[ Chapter1「不本意な福音」 - E ]

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 校舎の最上階と屋上が、青いスモッグのようなものに覆われている。
 不気味な光景に人間たちは気づかない。
 波紋で編んだような翼を持つ人物が、離れた位置から屋上の様子を観察している。
 屋外プールの真上で浮遊するその姿に人間たちは気づかない。
(間違いない。結界だ)
 フードの下から覗く目は今、ふたつの世界を同時に見ている。
 人間をはじめ種々の生物が暮らす空間、そこに起こる事象の全て――素粒子の集合体である“物質”の世界。
 生物に命を、事象に秩序を、そしてあらゆるモノに運命をもたらす――大いなる力が統べる“霊魂”の世界。
 両者は常に重なりあって存在し、互いに影響を及ぼしあうが、接してはいても交わるわけではない。このため物質によらず生まれた霊的存在、つまり後者の住人が物質に直接触れることはできない。しかし隣の世界に興味を抱いた住人たちが長年にわたって研究を積み重ねた結果、不可能を意図的に覆す手段がいくつか生み出され、後世に伝えられてきた。
 その手段の一つが“結界”だ。霊的空間に作った特殊な力場で物質界の空間を囲い込むと、その内側は周囲から切り離されると同時に双方の世界の隔たりが薄れ、物質界の厳格な法則(ルール)を無視して生物や現象に干渉できるようになるという。しかし空間を歪ませる技術自体が容易なものではなく、力場を維持した上でさらに干渉を加えるという器用な制御も求められるため、この技法を習得できるものは限られているはずだった。
(それが使えるほどの大物がいるようには見えない。こんなところで誰が、いったい何をしているのか)
 観察者の視線の先。
 校舎全体を飲み込む勢いで広がり続ける青色は、空間の変質がそこを通る光までねじ曲げた結果として生じたものだ。結界には必ずこういった余計な現象、いわば副作用が伴い、発生する現象は結界の作成者ごとに概ね決まっているという。つまり青く染まった範囲が物質界に割り込んできた何者かの支配下に置かれていることになる。
 そんな異常な場所と化した屋上で、男子生徒らしき二人による取っ組み合いが進行していた。一方は金髪と浅黒い肌が遠巻きでも判別できる。もう一方は黒髪で日に焼けていない。体格に優れる金髪の方が一見有利だったが、その動きは明らかに精彩を欠き、争いの主導権を完全に奪われていた。
 やがて地味な方が屋上の端まで相手を追い詰めた。彼の足元では青い炎が揺れていた。それは床を焦がさず、踏まれても消えず、次第にその生徒の全身を飲み込んで燃え上がった。
 炎はさらに広がり、ついには相手の背中へ回り込んだ。そしてフェンスに絡みつくと、屋上と校庭を隔てていたうちの一枚を瞬時に焼き尽くした。
(あっちのおとなしそうな方が結界を……いや、操られているだけだ。術者は別の場所、恐らくこの近くにいる)
 傍観者の確信の先。
 争いの敗者が体をフェンスの外へ押しやられた。見るからにうろたえている。最初は両足で屋上に踏みとどまろうとしていたが、急に突き飛ばされ、空中に放り出されてしまった。
 次の瞬間、屋上を包むスモッグが大きく震えた。
 そして空間を染めていた鮮烈な青が、急激にその色を失い始めた。
(結界が解かれた?)
 副作用である青色の消失は、結界の作成者がそれを維持できなくなったことを意味する。外界とのつながりを取り戻した空間は物質界の秩序を取り戻すはずだった。
 ところが今回はそれだけで終わらなかった。青色どころか他の色まで薄れていき、屋上が今度は色あせた写真のような世界へと変わっていったのだ。
(違う。結界が、書き換えられた)
 人為的に不安定な状態を作り出しているのだから、同じ技術を習得した他者がいればその不安定に乗じて自分の力をねじ込むことも理屈では可能だ。色の変化は術者の交代、結界を維持する力場の種類の変化に伴う副作用だろう。しかし結界の奪取を仕掛けたとおぼしき人物は周辺に見当たらない。
 観察者が空間の変色に気を取られている間に、結界の中では形勢が逆転していた。落下したはずの生徒がいつの間にか屋上へ戻り、今の今まで空間を支配していた側が取り押さえられていた。しかも襟首を掴む左手一本だけで動きを封じられている。
 双方は一言ずつ何かを話したようだった。直後、金髪の方――色を失った結界の内では白銀にも見えた――が相手を反対側のフェンス際、観察者から見て奥の方へ軽々と投げ飛ばしていた。
 今度こそ勝敗が決した。
 青い炎は失われ、それを宿していた生徒は倒れたまま動かない。一方、まだ立っている方はゆっくりと屋上を見回した後、フェンスの向こう側へ顔を向けて、
「そこで何をしている?」
 観察者の目の前に現れた。
 無色の翼が雨の日の水たまりのように震えた。観察者はローブを翻して後退し、そして気づいた。
 自分の周囲からあらゆる色が奪われていく。
 結界に取り込まれた。そう悟ったとき、傍観者は既に当事者になっていた。
「やはり“天使”か。だが警邏(けいら)にしては装備が薄い」
 争いの勝者が口にした言葉に、言われた当人は驚かない。大いなる力の根源に仕える、物質によらない生命体のひとつ。その一般的な呼び名だ。
 しかし波紋の翼を持つ天使は、こちらを観察してくる相手の姿に驚いていた。外見は確かに先ほど屋上から落ちかけていた生徒の姿そのもの。なのに、色を失った空間の中心にいながら、その両目は黄金色の輝きを放っていた。
 そして相手はこちらと同じように、空中に浮いていた。
 墨で描いたような、薄く荒いつくりの翼を、その背に広げて。
「まだ役にも就けぬ見習いが上の命令を無視して単独で出歩いている。違うか?」
 それは否定することのできない問いかけだった。
 返答として無言を選んだ天使は、ローブの内側に備えていた護身用の武器に手を伸ばした。しかしそれを構える直前、しびれるような感覚が全身に広がり、視界が揺らいだ。
「今更戦闘態勢を取っても遅い」
 気づくと黄金色の目が再び至近距離に迫っていた。しかも相手は左手を頭上にかざしている。逆手に握った短剣の刃が銀色にきらめいた。
 切っ先を下にした短剣が振り下ろされた。
 観察者はローブの裾を払って両手を突き上げた。
 強い衝撃とともに純白の火花が散った。
 真正面からぶつかり合った両者は、ほぼ同時に互いの手元を見て、眉をひそめた。
「悪くない反応だ」
「それはどうも」
 振るわれた銀色の短剣は、天使が取り出した白い小銃の側面に刺さり、止まっていた。
 黒翼の襲撃者は刃を引かなかった。
 白ですらない翼の持ち主は銃を握り直した。
 噛み合った二つの武器が小刻みに揺れる。持ち上げられた刃が銃身の表面を削る間に、銃口が側面を上にしたまま強引に正面へ向けられた。
 震える指が引き金を引いた瞬間。
 小銃の側面に亀裂が入り、光があふれた。

 流れる方向を誤った火力が爆発するように拡散した。
 天使は思わず手を離した。
 目の前で黒き翼が渦を巻き、その形状を失いながら消えていった。

 世界があらゆる色を失う。
 視界の中心に、手を伸ばす誰かの影が、見える。
 あるはずのない幻影が見える。

 世界にあらゆる色が押し寄せる。
 結界の掠奪者が、破られた結界の隙間から、落ちていく。
 青く塗られた地表へ落ちていく。

 高い水柱が上がる音を聞いて、未熟な天使は我に返った。そして自分と武器を交えた相手が何者だったかを思い出した。
 遠巻きに観察していた間、それは結界の内側でただ翻弄される存在ではなかったか。
「……しまった」