[ Chapter1「不本意な福音」 - D ]

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 ホームルームと始業式の後に再びホームルームの時間があり、夏休みの宿題の回収などが行われて、その日の一年生のカリキュラムは終了した。
 掃除当番以外の生徒のほとんどは早々に教室を後にする。帰宅する者や他の教室に顔を出す者、部活へ行く一団など、一学年六クラス分の足音が交錯する二階の廊下は賑やかだ。
 サイガも本当はその中に混ざって水泳部の部室へ行きたかった。しかし現実が味方してくれない。ただ一人呼び出されていた生徒指導室で、体育教師の小森谷(コモリヤ)先生による長い説教が待ち受けていたのだ。
「本来なら始業式の出席も認めないところだが、先生方は目をつぶってくださった。頭髪検査でもわざわざ問いたださなかった。それがどういう意味か分かっとるのか!?」
 太い筋肉ばかりの巨体にスキンヘッドが似合いすぎるこの教師は、生徒たちに陰で“殺し屋”と呼ばれ恐れられている。授業以外では柔道部顧問と生活指導担当の兼任で知られ、今回の呼び出しはもちろん後者の仕事だ。風紀を乱す染髪を何度注意してもやめないサイガは、入学式以来ずっと先生から目の敵にされていた。
(一学期よりは明るさ落としてるだろ、これでも俺なりに譲ってんだよ)
 サイガは夏休み前半までの黄色い髪を思い返しつつも口を固く閉ざし、冷房のない部屋で暑苦しい男に頭を下げ続けた。
 最初のうちは壁の向こうの賑やかな声がBGMだった。背後のドアを開ければすぐ目の前にサイガの所属する一年三組の教室がある。掃除当番の連中が騒いでいたのか、それとも今日入った転校生を囲んでいた女子生徒たちがまだ帰っていなかったのか。だがしばらくすると急に声が小さくなり、背景の主役は蝉の声に取って代わられた。
 苦行に耐えること十数分。説教のネタが尽きたらしい先生からようやく退出を許され、サイガは逃げるように生徒指導室を脱出した。ドアを閉めて一息ついてから顔を上げると、ちょうど一年三組の教室から出てきた生徒が目の前を通り過ぎていった。
「……幹子?」
 サイガにとっては見間違えようのない顔だった。
 一瞬だけ目にした表情はどこか思い詰めたように見えた。
 首の後で束ねた黒髪を揺らし、彼女が急ぎ足で向かっていった先は、上り階段。
『私……好きな人がいるんです』
 昨日聞かされた言葉がふと脳裏をよぎる。なぜそれが浮かんだかもわからないまま、サイガは気がつくと幹子の後を追っていた。
 二年生だけが行き交う三階。
 上だけを見て進む後ろ姿を静かに追跡する。
 三年生を見かける四階。
 どんどんテンポを上げる足音に引き離されないようついていく。
 廊下を通って、さらに上へ。
 校舎内に三箇所ある階段のうち、四階東端の美術室に隣接した一箇所だけが、屋上の出入口までをつないでいる。屋上へ続く階段は『立入禁止』の札を吊るした黄緑色のロープで封鎖されていたが、幹子は迷わずそれをくぐり、美術室からあぶれた画板や彫刻を避けながら階段を駆け上がっていった。
(ん? ……このロープ、こんな色だったか?)
 記憶の中にあるのはよくある警告の黄色。
 そういえば、とサイガは顔を上げた。
 白いはずの壁が今は何故か青みがかった色に見える。
(なんだ、これ。気持ち悪い……)
 それでも立ち止まっている場合じゃない。サイガがロープのすぐ手前まで近づくと、ドアを閉める音が頭上から聞こえた。誰が音を立てたかはすぐ想像がついた。
 山積みされた障害物を飛び越えて最後の階段を登る。踊り場を経由して最上段までたどり着いたサイガは息を潜め、屋上と校舎内を隔てるドアの内側に貼り付くようにして座った。
 俺は一体何やってるんだ?
 心の中から自分に問いかける声を階下に投げ捨て、耳を澄ませた。
「お待たせ。掃除当番、ちょっと時間かかっちゃって。遅くなってごめんなさい」
「ううん、気にしないで。僕もさっき来たところだから」
「そっか。それで実隆くん、大事な話って何?」
 サイガの心臓が二回飛び跳ねた。
 一回目は幹子に返答する声を聞いたとき。
 二回目は幹子がここへ来た理由を知ったとき。
 音を立てないよう注意しながらゆっくりと息を吸い、次の言葉を待つ。しかしサイガが聞いたのは会話の続きではなく、小さな悲鳴と、何か重たいものが落ちたような音だった。
 そしてドアの向こうからの一言が続いた。
「盗み聞きとは感心しないね」
 サイガはすぐにその場を離れ、回れ右をして足を止めた。ちょうど同じタイミングで、外開きのドアが音もなく開いた。
 目の前に実隆が悠然と立っていた。
 その足元で、幹子が横を向いて倒れ、動かなくなっていた。
「お前……何した!?」
「気絶させただけだよ。騒がれたら困るし。それにもう用済みだからね」
 実隆は指先でメガネの傾きを直しながら答えた。当然のことを語るような口ぶりは、サイガがこれまでの付き合いの中で一度も耳にしたことのないものだった。
 驚きと同時に、強く深く、怒りが湧いてくる。
「この野郎っ……!」
 サイガは実隆に掴みかかった。しかし伸ばした手が届く前に、実隆の細い腕が軽く振るわれた。直後、サイガは突然バランスを崩し、肩から屋上の床に倒れて転がった。
「うわ熱っ!」
 ゴム製の素材に覆われた床は太陽熱をたっぷり吸い込み、素手で触れないような温度になっていた。肩肘から熱源に触れたサイガは思わず叫び、飛び跳ねるように起き上がった。
「どうした実隆! 今のお前、絶対何か変だぞ!?」
 呼びかけてから、親友の不審な点に気づいた。
 顔が異様に青白い。
 それだけではない。今さっきサイガの手を受け流した腕も、着ている半袖ワイシャツも。屋上の西端に置かれた貯水タンクも、快晴の空を覆う雲も。目に映る全てが青い。
 世界が、不気味なほど、青い。
「な、ん、なんだ、これ……」
「知らなくていいよ」
 サイガが声のした方へ振り向いた瞬間、額と両目の間を握り拳が直撃した。
 よろけたところへ、踏み込んできた実隆がもう一発を繰り出してきた。間髪入れずに次は足を振り抜く。その動きがあまりにも速く、受ける方は反応が追いつかない。
 しかもサイガは先ほどの説教地獄で体力を消耗していた。直感と運動神経だけでは攻撃を止めきれず、ついには転落防止用のフェンスの手前まで追い詰められてしまった。
「な、実隆、マジで何なんだよ今日は。俺、お前に何か恨まれるようなことしたか!?」
「してないよ。君は何も悪くない」
 実隆が至近距離まで近づき、サイガの襟元を両手で掴んだ。
 眼鏡の奥で青い炎が静かに燃えている。
「理由なんて話してもきっと理解できないから。君はただおとなしくしていればいいよ」
 感情のない声でそう告げると、実隆は腕をまっすぐ伸ばした。
 サイガが背中で感じていた金網の感触が突然消えた。押された体がゆっくりと後ろの空間へ傾いていく。フェンスを支える左右の柱の間、一区画分だけがいつの間にか外れていた――今の今までサイガを支えていたはずの一枚だけが。
 屋上の外周が見える。自分の頭の真下に何があるか、サイガは想像したくもなかった。
「実隆……!」
『無駄だ』
 必死の呼びかけが、全く違う人物の声に遮られた。
 鼓膜を飛ばして直接骨に響くような重く低い声だった。
『貴様の力だけで敵う相手ではない。下がっていろ』
 下がるってどうやって。
 サイガは口に出したはずだった。しかし自分の声が聞こえない。
『黙れ』
 命令調の重厚な一声に背筋が震えた直後、サイガの意識は途切れた。