[ Chapter2「未熟者、地上に立つ」 - D ]

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「聞いたぜサイガ! 殺し屋のヤツをぶん投げたんだって!?」
 休み時間の男子トイレに物騒な発言がとどろいた。
 用を済ませて教室に戻ろうとしていたサイガは、肩の上に乗ってきた沼田の手を雑に振り払った。
「またその話かよ……」
 ここで言う“殺し屋”とはもちろん小森谷先生のことだ。大きな体といかつい人相がその筋の人間のようだ、と赴任当時の生徒が評して以来、そのフレーズは先生の影のあだ名として後輩たちに伝えられ、今に至るという。
 その先生とサイガが始業前に正門脇で起こした騒ぎは、当日の二時限目が始まる頃には全校生徒に知れ渡っていた。目撃者の数が多かったため話の改変はほとんど起きなかったが、彼らの証言は尾ひれがつかなくても十分にインパクトのある内容だった。
『小森谷先生がサイガを取り押さえようとしたら、いきなりサイガが先生の腕を掴んで背負投を掛けた』
 しかしサイガ本人にそのような行動をとった記憶は一切なかった。群がる同級生にも「知らない」「気がついたら先生が倒れていた」と言い続けたが、二日前の殴打事件と違って、今回は誰も信じてくれない。物騒かつ率直すぎる発言でサイガを呼び止めた沼田もまた同じ反応だった。
「全然覚えてないなんて、本当はそんなことないんだろ? な?」
「だから本当だって言ってんだろ……」
「それにしてもお前、水泳だけかと思ってたけど、柔道も結構いけるんだな」
「だから話聞けよ。つーか、やったこともねーし」
「え、中学の体育でやんなかったっけ?」
「中学の? あー、選択の奴か。俺あの時剣道だったけど」
「そういやそうだった……って、じゃあ今朝のは何なんだよ! 左手一本であんなキレイに投げんのがまぐれだなんてアリエナイ、ってみんな言ってるぞ!?」
「まあまあ、その辺にしとけ」
 沼田がサイガにつかみかかる直前、池幡がトイレに入ってきた。池幡は声と右手を二人の間に割り込ませ、沼田の袖を引いてサイガから一メートルほど引き離すと、大きな手で沼田の頭を適当に撫で回した。
「サイガにしてみれば、やばい状況だったんだよな。だったら頭真っ白のまんま無意識に何かやったって変じゃないだろ。火事場のクソヂカラって奴」
「そういうもんなのか……?」
「そういうもんさ」
 ようやくサイガ自身も納得できる仮説が出てきた。真偽は分からないし、結局自分が投げたことにはなっているが、狙って投げてはいないという主張を支持してくれただけでもありがたかった。
 が、池幡は自分の用を足しながら、こう付け加えた。
「でも殺し屋本人はそんな風には思ってないらしい」
 サイガは振り向いた。
 池幡は壁を見つめたまま言った。
「さっき隣のクラスで柔道部の部員から聞いたんだけど、あいつ、お前を水泳部から引き抜いてやるって意気込んでいるんだと。それもかなり真剣に」
「それ、マジ?」
「マジ。ちなみに情報提供者はこうも言ってた。『お前に柔道部は絶対向いてない。丸刈りにされたくなきゃ全力で逃げろ』」
「……言われなくても」
 サイガはそっとトイレの入口から廊下に顔を出し、スキンヘッドが見当たらないことを確かめた。


 同日の昼休み。
 まりあは親しくなった同級生たちに連れられて購買部へ行くことになった。
「買うのは今度でいいから。せっかくうちの学校来たんだし、案内だけでもさせて」
 言い出したのはまりあの隣席に座る女子生徒、堀内依子(ヨリコ)だった。ただし転校生への親切は大義名分で、昼食を一人で買いに行くのが寂しいからついてきてほしかったようだ。まりあは本音をなんとなく察したが、それほど気にはならなかった。
 大義名分に釣られた数名の女子生徒とともに、二人は一年生の教室が並ぶ二階の廊下を西へ歩いていた。
「体育館側の階段が一番近いのよ。購買部の窓口は階段降りて左のところなんだけど、昼休みだけは外にテーブル出してるからみんなそっち行くの」
「お昼休みだけ、ですか?」
「そう。毎日すっごく混むんだから。特に男子がねえ、昼休み待てないでお弁当食べちゃうやつも多いし、買い占めるし……」
 大きな口がよく動く。話題が一度不満に舵を切るとますます止まらない。まりあは依子の多弁ぶりにやや圧倒されつつも相槌を打ち、相手の早足に合わせて階段のすぐ手前までやってきた。
 そこへ、
「ゴラァッ!! 先生の顔を見るなり逃げるとは何事だ!」
 突然の野太い怒声がおしゃべりを吹き飛ばした。
 それは彼女たちの後方から聞こえた。まりあが振り向くと、廊下にいて同じ方向を見ている生徒たちをかき分けるようにして、一人の男子生徒がこちらへ走ってくるところだった。
 蛍光灯の下で輝く真鍮色の髪に見覚えがあった。
 確かあれは同じクラスの――
「待て! まだ話を始めていない! あと廊下は走るな!!」
 大声の主、どこかの教室を訪ねていたらしい小森谷先生が言い終えないうちに、その怒りの矛先はまりあたちの横を通り過ぎていた。
 まりあと依子は一瞬顔を見合わせてから、逃亡者が向かった先へ目をやった。
 彼はすぐそこにある角を曲がるところだった。階段を駆け下りようとする後ろ姿が、すぐ手前を横切る人影に隠された。
 次の瞬間。
 見えていたはずの背中が消えていた。
「……あっ!」
 小さく叫んでから前へ進んだ依子にならうように、まりあは階段のすぐ手前まで駆け寄った。しかし降りることはできなかった。

 人が階段を転がり落ちていた。
 手足を何度も、そして恐らく頭も打ってから、踊り場に横たわる形で止まった。

「ちょっと、これ、やばくない!?」
「どうしよう、せ、先生! 大変です! 西原くんが……!」
 依子とその友達が騒ぎ出し、追ってきた小森谷先生や他の教室から顔を出した別の先生に助けを求めた。その間に何人かの生徒が階段を小走りで降りて行き、倒れた人を抱え起こしていた。
「サイガ! おい、しっかりしろ! 生きてるよな!?」
「下手に動かすんじゃあない! 今先生が行くからそこで待ってろ!」
「誰か保健室行って先生連れて来い! ……あ、起きた」
「さっきそっちから走ってきて、ここ曲がったところで足滑らせたみたいで、その……」
 呼びかけやら指示やらが飛び交う中で。
 まりあは一人、階段の最上段から動けずにいた。
(今の……誰だったんでしょう)
 依子の声を聞く直前に見たものが、頭の中で繰り返しスロー再生される。
 自分の目の前を横切った人。
 交差直前の一瞬、その人の奥に見えていた、誰かの手。
 背中を突き飛ばすように動いていた両手。
 あれは何かの見間違いだったのか。それとも。
「立てるか? 骨折はなさそうだがいろいろ心配だ、池幡、保健室へ運んでやってくれ」
「分かりました」
 階段に面した教室の先生から指示を受け、生徒たちが動き出す。あるいは散っていく。当事者は大柄な男子生徒の肩を借りて立ち上がり、踊り場を離れる直前、二階を見上げた。
 まりあにはなぜかその顔が、さっきまで倒れていた人とは別人のように見えた。