[ Chapter2「未熟者、地上に立つ」 - F ]

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 車にはねられる夢を見た。
 突き飛ばされる勢いのまま視界が一回転した。すぐに地面が迫ってきて、腹を下にした姿勢で全身を叩きつけられる。
 少しだけ起き上がって前を向くと、正面方向へ走り去る車が見えた。
 と、その車の屋根に誰かが飛び乗った。マントかコートか、広がる何かをその背中にはためかせながら身をかがめ、何かをしたらしい。その後に横へ転がした体が車から落ちるかと思いきや、車の側面へと吸い込まれていった。
 直後、遠ざかっていた車が突然蛇行を始めたように見えた。
 どんどん距離が開いているはずなのに、何故かその様子は常にはっきりと見えていて、目の前で起きているかのように一部始終を見続けられた。途中で左折しようとした車が何かに衝突した瞬間も。止まった車体から煙が上がる様子も。
 空を黒煙が覆っていく。
 最近どこかでそんな光景に出会った気がする。
 あれは確か――

 目を覚ましたサイガの額に水滴がぶつかった。
 口元へ、両の頬へ、髪をすり抜け頭皮へ、相次いで冷たい感触が落ちてくる。顔を上げた時、空は墨色の雲から大粒の雨を降らせていた。
 サイガは全身で雨を浴びていた。
 誰もいない十字路の真ん中に一人立っていた。
(ここは……どこだ!?)
 周囲を見回したサイガはまず舗装の色を見て、それから近くの電柱に記された町名と番地を読み取り、おおまかな現在位置を把握した。知らない場所ではない。高校進学前に何度か遊びに行ったことがある友人宅の外観が頭に浮かんだ。
 しかし過去を懐かしむ心はすぐに流されていった。今日の自分がここまで来た記憶、理由、道順、それらを何ひとつ覚えていないことに気づいたのだ。
(確か、昼休みに殺し屋の奴が教室に来て……)
 小森谷先生の怒鳴り声が耳の奥でリアルに再生される。あのおっかない顔を教室の入口に見た瞬間、身の危険を察して迷わず教室から逃げ出したことはよく覚えていた。
 廊下を走って、階段を駆け下りようとして、何かにぶつかったような気がする。そのせいでバランスを崩して階段を転げ落ちた。それから.。
 それから?
(……何も思い出せねえ!)
 サイガは右手で頭をかきむしり、さらにおかしなことに気づいた。階段に身体のあちこちを強く打ちつけたはずなのに、ほとんど痛みを感じないのだ。
 疑う目で自分の手足を見ると、打ち身らしい痕はいくつか残っていた。しかし履いていたのは上履きではなくスニーカー。左手には学生鞄を握っている。それは間違いなく、いつも通りに授業と課外活動を終えた帰り道の自分の姿だった。
 再びあたりを見回せば、雨雲の端に少しだけ、薄いオレンジ色の空が見える。
(夕方? 下校時間?)
 今は何時なのか。
 目に見えるものだけをつなぎ合わせれば答えは自明だ。しかし頭の中だけが現実についてこない。
(昼休みの後……俺はどこで、何してた!?)
 雨風が頬を叩いた。
 サイガは頭に触れただけですっかり濡れてしまった右手を下ろすと、ワイシャツの脇腹辺りの部分で軽く手のひらを拭った。直後に強い風が吹き、鳥肌が立った。
 とりあえず帰ろう。謎解きはその後でいい。
 決意したサイガが回れ右をしたその時、頭上に青い影が現れ、雨が止んだ。
「……ん?」
 見上げた先に水色の傘の骨組みがあった。
 そして振り向いたばかりの正面には、見覚えのあるセーラー服を着た小柄な少女が立っていた。
 少女はその手に持った傘を差し出したまま、恐る恐る口を開いた。
「あの、……西原くん、ですよね?」
「そうだけど……」
 サイガは数秒迷ってから、あることを思い出した。そして傘を持ち主の方へ押し戻しながら確かめた。
「もしかして、この前来た転校生?」
「はい。雨宮まりあです」
 まりあはほっとした顔になると、改めて名乗りながら傘をサイガの頭上へ掲げ直した。自分の傘を傾けたせいか、栗色の髪には既に細かな水滴がびっしりとついていた。
「西原くんも、こちらの道から帰られるんですね。こんなところでお会いするなんて思っていなかったので、驚きました」
「いや、違うんだ。本当は全然この辺じゃなくて……」
 サイガは首を横に振った。その様子を見上げたまりあは首をかしげている。
 どう言えばいい。素直に今の状況を話すか。でも、気がついたらここにいた、この辺りと自分の家は高校を挟んで向かい側の地区だなんて、言ったところで素直に信じてはくれないだろう。
「あ、そういえば」
 サイガの目が泳いでいる間に、まりあが口を開いた。
「西原くん、お昼休みに階段で転んでいましたけど、お怪我の具合は……」
 目の泳ぎが止まった。
「……なんでそんなこと知ってんだ」
「あ、はい。そのとき、ちょうど私もそこにいて、クラスのかたが西原くんを保健室に運んで行かれるところまでは見ていました。それで、その後、午後の授業に途中から参加されていたので、大丈夫だったのかと心配していたんです」
「えっ。出てたの、俺。授業に」
「ふぇ? は、はい、出ていましたけど……それがどうかされましたか?」
 サイガの頭の中で混迷が深まった。
 昼休み以降の自分に何があったのか。それともついさっきまではなんともなくて、すべてを忘れ去ったらしい今の自分こそがおかしいのか。不思議そうにこちらの顔をのぞき込む転校生にヒントを求めたかったが、今日この場で初めて会話した相手にいきなり変な質問をするのも気が引ける。
 悩んだ結果、サイガは無言で傘の下から離れることを選んだ。
「ちょっと、えっ、西原くん!?」
 制止の声が背中をかすめた気がした。しかし走り出して数歩もしない間に、何も耳に届かなくなった。

 にわか雨が過ぎ去り、濡れた制服が少し乾き始めた頃、サイガはようやく自宅に帰り着いた。
 自分の部屋に入った直後に畳の上へ倒れ、しばらくは何も考えず横になっていた。再び動く気になったきっかけは携帯電話のメール着信音だった。端末を取り出そうと学生鞄を手繰り寄せたが、次第に中を見て探るのが面倒になり、寝転がったまま鞄をひっくり返して中身をぶちまけた。
 すると一冊のノートがサイガの頭を直撃した。
「いってぇ……」
 サイガは右手で頭をさすりながら左手でノートを掴み、適当なページを開いて顔の前に持ってきた。まず目についたのは複雑に入り組んだ大きめの文字。自分の字でごちゃごちゃと書かれた内容が、英語の授業の板書を書き写したものだ、と理解するのに少し時間がかかった。
 そういえば今日の午後にも英語の授業があったはずだ。
 今さらのように思い出しながらページをめくっていった手が、空白でない最後のページの手前で止まった。
「……あれ?」
 今日の日付から始まる、見たことのない筆跡の書き込みが、そのページを埋めていた。内容はやはり英語の授業に関するものらしい。
 サイガはひと通り目を通した。それから青ざめた顔で、ノートを持ったままの手を畳の上に投げ出した。
「何だよこれ……教科書より断然わかりやすいじゃねーか……」