[ Chapter2「未熟者、地上に立つ」 - B ]

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 水底に沈む夢を見た。
 誰かが上から手を差し伸べていた。
 その手を取ろうとしたら、別の誰かに後ろから首を掴まれた。
 抵抗できないまま、より深く、引きずり込まれていく――

「起きなさい! いつまで寝てるの!」
 布団ごとひっくり返され畳に頭を打った痛みでサイガは目を覚ました。
 こんな起こされ方の直後に何事もなく立ち上がれるわけがない。頭を押さえてうずくまるサイガの頭上で、奇襲攻撃の実行者が現在時刻を告げてきた。
「五時半って……まだ時間あるじゃねーか」
「今から五分で着替えて、洗濯機回しておいて。サボったら音でわかるから。よろしく」
 菜摘は弟の抗議を無視し、言うだけ言って部屋を出て行った。
 姉の足音が聞こえなくなった頃、ようやくサイガは起き上がった。ぶつけた頭と二の腕がまだ痛い。命令がなくても二度寝する気にはなれなかった。
 しかもあんな夢を見た後だ。
 思った時には、サイガは既に夢の内容を半分しか思い出せなくなっていた。
(誰かに何かを言われたような……いいか、どうせ夢だし)
 今は追加の怒りを買わないことの方が大事だ。サイガは着替えずに廊下へ出た。
 自分の部屋――春までは姉との相部屋だった――の隣に台所の入口がある。そこは素通りし、廊下を直進して突き当たりへ。開けっ放しの扉をくぐった先で、洗面台の隣に置かれた旧式の洗濯機が担当者を待っていた。
 洗濯機に家族の衣服、そして目分量の洗剤を放り込み、うろ覚えと直感に頼って起動させる。白い箱がしばらくガタゴトと揺れてから、水音とモーター音の単調な二重奏に切り替わると、その隣に安堵の吐息が転がり落ちた。
 これでもう一度怒鳴られることはなくなった。
 警戒を解いたサイガは、自分の身支度のために洗面台の前へ立った。そして楽になった気分が再び沈んでいくのを感じた。
「マジでなんとかなんねーかな、これ……」
 鏡に映った自分の首に、黒いベルトのようなものが巻きつけられている。
 ぱっと見は首輪、あるいはかろうじてチョーカーと呼べなくもない。しかしアクセサリーらしさを感じさせる装飾は一切なく、それどころか継ぎ目や留め具のたぐいも見当たらない。首の後ろの方は指先で探ってみたが、やはり何も見つからなかった。そんな不思議な、外し方も着け方も一切不明というシロモノが、ちょうど喉仏のあたりに密着しているのだ。
 サイガが謎の装身具の存在に気づいたのは、始業式の日の帰宅直後だった。今と同じ場所で同じように鏡を見たその時はひどく驚いたが、同時に部活の見学中から感じていた首周りの窮屈さに納得がいった。そしてすぐにその邪魔な物体を外そうと試みた。しかし家にあった刃物はどれも全く歯が立たず、首筋に薄い縦線を何度も刻んだ末、ただ疲れただけという結果に終わっていた。
 それから二晩が経った、この朝。
 サイガは顔を洗いながら前日の出来事を思い返し、一つの仮説を立てた。
(もしかして、これ、俺以外には視えてないんじゃないか?)
 問題のベルトは冬服の詰め襟なら何とか隠せそうな位置にある。だが衣替えの時期はまだ先だ。残暑の厳しい時にスカーフやら何やらを巻くわけにもいかず、やむなくサイガは首周りをさらけ出した状態で登校していた。
 ところが、家族も友人も先生も、口にするのはサイガが同じく始業式の日にこしらえた全身のアザの話ばかり。誰一人として首のことには触れなかった。気を遣われていることも疑ってみたが、試しに自分から話題を振ってみても見当違いの反応を返されてしまった。拍子抜け以上に気味が悪い状況が発生していたのだ。
(だとしたらいったい何なんだ、これ。伸びない、切れない、誰にも見えないって……)
 水気を切って顔を上げると、鏡には他の顔も映っていた。
 菜摘がサイガの真後ろで腕組みして仁王立ちになっていた。
「着替えろ、って私言ったよね?」
 口出すのはそこかよ。
 サイガは仮説を不満と一緒に無理やり飲み込んだ。


 登校の時間は何食わぬ顔でやって来た。
 サイガは首輪の謎の解決を先送りにすると決め、逃げるように家を出た。
「顔のアザ、少し良くなってきたね」
 いつもの曲がり角で落ち合った実隆はやはり傷跡の方に目を向けた。
 未解決の謎がもう一つある。サイガの記憶の中では、怪我をさせたのは実隆ということになっている。しかし本人はその日に屋上へ行ったこと、人と待ち合わせしたことを完全に否定した。もし実隆の記憶の方が正しいなら、アザを作った拳は誰のものだったのか。平凡な高校生には手がかりなどとても見つけられそうになかった。
 友人としては、仲違いがなかったことになっているのはむしろ救いだったけれど。
「色はマシになってきたけど、触るとまだ痛い。他のところもだいたいそんな感じ」
「その分だと文化祭や部活には支障なさそうだね。あとは犯人探しがどうなってるか」
「本当にな」
 原因や経緯はともかく、殴られたこと自体は動かない事実だ。その部分をごまかしても仕方ないので、サイガは最初に怪我のことを尋ねた先生に「知らない奴に襲われた」とだけ答え、以降もその説明で通していた。話を聞いた先生は真剣な顔で対処を約束してくれたから、今頃誰かが不審者探しをしているかもしれない。
『真犯人なら既に始末した』
 サイガの脳裏にそんな声の記憶が一瞬浮かんだ。
 そういえば、殴られた後に出会った人物もまた正体不明のままだった。あの時の“予告”通り陽介の容態は安定したが、その後は何も起きていない。首を絞められたその位置に例の首輪が出現したことを除けば。
(……次に会ったら聞き出すか。これのことも、真犯人のことも)
 でもどうしたら会えるかなんて分からない。なんとなく知りたくない気もする。
 気持ちをため息にして吐き出したサイガの隣で、実隆が表情を曇らせた。
「どうしたの。何か気に障るようなこと言っちゃった?」
「そんなんじゃねーよ。ただ……今朝菜摘の機嫌がすっげえ悪くてさ」
 サイガは一連の謎のことを実隆に話すのをためらった。とっさに思い出した姉の話題で場をつなぐ。不機嫌の原因が彼氏との口論にあると祖母から聞かされたことを話し、理不尽な八つ当たりの被害に同情してもらったところで、サイガと実隆は季花高校の正門前に着いた。
「西原! お前ちょっとこっち来い!」
 野太い声による名指しが二度目のため息を生んだ。前を見れば、スキンヘッドの大男が正門の奥から現れ悠々と歩いてくるのが嫌でも目に入る。サイガは実隆を先に教室へ向かわせ、自分は先生に押し出されるように正門の裏側へ連行された。
 先生はサイガの背後に立つと、その肩を突然右腕で押さえて動きを封じた。そして左手でサイガの首筋を撫でながら言った。
「なあ、西原。お前が今ここに着けているモノは何だ?」

 突然視界が真っ暗になり、全身から感覚が消えた。

 サイガの目に再び光が差したとき、あるいは途切れた意識が回復したとき、世界は一変していた。
 登校してきた生徒たちが一人残らず足を止め、何事かとささやき合っていた。
 彼らの視線は、両足を投げ出し仰向けに倒れた小森谷先生に集まっていた。
 先生の頭はサイガの靴先のすぐ手前。そして筋肉の起伏が目立つ右腕は、サイガの左手によって上向きに固定されている。剛毛と汗の混ざった生暖かい感触が手のひら全面にべったりと密着していた。
「うわっ……やべえ!」
 サイガは先生の腕を放り出し、足元に落ちていた学生鞄に気づいてそれを拾うと、全速力で校舎に向かって走り出した。
 何かが起きた。でも何が起きたかさっぱりわからない。
 それでもその場にとどまることが何よりも危険なように思えて、サイガは教室にたどり着くまで、可能な限り走った。振り返るなんてとてもできなかった。