[ Chapter1「不本意な福音」 - C ]

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 二学期初日、朝の天気は快晴だった。
 青空にひとつ取り残された綿雲の下、制服姿の子どもたちがそれぞれの学び舎へと向かう。交わされる挨拶に過ぎた日への未練が時折混ざった。
 サイガは混雑のピークを迎えた通学路を歩いていた。学生服の黒いスラックスと白の半袖シャツは夏休み中も頻繁に着ていたため、袖を通した時点ではまだ休み明けという実感はなかった。ようやくそれを感じたのは、二車線道路をまたぐ歩道を渡る途中のことだった。
「おい、サイガ! 昨日のメール無視しただろ!?」
 わめきたてる声を突然背中にぶつけられ、サイガは驚いた顔で振り向いた。
 すぐ後ろを歩く同じ制服の集団に見知った男子生徒がいた。痩せ型で体つきも顔も小さく、見開いた大きな目だけがやたらと目立つ。
「なんだ、沼田か。おどかすなよ」
 同級生の沼田次郎(ヌマタ・ジロウ)。サイガと通学路は共通するが部活は違い、他の用事でもほとんど接点がなかったため、このカエルのような顔を登校中に見たのは久しぶりだった。
 最初の再会。しかしそれは平穏な日常の再開を意味しなかった。
「こっちは心配してたのにさぁ! あの事故のニュース、やっぱりお前んちの、あだっ」
 サイガににじり寄った沼田が、後ろから現れた大きな手に頭を叩かれた。
「バカ、声がでかい」
 割り込んできたのは骨張った顔の男子生徒。彼もまたサイガの同級生だ。名を池幡信吾(イケハタ・シンゴ)といい、仲間内では沼田との腐れ縁で知られている。
 その池幡から沼田の非礼を代わりに謝られたが、サイガの心には半分も届かなかった。二人の口論を聞いた生徒たちの視線を背中に感じてつぶやく。もう遅い。
「えー、どうせみんなもう知ってるからいいじゃん……」
「場所考えろ。あとメールぐらいでガタガタ言うな、女子かお前は」
 遠く異国で起きた自動車事故の話題は、まずその派手さと悲惨さのために全世界へ配信され、現場で撮影された事故直後の映像が人々の注目を集めた。しかしその悲劇に日本人が巻き込まれていたと判明した途端、日本のメディアだけがより大きく騒ぎ出した。追加の情報を集めて即報道。各地のテレビとラジオが番組を通して概要を取り上げるのと並行し、より多くの情報がインターネット上に拡散された。
 たとえば、不運な男が一時期国内で注目を集めた若手の洋画家であること。
 たとえば、その男が頭角を現した頃から数々の浮き名を流していたこと。
 たとえば、その男が何年も前に家出人として探されていたこと。
 とりわけ被害者の母校である季花(キノハナ)高校の生徒達は、もっと踏み込んだ情報をメールやBBSなどでささやきあった。地元において彼は昔から名声も悪名も轟かせていた上、その息子もまた、学校内では誰もが知る有名人だったからだ。
「なーなーサイガ、お前の母ちゃん向こうに行くんだろ? 今日? 何時間かかるの?」
「知らねーよ……」
 懲りない沼田の質問攻めにサイガは早くもうんざりしていた。うるさい質問者が池幡の腕力で引き剥がされたのを声で判断し、ほっとしたところで、脇道から現れ近づいてくる人に気づいた。
「サイガ、おはよう」
「……おう」
 自分の隣に並んだ顔を見て、サイガは普段の挨拶を一瞬忘れた。
 平凡な髪色と髪型、おとなしく気弱そうな人相。細いフレームのメガネもさほど目立たない。田坂実隆。サイガの十年来の親友、そして多分、恋敵。
 サイガは今さらになって、自分が昨日失恋したことを思い出した。
「顔が青いよ。大丈夫?」
「は? 全然なんともないんだけど」
 これは部分的に嘘だ。体はどこも悪くなかったが、心が冷気に包まれ沈みかけていたのが顔に出ていたのだろう。しかしその原因に直結する相手に正直なことは言えない。
「無理してない? 事情が事情だし、先生に言えば始業式休ませてくれるかも」
 実隆は不調の原因を例のニュースだと思っているようだった。
「だから俺はなんともないって」
 表情から心配が消えない実隆と、それを否定するサイガ。二人の行く手、立ち並ぶ住宅の合間に、校舎の屋上を囲むフェンスが見えてきた。


 気まずい再会があったのと同じ頃。
 雨宮(アメミヤ)まりあは季花高校の職員室脇に立っていた。
 廊下は騒がしい。大勢の生徒が職員室のすぐ隣にある昇降口を通り、その正面にある階段を登っていく。
(ああ、なんだか緊張してきました)
 まりあは自分の胸元に視線を落とした。真新しいセーラー服は襟にまだ糊が残っているのか手触りが固く、紺色のスカーフの表面には光沢がある。
 右手をそっと胸に当て、スカーフの結び目とその下の白い布地をまとめて握り締めると、小さく硬い感触があった。それが鎖に通して首から下げた銀色のメダルであることを彼女は知っている。大切な宝物を握ったまま、ひとつ深呼吸をして、つぶやいた。
「どうか私をお守りください。それから、この学校で出会うひとたちと、良い関係を築いていけますように」
  雨宮家はニュータウンに最近建造された高層マンションの一室に先月引っ越してきた。一人娘のまりあは新居から最も近いこの高校へ転入し、今日ついに初登校の日を迎えた。これから同級生たちとの初対面に臨むという場面なのだ。
 そして今、彼女は担任の教師を待っていた。すぐ戻ると言われてからどれだけの時間が経ったか。昇降口から人の声が聞こえなくなっても、他の教師たちが次々に職員室から出て行っても、肝心の人だけがなかなか出てきてくれない。
 待つこと三十分。職員室から最後に出てきた若い女性がまりあに声をかけてきた。
「おまたせ〜。雨宮さん、行きましょ〜」
 ようやく現れた待ち人は、髪も服装も表情もふわふわしていて、そこだけ時間の流れが遅れているような雰囲気をまとっている。その人、国語教師の根本(ネモト)先生は丸っこい文字で「1-3」と書かれたファイルを小脇に抱え、昇降口前の階段の方へまりあを誘った。
「三組の教室はすぐそこなの。静かに上がってね〜。みんなをびっくりさせたいの」
 根本先生に続いてまりあも階段を登った。踊り場で折り返し二階へ上がると、正面には大きな掲示板、その両脇に教室の扉がある。向かって右が一年三組だという。
 まりあは東西に長い廊下を見回し、ふと、後ろの階段へ振り返った。
 誰かの視線を感じたような。
 実際にはそんなことはなく、すりガラスの窓がぼんやりと踊り場を照らしているだけだった。首をかしげるまりあに根本先生が小さく手招きした。
「こっちこっち〜。そ〜っと来てね」
 先生は階段に近い扉の一つ右隣を開けようとしていた。
 まりあはすぐに先生を追いかけた。廊下を挟んで向かい、階段の隣にある部屋のドアが、栗色の髪の小柄な少女をガラスに映す。室内を隠す厚手のカーテンと「生徒指導室」のプレートを彼女が目にする間に、教室内のざわめきが急に大きくなった。
「はいは〜い、おはようございま〜す。皆さん、夏休みは楽しかったですか〜?」
 素直な本音と“子供扱いするな”が入り混じった「はーい」の唱和が聞こえてきた。呼びかけた根本先生はのんびりした調子で一通りの連絡を読み上げた後、一度廊下側に戻り、再度まりあに手招きした。
 今度こそまりあは教室の前に立った。
 足を踏み入れた瞬間、無数の顔が視界に飛び込んできた。六列に並んだ席のほとんどが埋まっていて、男も女も混じった大勢が、教壇の端に立った転校生に注目していた。
 ただ一人だけ顔を上げない生徒がいた。まりあは真鍮色の髪がひときわ目立つその人がなんとなく気になったが、凝視してはいけないような気がして目をそらした。
「さて、始業式に行く前に、三組の新しい仲間を紹介しますよ〜」
 挨拶を求められた途端、まりあは頭が真っ白になった。事前に多少は考えていたはずの自己紹介が全然思い出せない。結局、名前だけ言って頭を下げるのが精一杯だった。
 最初からつまずいたかもしれない。
 でも、最初はこんなものでいいという神様の導きかもしれない。
 気を取り直して顔を上げたまりあに、根本先生が教室の後方を示した。
「雨宮さんの席は、一番後ろ。堀内(ホリウチ)さんの隣ね〜」
 教壇から見て左、廊下側の一列目に空席が二つあった。最後尾とその二つ手前。まりあが自分の席だと指定された場所を見ると、その真横から隣席の女子生徒が身を乗り出し、全力で手を振っていた。