[ Chapter2「未熟者、地上に立つ」 - A ]

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 そこは古来より人の世と隣合わせに存在している王国。
 天の国。常世の国。永遠の楽園。神々の居所。その場所は様々な呼び名と表現によって人々に認識されている。そして清浄なる光に満ちた希望の地として常に誰かが想像し、ときに幻視し、崇めてきた。
 しかしその国は、霊的素子(エーテル)で構成された世界の中では一部分、ひとつの勢力にすぎない。“彼ら”はかつて袂を分けた宿敵、人間がしばしば闇と結びつけて語るもうひとつの勢力と、長きに渡り争い続けていた。
 その世界の根源たる存在に仕える、いわゆる天使と。
 その世界の秩序を嗤い反旗を翻す、いわゆる悪魔は。
 今この瞬間も幾多の火花を散らし合っている。
 数多の命を砕き合っている。

「つまり貴方はその少年を水中から助け出そうとしたものの失敗し、救援を呼ぼうともせず、最終的にはそのまま逃げ帰ってきたのですね?」
 甘く優しい声で投げかけられた辛辣な一言が、若き天使を硬直させた。
 季花高校上空で青い結界に遭遇し、そこにいた黒翼の持ち主と一戦を交える羽目になった、あの波紋の翼の天使である。彼は窮地を脱した直後に物質界を離れ、自身が所属する訓練学校に戻っていた。しかし一息つく間に一連の騒ぎを学校側に把握され、クラス担当の教官から呼び出されたため、教官の居室におとなしく出頭したのだった。
「貴方が起こした事件の概要は分かりました。改めて確認します」
 見習い天使の前には大きな机があり、向かい側に教官が座っていた。その背には光を集めて織り上げたような白翼が輝いている。優美な造形だが、今にも消えそうな脆さは全く見られない。
 天の軍勢に連なる一人前の戦士と、経験不足の訓練生。翼の形状の違いこそ彼らの階級、そして実力の違いを表すものだった。
「まず、貴方は何のために物質界を訪れましたか」
「教官から出された課題の題材を探すためです」
 穏やかな問いかけに、抑揚の少ない即答が返される。教官は手元の書類と正面の教え子を交互に見ながら質問を続けた。
「私が出したどの課題でしょうか」
「人間の生態観察のレポートです」
「その課題には『必ず二名一組で行うこと』という条件をつけていたはずですが、貴方と組んでいた相手はその場にいましたか」
「いいえ」
「ではどちらに」
「その時どこにいたかは知りません。物質界に渡ってからしばらくは一緒にいましたが、『悪い気配がたくさんいるからやめよう』と言って勝手に引き返しました」
「でもあなたは“こちら側”へ引き返さなかったですよね」
「はい。悪い気配の正体が人間の抱く悪意と判ったので、観察を始めました」
「なるほど」
 教官は身じろぎもしない訓練生を見上げた。
「次に、結界について。課題の対象でもないものを観察していた理由は」
「追っていた人間が結界内に入っていったからです」
「復習しましょう。結界術を扱うための要件は」
「天の軍勢においては第六階級以上、また霊的素子(エーテル)制御の技術が一定の水準に達すると認められる者。敵の軍団でも同様と推測されている」
「よく出来ました。貴方が今まさに説明した通り、結界の使用者には味方も敵もいます。目撃したものがどちらに属するか、その場で確認しましたか」
 よどみなく返答を続けていた訓練生の口が急に止まった。
「あなたがたは戦闘員ではありません。敵を見かけたら近隣に配置された守護天使に報告し、直ちに退避するように、とも言ってあったはずですが」
「……はい」
「しかし貴方は報告もせず、非常に近い距離に留まり続けたことになりますね。危険だとは考えなかったのですか」
 訓練生は口を閉ざした。
「実際、敵のひとりが貴方に気づき、襲いかかりました。退けることができたのは整備不良の武器が誤作動を起こしたため、つまり、ただ運が良かっただけです」
 口は開かれない。
「どうしてひとりきりで立ち向かおうとしたのです。私は周辺の味方へ助けを求める方法も指導しましたよね」
 口は開かれない。
「勝手な行動をとがめられることを恐れたのですか」
「違う」破裂するような即答が返された。「そんなことは考えもしなかった」
「目の前の出来事に気を取られて周りの様子など見ていなかった。違いますか」
 訓練生はうつむいた。
 教官は言葉の調子を変えずに続いた。
「貴方は実戦経験のない未熟な天使です。口伝や書物を暗記するだけでは得られない様々なものを今ちょうど学んでいるところですよね。今回の一件で、私達の戦いにおいて単独行動がいかに危険か、身を持って知ったことと思います」
 訓練生の視線が不安定に揺れ動いた。
 教官は表情に苦味をにじませながら話を続けた。
「課題の作成はもう結構です。……よく聞いてください。もしもこれから貴方が素晴らしいレポートを書き上げたとしても、その結果は不必要な危険を冒して手に入れたもの。天の軍勢の一員としてはそれに良い評価を与えるわけにはいきません。不合格です」
 最後の一言は、宣言だった。
 揺れていた視線がピタリと止まった。それきり動きも止まり、顔を上げようともしない訓練生に、教官は再び柔らかく語りかけた。
「ところで、先ほど貴方が経緯を説明した際、一度だけ何かをためらったように感じました。本当はまだ何か話していないことがありますね。今のうちに教えていただけませんか」
「……それは……」
「残念ながらレポートの評価は覆せません。ですが、貴方が今秘密にしたものが原因で何か別の問題が起きたとき、知らないせいで私は貴方をかばいきれなくなるかもしれない。ですから私は教え子の身に何が起きたのか、できるだけ詳しく知っておきたいのです」
 訓練生はうつむいた姿勢からゆっくりと前を向いた。
 目の前にいる教官はすべてを包み込む構えを表情で示していた。
 再び訓練生の視線が下がっていく。
「実は……武器が暴発する瞬間に、奇妙な幻覚を視ました」
「幻覚?」
「全身が何かに貫かれたような錯覚の後、どういうわけか、教官の姿が見えました。セラフィエル教官が何かに手を伸ばして、泣き叫ぶ姿でした」
 教官の顔から感情が消えた。
「幻覚で相手を惑わす技能が存在することは以前に教わりました。その時見たものがそれだったのか、どうして教官が出てきたかは不明ですが、こちらの動揺を誘うための攻撃だったと判断したので話すことをやめました」
「そのことを他の誰かに話しましたか」
「いいえ」
「確か先ほど、結界の中では色を認識できなくなったと言いましたね」
「えっ……はい」
「分かりました」
 教官は椅子に座り直した。背の両翼が少しずつその高さを下げていった。
「ここは天使を育てる場所。貴方がここに生を受けた以上、能力に見合った役割を果たせるようになっていただきたい、と私は考えています。たとえルール違反を繰り返す危なっかしい訓練生でも、できれば切り捨てることなく、一人前の戦士として送り出したいのです」
 表情を曇らせながら恐る恐る顔を上げた訓練生に、教官は告げた。その眼差しからはレポートに厳しい評定を下した時の苦渋が消えていた。
「そこで、貴方が今回落とした点数だけでも取り戻せるよう、特別な補習プログラムを用意します。その代わり今の話、特に幻覚の話は、決して誰にも話さないようにしていただけませんか」