になるたびにその部屋にこもって、その白い本を読むようになった。
 まぶしすぎる白の背表紙は本棚に突っ込まれると明らかに他の本から浮いて見えてて、今まで何度もこの部屋の掃除や整頓を手伝ってるオレにしてみれば、今までそんな目立つ本がそこにあったことがまず信じられなかった。
 次に信じられないと思ったのはリスタ本人の反応。オレが見たこともない言語で書かれていた本の中身を、平気な顔して「何となく分かる」だなんて言い出しやがったんだ。
「物語ですよ。ある男の半生を、友人の視点からつづったもののようです」
 どこをどう読んだらそうなるんだ、と聞いてもまともに理解できる答えは返ってこなかった。本人も文法とかはよく分からなくて、インスピレーションだけで“解読”してるつもりになってるらしい。
 何だそりゃ……

 オレがあきれて謎解きを放棄した数日後、リスタは新品のノートを買ってきて、今度は本の中身を書き写し始めるようになった。どんどん訳の分からない行動に走る様子がようやくオレ以外の目にも留まるようになったのも、ちょうどその頃だった。
『あれはいったい何をやってるんだ。ナイツ、お前なら何か聞いてるんじゃないのか』
『みんなそう言うんだぜ? オレにも全然、何が何だかもうさっぱりなのに』
 当時からクロウズだとか、アリアドスのリアラだとか、後に不思議の森の始まりに立ち会う連中はだいたい仲間になってたから、“みんな”はポケモンだけでもそれなりの数だ。それに問題の部屋の向かい側には雑貨屋の当時の店主が住んでたし、他にも店にはバイトで働いてる奴も何人か出入りしてたんだけど、みんなそろって首をかしげていた。半分妄想みたいな言い分につきあいきれる奴なんか当然いるはずもない。
 話は次第に店の外にも伝わるようになった。あいつが何か小説っぽいものを書いてる、という部分だけが。
 そうだ、確かそれで、町内誌を作ってる有志の若い姉ちゃんが訪ねてきたんだ。ちょうど読み物のページが欲しかったんです、うちで書いてみませんかって。そしたらリスタはこう言ったらしい。
「お誘いありがとうございます。でも、今書いているこれはとても皆さんにお見せできるようなものではありませんので、手直ししてからでもよろしいですか」
 つまり断らなかった。で、仕事の合間を縫って新しく話を書き始めたんだ。その時にはもう白い本を開くことはなくなってて、もう読み終わって気が済んだんだろうと思ったから、オレもその本の中身を気にすることはなくなった。
 古びた本の中であの真っ白は目立つから、部屋に入るたびに嫌でも目についたけどな。


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「その、本の中身を書き写してたノートっていうのが、あれなのかい?」
 整頓2日目。
 ちょうどこの店に顔を出して、成り行きで仕分け作業を手伝うことになったチャーレムのマグダレナに聞かれるまで、オレは重大なことに気づかないままだった。
「そういや、あの時はノートに何書いてるのかまではよく見てなかったな……だから確証はないけど、多分そうだと思う」
「あんたねぇ……ま、当時はそこまで気が回らなかったんだろ。今更何言ったってしょうがないか」
 ため息をつかれた。

 北向きの窓の外からはしゃぐ声が聞こえてくる。
 今日はアワーが作業から外れている。マグが母親のように面倒を見てる黒ヒノアラシの陽春を代わりに預けられてたから、多分一緒に遊んでいるんだろう。陽春はチャーレム流の山ごもり修行につきあわされてる割に成長してなくて、誰かによく似た元気いっぱいで悪戯好きな性格も変わってないから、1匹だけにしてほっといたら何しでかすか分からないもんな。

「分類終わったわよー。さすがというか、やっぱりというか、几帳面な子で助かったわ」
 こっちはオレ同様に続投のクロウズが、ノートの山を整頓し終えたと声をかけてきた。オレとマグはがらくたの分別を一時中断して報告を聞くことにした。
 問題のタイトルを冠したノートにはどれも表紙に通し番号が振られていて、同じ番号が2冊ずつあることが分かったという。町内誌に寄稿した話はどれもアラビア数字で、そうでないものにはローマ数字が書いてあったとクロウズは言った。
「最初の方だけざっと読んだ印象だけど、ナイツが言ってた通り、内容は全くの別物。こっちを元にしてこっちを書いたっていう感じでもなかった」
「どんな内容? ジャンルは?」
 マグがもっと基本的な部分を訊いてきた。クロウズは何故か、オレの方を見ながら自分で答えた。
「そうねえ、異世界ものでSFも入ってる感じ。結構シリアスな話よ。戦場で育った少年兵の話っぽいんだけど、難解なキーワードが多すぎてちょっと自信ないわ」
「なるほど、異世界設定だったらポケモン出てこないのも一応あるにはあるからそこは納得。そこに戦争ものの要素も入ってるのか……それが何でポケモントレーナーの修行話と同じタイトルなんだ?」
「さぁ……?」
「ちょっと見せてよ」
 マグが片手を差し出したのは、渡してくれというより、担当の交代を要求してたんだろう。クロウズもそう解釈したみたいで、ふたりはうなずきあってから立ち位置を入れ替えた。
 オレだけがそのままの位置で片付けを再開する。

 そりゃノートの謎は気になるけど、内容は昨日のうちにいろいろ見たし、なぁ。
 だったら何でオレが整頓しなかったかって?
 途中までは読んださ。それで思い出したこともいくつかあって、今それをマグに話してた。でも中身に気を取られすぎて整頓という目的を忘れそうになってたからクロウズに怒られて、それで交代になった。
 悔しいけど、交代で済んで良かったのかもしれない、とも思う。あのまま続けてたら期日までに整頓が終わらなくなって、オレの給料が取り上げられてたかもしれないもんな。

 読書を強制終了させられる直前に見た、多分物語としては序盤のクライマックスかもしれないページのことを思い出しながら、オレは再び回想を始める。


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 リスタが自分の力で新しい話を書き始めて、その第一回が載った最初の冊子が刷り上がった頃か、もうちょっと前かな。オレがリスタと一緒に外を歩いていると、時々、変な視線を感じるようになった。決してゴーストではない(ゴーストポケモンが言うんだから間違いない)。そして強い悪意を持ってる奴だ(悪ポケモンが以下略)。
 本人もすぐ気づいたらしく、雑貨屋の当時の店主に訴え出たら案の定、このあたりを不審な奴がうろついているっていう目撃談が出ていることが分かった。そのとき聞いた詳細は覚えてないけど、リスタがやけに思い詰めた顔をしていた印象が強く残ってるから、もしかしたらこの時点で既に心当たりがあったのかもしれない。
 でも当時のオレはそこまでは気づかなかった。だから、話を聞いてから外出を控えるようになったリスタをただ普通に心配して、なんとか普段通りの生活に戻れるよう知恵を絞ったんだよな。

 外へ出ようとしないで閉じこもってる姿は、その時点でもう何年も昔の、あのヤバイ奴に捕まって地下室に置かれてた時の記憶をどうしても思い出させるから。
 オレが最初に出会ったあのときと全く同じように、思い詰めたような顔をしてるから。
 違う点といえばあの白い本を読んでることくらいだったから。

 ……そう、ここでまた例の本だよ。
 当時は町内誌の話がなんとか先につながってたから執筆の参考にしてたんだろうと思ってたけど、書いてたノートの中身が全然違うと知った今になって思えば、ただ物語の世界に現実逃避してたのかもしれない。どっちでもいいや。もし本当はもっと違う理由だったんだとしても、何もないコンクリートの床に座り込んだまま抜け殻になるよりは、畳の上で本でも読んでてくれた方がずっとマシだ。
 とにかく、

 このまま引きこもりになるのだけは絶対に阻止しなきゃいけない。
 時計の針は戻しちゃいけない。
 オレはその決意を胸にあの手この手、仕事も生活もプライベートも何だって利用して、リスタを外に連れ出す努力を重ねた。
 他のポケモンたちも全面協力してくれた。昔の事情を知らないはずなのに1匹残らず動いたんだから、それだけ異様な状態に見えてたってことなんだろう。


 お気に入りのカフェに行こうぜと誘ったのも、その作戦の一つで、正直言うとただの思いつきだった。
 忘れるもんか。あれは昼まで降り続いてた雨が上がって、気持ちよく晴れた夕方のことだ。

『最近会ってないだろ? たまには顔出さないと、マスターも心配してるんじゃないか?』
「ええ……そう、ですね。……でも、大丈夫でしょうか」
『おいおいおい、オレを誰だと思ってんだ。怪しい奴なんかこう、シャドーボールで、ぶっ飛ばしてやるから!』
 オーバーなポーズ付きで力説してやったら、ようやくちょっとだけ頬がゆるんだ。自信があったのは嘘じゃない。怪しい人間の一人や二人も威嚇できないで、ポケモンバトルで派手に暴れられるか。
 思い立ったが吉日。さっそくオレは移動の足に使ってるトロピウスを呼んできて(当時ヒロは遠くの町で入院中でしかも進化前だった)、リスタを店の外に連れ出すと、なじみの飛行ルートで目的地を目指した。

 いつものコーヒーを飲みながら、店のマスターとしゃべって、風変わりな店員たちの破天荒な仕事ぶりを眺めて。
 いつも通りの常連客と、いつも通りにバカな話をして騒いで、笑って、いいこと聞いたりもして、そうしてる内に帰る時間になって。

 いつものルートで帰ってきたオレたちが、暮らしてる町の外れに降り立ったトロピウスの背中から飛び降りたとき、すぐそこに誰かが立っていた。いかにも怪しい風体。春なのにしっかり着込んだ冬物ジャケットの、目深にかぶったフードに夕日が被さって、人相を黒く塗り潰している。
 オレは直感した。前から感じてた視線の主だ。
 隣にいるリスタを見上げたら、病気でもこうはならないだろうと思うほど青ざめていた。顔だけじゃない。全身から血という血が抜き取られたような色だ。
「探しましたよ。無事でいてくれて何よりです」
 相手は安物の手袋をはめた手をこっちに差し出してきた。
 状況に似合わない温厚そうな声と一緒に、一歩、近づいてくる。
「凶暴なポケモンたちに襲われて、混乱のさなかにいなくなりましたからね。<   >も心配していますよ、……」
 耳慣れない名前が続いた。何のことか分からなかったオレは、もう一度隣を見上げて、白い手がさらに白くなるほど強く握られた拳を見た。
 どうしたのかなんて聞く時間も惜しくなった。
 向こうはオレのことなんか眼中にない。その間に構えて、
『今だ、逃げろ!』
 シャドーボールを一発、直撃は避けて顔の真横へ。
 叫んだ意図を先に理解してくれたのはトロピウスの方で、でかい葉っぱみたいな翼でリスタを覆って、面倒くさい奴から遠ざけるように押しのけてくれた。我に返ったリスタがようやく背を向けて走り出すと、当然相手も追いかけようとしたから、オレはもう一発同じように投げてやった。トロピウスも吹き飛ばしで援護してくれた。
 その後どうしたっけな……バトルにはならなかったから、そいつはポケモンを出してこなかったんだろう。オレたちも無事に逃げ出したわけだ。


 そんなこんなで、何とかリスタを守りきったのは良かったんだけど。
 結果的にオレが恐れていた事態も起きてしまった。
「……生きてます?」
「…………はい」
 出かけるどころか窓から外を見ることもせず、厚いカーテンをきっちり閉めて、うずくまって小さく震える姿を見せられるのはオレじゃなくても正直つらかったと思う。食事の世話までは引き受けたオレたちポケモンも、時々様子を見に来る店主やバイトの奴らも、どう接したらいいのか分からなくて手探りすら出来なかった。
 そっとしておく他に有効な手が思いつかなかったのは、悲しいけど事実だ。
 昔味わった恐怖の再来と戦って見事克服、追っ手にも打ち勝ったなんてドラマチックな人生の経験者、もちろんオレの知り合いにいるわけがなかった。もし本当は何かもっと違うアプローチがあったとしても、それを教えてくれるような奴がそのときその場にいなかったら、そんなものは存在しないに等しい。
『……でも、さあ……』
 思うことはあった。
 打つ手がなくても、ちょっと考えれば分かるだろ。
 そうやって丸くなったって何も変わらないのに。人間がやったって防御が上がるわけでもないのに。

 だからオレは、そっとしておくという安心で安泰な方針を、1日と待たずに放棄した。

『いい加減にしろよオマエは!!』
 ああ、怒鳴らずにいられなかったさ。その気持ちは分かるだろ?
 オレは開きっぱなしの本の上に乗っかって、ごちゃごちゃと書いてある文字やら何やらを両手両足で思いっきり押さえつけて、リスタの正面で至近距離まで顔を近づけた。
 こうしなきゃ、こうでもしなきゃ、オレのことなんか見てくれそうになかったから。
 もう例の白い本に話の邪魔はさせない。
『何が怖いのか知らないけどな、何で一人で抱えて、一人でおびえてんだよ!オレはオマエがつかまえたんだろ、オマエが“おや”なんだろ、だったら指示しろよ!何か言えよ!まだポケモンけしかけられたわけじゃないんだろ、まだ人間が一人突っ立ってこっち見てただけなんだろ?追い払ってとか指示すりゃそれでいいんだ!そしたらやるから!オレだけじゃない、みんなオマエの力になりたいんだぜ?何か手助けしたいんだぜ!?だから言ってくれよ!オレたちにできることがあるのか……オマエがどうしてほしいのか。どうしてそんなに、おびえてるのかを、ちゃんと!言葉で!』
「…………。」
 ひるまれた。
 勢いに任せすぎた。
『……別に、今すぐとか、言わないから。落ち着いてからでいいから』
 オレは根気よくずっとリスタの顔を見上げていたけど、目の前の顔があんまりにも悲しそうだったから何も言えなくなって、ついに目を合わせられなくなった。重い気分に押しつぶされるみたいな感覚で、自然に首が下に向いてしまって、ふと手を置いたページに目がとまった。
 相変わらず意味不明な文字の羅列。
 でも、前に何度か見かけたのはレトロな感じの横書き文字ばかりで挿絵もなかったのに、そのページは少し違っていた。横に線がいっぱい引いてあって、黒い丸とか縦棒とかふにゃふにゃした記号とかの群れが、例によって読めない文章の間――ちょうど段落と段落の間みたいにスペースを空けられた一角――に押し込められている。
 その記号の上に、大粒の雨がひとしずく、落ちたところだった。
『…………。』
 オレは上を向けなかった。
「……分かってます。分かってます、から。でも……そういうことじゃ、ないんです」
 こんな風に言うのは、本当は分かってないってことだ。
 正しい意味でオレの訴えかけたことを理解してくれたなら、こんな言い方はしない。
「違うんです……」
『違うんです、じゃないだろ。じゃあ何なんだよ。言ってくれよ』
「…………。」
 黙られた。
 オレは悔しくなった。自分の言葉じゃ突き崩せないかたくなな壁を前にして、ただ自分の無力とトレーナーの臆病さに怒って、やりきれない気持ちに負けて本の上を離れてしまった。
 だから、そのときは考えもしなかった。
 リスタが本当は何を恐れていて、どんな思いに震えていたのか、なんてことは。


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 思い返せば今でも、いや、時間が経つほど余計に悔しさは増してくる。
 黙ってしまったオレを現在に引き戻したのは、マグが背中にぶち込んできた平手だった。面白がった陽春が真似してオレの腕をぺちぺち叩き始めたけどそっちは放っておこう。
「リスタが昔っから全然変わってないっていうのはよーく分かった。でも本題はそっちじゃないんだろ」
「……まあ、そうなんだけど」

 オレは仕分けの手を止めて顔を上げた。
 外から入ってくる光は、薄汚れた窓ガラスがフィルターになって少し暗めに抑えられた、春の夕日のオレンジ色。
 あの日、カーテンの隙間から部屋の中に差し込んでいたのも、こんな感じの色合いだった。

「その本の中身について教えて欲しい。ナイツ、そのページに書いてあった記号っていうのがどんな奴だったか、どこまで覚えてる?」
「記号……?」
 言葉で説明しようとしたオレに、マグは書き物机の上から持ち出した水性ペンと、さっき資源ゴミに分類したばかりのチラシを差し出した。裏に描いてみろって言いたいのか。
「あんまり正確には覚えてないんだけど……」
 促されるまま描き始める。もうずっと前に見たものだからかなりアバウトな記憶だったけど、うろ覚えのまま曖昧な絵を適当に描いてたら案外それっぽくなってきて、もう少し思い出してきた。
「……こんな感じだった気がする」
「貸して」
 チラシの裏に広げられた落書きを見たマグは、紙を回していろんな角度から観察すると、後ろに立ってのぞき込んでたクロウズとアワーに紙を渡した。それから内容別に分けてあったノートの山の1つを崩し始めた。
「何やってんの?」
 マグの肩越し……は無理だから横に回り込んで手元を見てみる。
 ローマ数字のノートから何冊か取り出して、ぱらぱらと中身をチェックしていた。何をしたいのか分からないオレが聞いてみようとした、ちょうどそのタイミングで、ばっと開いたノートを目の前に突きつけられた。
「ちょうど気になってたページがあったんだ。これ、クロウズは気づいてた?」
「あーはいはい、そこね、見たわ。アタシも変だなって思ってたの」
 オレの頭越しにクロウズがノートを読んでる。息が吹きかかるたびに寒気がするんだけど誰か何とかしてくれ。できれば陽春の火の粉以外で頼む。
 氷点下の吐息を浴びながらオレもノートに目を通した。ちょいと手を伸ばして前のページをめくってみたら、ちょうど読んでる途中で作業を中断させられたときに開いていた場所だった。
「このシーン……」
「仇敵にハメられた主人公が故郷を追われる場面。語り部は友人としてそれを見送ってて……不自然なのがここと、ここだ。段落変わるところでもないのに無駄に行間空けてる。もしこのノートがその白い本の写しだっていうなら、これがここに入る可能性、あるんじゃない?」
 合わせてページの半分くらいを占領する大胆な空白に、マグがチラシを重ね合わせた。
「本当は何かあったのかもしれないよ。地の文でも台詞でもない、何かが、ここに」
 逆さまになった紙を見せつけられたオレは、10万ボルトでも食らったようなショックに体を震わせた。

 これは、まるで……あれじゃないか。

 自分が書いた図形から、思いもよらなかった想像を引き出された衝撃を引きずったまま、オレは回想する。


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 恐怖の相手が自分の心、目に焼き付いて離れない記憶だっていうなら、そりゃ、オレたちなんか役に立つわけないに決まってる。
 でもな、ちょっとは和らげるとか、気を紛らわすとか、どうにでもできたんだぜ?
 なのに――あの日、オマエは。
 見えない敵と戦う最高の即戦力を見つけて、心の傷の応急処置としては最悪の選択肢を迷いなく、相談もなく選びやがったんだ。


 あの日――


 元々何の用事があってその階段を駆け上がろうとしたのかは忘れた。とにかく、1階の店から2階の物置部屋へ行こうとして何段目かを上っているときに、オレは歌声を聞いた。
 歌詞は聴き取れない。聴いたことがない歌だった。でもその歌い手の声には、間違いないと言い切れるほど聞き覚えがあった。
 そのアカペラは1人分の声なのに重厚で濃密で崇高な響きを持っていた。
 何かの儀式のような。
 誰かの嘆きのような。
 今思えばそれは祈りだったのかもしれない。

 でもその歌への関心も、階段を上りきって狭い廊下の右手にある引き違い戸を開けた直後には、頭の中からきれいさっぱり洗い流されていた。
 目の前に広がった光景は、一言で言うと、異様。
 もしその時のオレがもう少し冷静さを忘れていなかったら、部屋の中が特に荒らされてないことも、ただ自分のトレーナーが座り込んで本を広げたまま呆然としてるだけの、別に大騒ぎするほどの状況じゃないってことも、すぐに気づけたと思う。もしかしたら余計なことをしなくて済んだのかもしれない。
 でもそんなもの、今更も今更、盛大に後の祭りってやつだ。
 慌てていたからこそ見えたんだ。と、今は思うことにしよう。とにかくその時のオレには、冷静だったら見えてなかったかもしれないモノが、はっきりと、その目に見えていた。

 あの白い本が途中のページを開いたまま置かれているその上に、何かがいる。
 姿かたちはよく分からない。でも、そこにはものすごいエネルギーを持った“何か”が渦巻いていて、リスタはそれを見上げて、見とれていた。
 流れが分かる、感じる。風の肌触り。外の空気を絶えず吸い集めて、そこに何かが、形を成そうとしている。

 こっちを見た。
 まだ形になってもいないのに、そんな風に思った。

 徐々に見えてきた“それ”が何なのか頭でも直感でもつかめないうちに、オレは自分の口から発せられた悲鳴をひとしきり聞いていた。嫌になるほど冴えた頭で。
 それが落ち着いてから、やっとリスタが操り糸をゆるめられた人形のようなぎこちない動きでこっちを向いたんだ。空っぽの目で口もぽかんと開けて、夢から覚めたような、いや覚めてない。今思えば不気味でしょうがないけどその時はそんなこと全然感じなくて、オレは野生だったときに天敵と出くわした場面みたいな頭で、今この立ち位置から一番早く速くリスタを連れ出して外に逃げるルートを探し続けていた。半分くらい無意識でやってたな。本能のなせる技ってやつなのか。
 でもその計算だって最初の一歩が床に触れる前にはかなく消えた。
 目に映らない“それ”が透明な手を突き出してきたみたいに、オレはいきなり宙を舞って、人間ひとり分の幅しかない廊下の反対側に立ってるもう1枚の引き違い戸に叩きつけられていた。店主の部屋の扉だ。ふすまの薄い和紙を背中の宝石が突き破ったんじゃないかと疑うほどの衝撃だった。
「何だ今の! おい、何かあったのか!?」
 階段の下から声が聞こえてくる。急な階段を駆け上がる足音がする。悲しいかなオレはすぐにその正体が分かってしまった。下の店で働いてるヒラのバイトの一人だ。
 多分、さっきの一撃が馬鹿でかい音を、下手すると店の外にまで響かせてたんだろう。後になって気づいたけど自分が出してた声もそんなレベルだった気がする、だからその後の成り行きはよくよく考えれば当然なのに、その時はただただ、余計なことをと恨むばかりだった。
『来るな! 危ない!!』
 オレは慣性力で磔にされた戸から重力で落っこちながら階段の下に向かって叫んだ。
 でもそいつはただの人間だった。心を通わせたトレーナーでもなければ、何かの能力を持ってるわけでもない。ポケモンの言葉が通じないそいつは、オレが発した鳴き声を――最悪なことに――正反対の意味に解釈してしまったらしい。
 オレに向かって何かを呼びかけながら、そいつは一歩一歩、古い階段をきしませる。
 最上段まで登り切って、両手を伸ばして止めるオレをまるっきり無視して、開けっ放しの戸に片手をかけて部屋の中へ足を踏み入れて、そいつは――

 見てしまった。

 視られてしまった。

 魅入られてしまった。

 暴風が、今度は中から外へと吹き荒れた。
 オレは無我夢中で床板の隙間に爪を立てて飛ばされないように耐えながら、今まで遭遇したことのない恐ろしい事態が起きたことを全身で感じ取っていた。でもそれが「何」なのかを具体的に悟るのはその後だ。
 風がやむまでの、途方もないようで一瞬だったのかもしれない数秒の間に、前に出た一歩が畳を踏み鳴らすまでのわずかな間に、そいつの身に何かが起きた。
 そしてそれはオレが顔を上げたときにはもうとっくに終わっていた。

「……いいだろう」

 頭上に降ってきた声は、確かにさっき聞いたはずの人の声なのに、そんな当たり前のことをオレは疑ってしまった。
 何だこの感覚。全身の宝石を1つと残らずドライアイスに入れ替えられたような。声を聞いた、ただそれだけなのに。

「口封じのついでだ、此奴の身体をしばらく借り受ける。材料としては悪くない」

 本当は顔を上げるのも怖かった。でもそうしなきゃいけなかったし、そうしなきゃと思ったからオレはそうした。
 リスタを助けないと。
 トレーナーへの信頼と忠誠心と想いが一時的に手足の震えを忘れさせる。諦めちゃいけない、今ここでやるべきことがある、言葉にならない直感に従って駆け出そうとしたオレの熱意と闘争心は、
 真夏の太陽よりも殺人的な黄金色の眼光を前に一瞬で蒸発した。
『…………。』
 今度こそ力が抜けて動けなくなったオレがその場に座り込む間に、そいつは部屋の奥にいるリスタへと近づいていく。
 悪魔の威圧をまとって、魔神の風格を携えて、まっすぐに。
 リスタは、本棚の前で広げられた本を前にして呆然としている彼女は、ただそいつを見上げている。

「契約は成立した。喜べ。貴様が口にしたその言葉通りに、貴様の願い、叶えてやろう」




 ――あの日の言葉から始まったんだ。

 忘れたい記憶を忘れたいままにすること、赦しの気持ちだけでは治りきらない傷を仮でもいいからふさいでしまうこと。
 想いを寄せた相手に裏切られてから受けた酷い仕打ちの数々を、過去にしたまま葬ること。
 リスタがオレたちに言い出せなかった願いをそいつは宣言した通り、ほぼ望まれたままの形で――ただし思い出す暇を与えないための手段に多大な問題点があったけど――忠実に叶えてしまったらしい。

 事態に無関係な男の肉体を奪い取る形でこの世界に現れ出でた異端の存在は、まず召喚者の胸ぐら掴んで顔近づけて何かを言ってから、一人で悠々と部屋を出て行った。リスタはしばらくの間は放心状態だったけど、我に返ってからはあれだけ警戒しまくっていたのが嘘のように、いつも通りの振る舞いに戻ってしまった。本当に何もかも忘れたかのようだった。
 あの怪しい人物は翌日からぱたりと姿を見せなくなった。夜遅くに人の悲鳴がしたとかいううわさも聞いたけど、因果関係を裏付けるような話は出てこなかったから関連も行方も不明だ。
 それからはとにかく、みんながそいつに翻弄された。ポケモンであるオレは少なくとも人間よりは頑丈だから、契約上の主従関係を無視したような横暴からリスタを守るたびにボコボコにされて、それでも不屈の闘志を捨てずに戦い続けた。依り代にされてしまった不幸な青年が徐々に自分の身体の支配権を失っていった時にはどうなるかと思ったけど、そっちに関しては幸いにも謎の組織が救いの手を差し伸べて、一年ほど後にようやく救出された彼はどこか遠くの地方に逃がされたと聞いている。

 青年の逃亡劇と前後して、つまりあの本をめぐる出来事の翌年に、みんなも知ってるあのカフェが産声を上げて。
 その次の年に、リスタは強欲で自分勝手な元彼への復讐を完遂して、昔の傷を完全に過去のものにして、ついでに謎の青い宝石を持ち帰って。
 その後もいろんな因果と戦い続けたリスタの隣にはいつも、そいつがいた。
 彼女を見張り、制し、守り、忌まわしい記憶の墓守としてそこにあった。
 数年後――彼女が大きな愛情を注ぎ込んできた不思議の島に、もっと盛大に、どうしようもなく裏切られるその日まで。

 一番簡潔で乱暴な言い方をすると、願いは確かに叶えられた、というわけだ。
 オレがそういった裏側のこと、特に何が願われていたのかを知ったのはたかだか2年前のことで、つまり、全部のことが起きて進んで終わってだいぶ経ってからのことだった。


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「……どうして、こんなことになったんだろうな?」

 回想を終えた後、オレは気がつくとそんな言葉を口走っていて、仲間たちに微妙な目で見られていた。
 何について言ってるのかは、そいつらには説明してやらなくても十分だろう。

 あの日オレの前に現れた時は理解も認識もできなかった異端の魔人が、今やすっかりオレたちポケモンの世界になじんでいる。
 あの日オレに助けを求めなかった不器用で優しいトレーナーが、今や誰よりも遠い異端で異常な人外存在になってしまった。
 なんていう皮肉。


 さて、無事期日までに仕分けを終えたオレは、ゴミの日を待つがらくたに占拠された部屋で、三日三晩かけてノートを全部読破した。最後の一冊を読み終えてから一眠りして、寝起きの頭で思いついたことをクロウズに話してみたら、マグも出立前に同じことを言っていたと言われた。
「アタシも続きを読んだけど、注目した部分が一緒で、やっぱりって話になったのよ」
 読み比べて初めて分かったことだけど、同型のノートにつづられていた2つの物語には、大筋に確かな共通点があった。
 ある男の半生を、友人の視点からつづったお話。決してサクセスストーリーではない。順調なのは最初だけで途中からは苦難の連続、厄介な登場人物が次々に現れては行く手に立ちはだかり、あるいは足を引っ張りに来る。それでも主人公は誇りを胸に、嵐の中を突き進む。
 しかし間を空けずに両方を全部読まないと気づかないほど、最初の印象通りに、全く違う話でもあった。リスタが3年以上の月日を費やして書き上げた方は、襲いかかる困難の種類もその理由も、それらが物語の世界に与える影響も、白い本から書き写されたらしい話とは異なっている。罠にかかって手持ちポケモンを1匹残らず巻き上げられるくだりには実際に現場を見てきたような生々しさがあったけど、もう一つの話に描かれている凄惨なシーンに比べれば心臓に悪くないし、理不尽さも少なかった。
 よく似た点はあっても、多少いじっただけの焼き直しとは到底言えない。これが本当の換骨奪胎。
「悲惨な話の割にどこか優しいのがリスタちゃんらしいわよね。ポケモントレーナーの話に置き換えたのって、きっと、その方がリアルに書けるからっていうよりは、人死にの出るような物語を書きたくなかったからなのよ。自分がそういうの好きじゃないから」
「そりゃ、戦う方法をポケモンバトルに限っちゃえば、そういう風にも出来るけどさ……」
 書き換えの理由についてオレはクロウズとは違うことを考えていた。その理由は双方の一番の違い、物語の終着点にある。
 表紙にローマ数字を記された方は、主人公の破滅で幕を下ろす。
 アラビア数字が書かれた方では、最後の最後に、救いがあった。

 リスタはハッピーエンドを好んでいた。あの島に血みどろの争いが持ち込まれることも、常連客同士が対立を深めることも、心の底から嫌っていた。本人も見る人も幸せじゃないからって。だからクロウズが考えることも分かるし、もしかしたら正解かもしれない。
 でも、それだけなのか?
 本当に、自分が書いてて気分が悪いからっていう、そんな理由なのか?

「……ところで、アタシちょっと気になったことがあるんだけど」
 オレなりの意見を言ってみようとしたら、クロウズが唐突に話題を切り替えてしまった。
「ん?」
「本棚の一番下に入ってたのよね。どう見ても古書には見えない真っ白な本が。……本当に、そこにあったの?」
「いや、だから、あったんだって。一冊分だけスペース空いてただろ?」
「それは見た。でもアタシ、そんな本があの部屋にあったなんて今まで全然知らなかったのよ。他のみんなにも聞いてみたんだけど誰も気づいてなかった。そこまで目立つ本なら、誰かひとりは『そういえばそんなのあったな』ーって言うかと思ったのに、だーれもいなかったの」
「……マジで?」
 そんなバカな。
 リスタが本を書き写してる姿は何度も目撃されてたから、当然、元の本のこともみんな知ってるだろうと思ったのに。
「それにね、ナイツ。今回聞かせてくれた話が全部本当だとしたら、リスタちゃんとあの男のファーストコンタクトっていう、超重要な話よね。それだって誰も知らなかったのよ。アンタ、そこまではっきり目撃してたんなら、どうして今まで誰にも話さなかったの?」
「……あ。」
 そういえばそうだ。
 奴の横暴ぶりは誰もが知っていたはずなのに、いつから何故この店に居着いたのかというとても大事なことをオレは、誰かに訊かれた覚えもなければ積極的に話した記憶もない。
 いったいどうなってるんだ?

 口封じ。
 呪いの視線。
 墓の下まで持って行くはずだった秘密。

 思い返すたびに、一通り巡った回想をもう一度なぞり直すたびに、引っかかるキーワードが増えていく。

「あの本は……あの歌は、何だったんだろうな……」
「歌?」
「……あー、オレが描いたの見せただろ。あの記号。そういやあの辺の話にあたる部分、書き直された方の話には入ってなかったような気がするんだけど」
「言われてみれば……」

 消えた本。
 行間の空白。
 五線譜によく似た形をした記述。


 一つの物語の始まり。
 何かの物語の終わり。


 オレは思った。
 白い本を巡る一連の事件は、不可解な点も多いけど、結局は既に終わったことだ。謎を解く手がかりの多くは失われたし、ことの顛末を一番よく知っていそうな人物は長いことオレと対立中だから、疑問がなくなる日は永遠に来ないかもしれない。でも仕方ない。終わったんだから。
 でも、あのとき聞いた歌声がもしオレの想像通りのものだったとしたら――それだけはもしかしたら取り戻せるかもしれないから、もう一度聴いてみたい。

 恨みを歌い不和を願い復讐に燃えるアリアでもなく。
 神の庇護を失い悲劇に堕ちた友へのレクイエムでもなく。

 できれば、幸せに満ちあふれた喜びの歌がいいな。


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