[ Chapter3「路地裏の怪人」 - A ]

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 バー「UNDERWORLD(アンダーワールド)」は私鉄の駅から徒歩二分ほど、雑居ビルの地下一階にある。地味な看板の先には質素な内装。中はそれほど広くない。勤め人たちが夜遅くに訪れ、静かな時間の中でじっくりと酒を味わっていく、そんな店だ。
 営業は午後七時から。だというのに、この日はまだ太陽が沈む前にもかかわらず、カウンター席の中央に一人の客が突っ伏していた。
「浮かない顔だね」
「そりゃもう、今週はホントいろいろありすぎて……柏木(カシワギ)さん、聞いてくれよ」
 面長の顔にあごひげを蓄えた店主、柏木亮(リョウ)はカウンターの中にいる。客に「どうぞ」と促しながら、ふたを閉めたシェーカーを振り始めた。
「なんか俺、変なんだよ。二学期始まってからずっと」
 シェーカーのリズミカルな音を聞きながら顔を上げたのは、サイガだった。
「始業式の日は、なんか実隆がわけわかんないこと言い出したかと思ったら、いきなりボッコボコにされるし。気がついたら俺プールに飛び込んでるし。新人戦は結局出られなくなったし。目標タイム切ってたはずなのにさぁ!」
 この店は決して、高校生が土曜日の部活帰りにふらりと立ち寄れるような店ではない。サイガがこんなところにいて、しかも店主とタメ口で話しているのには、当然理由がある。
 柏木には西原家との間に長い付き合いがあった。まず陽介の親友として。その妻、美由樹の大学時代の同期生として。子どもたちに至っては生まれた日から顔見知りだ。特にサイガは柏木に対して実の父親よりはるかに信頼をおいており、家族や友達に話しづらい悩みは全部柏木のもとに持っていく。柏木もサイガの抱える事情を承知しているので、開店前に限ってではあるが、自分の店に入り浸ることを許しているのだった。
「新人戦のことは残念だったね。でも、もともと文化祭の準備と重なっていたわけだから、先生たちも配慮してくれたんじゃないかな。あっちの練習の調子はどう?」
「まあ普通。でもそんなことより、他にもいろいろ変なことが起きてるんだ。気がついたら人投げてたとか、気がついたら知らない道歩いてたとか、違う教室にいたとか、他にも、えーと……」
「気がついたらというのはつまり、そういうことをした記憶がない、ということかな?」
 よく混ざり合った二種類のシロップをタンブラーに注ぎ、そこにソーダ水を加えて、ひと混ぜする。鮮やかなエメラルドグリーンのカクテルが完成した。
 柏木がタンブラーを差し出すと、サイガはそれを迷わず受け取り、中身を一気に口の中へ流し込んだ。酒は一滴も入っていないので法的な問題はない。
「つまりそういうこと。こんな年でもうボケ始めるとか、俺絶対どうかしてる」
「体の調子は? 頭が痛いとか、めまいがするとか、そういうのはある?」
「別にない。……あ、でも今日、パン食おうとしたら急に腕がしびれて、しばらく動けなくなった」
「それは大変だ。今すぐにでも病院へ行くことをお勧めするよ」
 柏木は心配の表情を浮かべた。
 顔を上げたサイガは真剣な目が視界に入るなり、すぐに視線を逸らした。
「いや、もう正直、そういうレベルの問題じゃなくて……」
「そこまで大げさなものじゃないってこと?」
「全然。つーか、逆」 サイガの声から力が抜けていく。 「なんだろう、正直ヤバイとこまで来てる感じはあるんだけど、さ……その、医者も相手にしてくれない気がする」
 カウンターの向こうで柏木が小さく唸った。
「……もっと詳しく聞いていいかな。僕は医者ではないけど、もしかしたら何か気がつくこともあるかもしれない」
「あー……そう、だな」
 サイガは空にしたタンブラーを柏木に返してから、始業式の日の放課後に起きた出来事を改めて説明した。青すぎる世界。親友の豹変。消えたフェンス。現実に悪夢が混入したような一連の体験を話すたび、口にするサイガ自身が眉間に困惑を深めていく。
 中でも最大級の謎のひとつがプールに転落した経緯だった。季花高校のプールは校舎から百メートル以上離れており、隣接する建物は一階建ての更衣室のみ。しかもその更衣室の屋根から助走をつけて跳んだところで、余程の跳躍力がない限り、水面ではなくプールサイドに激突する。そんな場所なのだ。
「なのに俺はプールの真ん中に浮いてた。しかも聞いた話じゃ、高飛び込みみたいな落ち方してたっていうし。……じゃあ、俺はどこから飛んだんだ?」
「プールの周りのフェンスはどうだろう。でも、うーん、無理な姿勢になりそうだねえ」
 柏木は二杯目の準備をしながら仮説を一つ口にして、すぐに首を振った。彼はこの地域に長く暮らす人間で、季花高校の卒業生でもある。細かい説明がなくてもイメージは浮かんだようだった。
「なるほど、確かに謎だらけだ。突然そんな行動を起こして、しかも何も覚えていないだなんて、普通の医者ならお手上げかもしれない」
「やっぱりそうだよな? ……あ、そうだ。謎といえば、これも」
 再び出番が来たシェーカーが音を鳴らす間に、サイガは隣の椅子に置いていた学生鞄を開け、一冊のノートを取り出した。裏表紙の方からパラパラめくる。そして緑色のソーダ水と交換するように、あるページを開いた状態で柏木へ手渡した。
「英語のノート?」
「そう。昼休みに階段から落ちた日があって。その後で俺、保健室行ってから授業出てたらしいんだけど、全然記憶になくってさ。その時に書いてたやつらしい」
 ノートを流し読みした柏木が息を一瞬詰まらせた。そのかすかな音をサイガは聞き逃さなかった。
「……柏木さん。正直なこと、言っていいから」
「うん、わかっているよ」
 柏木は指先で紙の上を何度かなぞり、前後のページと見比べてから、ノートをカウンターの上へ置いた。そこには丁寧な字で書かれた英文が並んでいる。
「サイガくんの筆跡じゃないね。友達はこれ見て何か言っていた?」
「まだ誰にも見せてない。そのときの自分の様子聞いただけで変な顔されたんだぜ?」
「なるほど。……それでね、サイガくん。僕の正直な意見だと、これは別の誰かが君のために書いたものじゃないかな、と思うんだ」
「俺のために?」
 カクテルを飲もうとしていた手が止まった。
「このページ、ただ授業の内容をまとめただけじゃなくて、君がつまずいているところに重点的な説明が加えられている。もしこれを書いたのが君の知り合いじゃないなら、ノート全体を読んで君の弱点を見抜いたということになるんだ。頭が良くて英語が得意な人でないとできないことだよ」
 サイガはタンブラーを置いて、ノートをめくった。前のページに並ぶのは癖の強い雑な字ばかりだ。
「記憶がなくなった理由までは分からないけど、きっとサイガくんはその間に誰かとノートを交換していたんだ。その誰かが授業中かその直後ぐらいに君のための解説を書いてくれて、放課後までにノートを返した。そういうことをしてくれそうな人に心当たりは」
「ない」
 疑問符もつけさせない即答を繰り出してから、サイガはため息をついた。
「本当にいない?」
「そんなのが友達にいたら絶対もっと前から知ってるし、助けてもらってるし、他にもいろいろ助けてるだろ。俺だけに親切とかまずありえない。あとわざわざ授業中にノート交換とかもっとありえないし。意味不明すぎ」
「そうかあ……精一杯現実的な仮説を考えたのに。まあ、さっきの飛び込みの話を考えると、さらにありえない話が出てきてもおかしくはないかな」
「は?」
 険しい目を向けたサイガに、柏木は笑いをこらえた顔で応じた。
「例えば、君の中に勉強の得意なもう一人の君がいて、階段から落ちた拍子に君と入れ替わって代わりに授業を受けてきた、とかね」
「漫画みたいだな」
 確かにありえない。サイガは首を振り、タンブラーをあおった。
「そういえば、さっきから気になっていたんだけど。その首のチョーカー、どうしたの?」
 柏木の発言を聞いた瞬間、サイガの呼吸が乱れ、ソーダ水が気管に流れ込んだ。
 炭酸と不意打ちのダメージは甚大だった。サイガはタンブラーを握りしめたまま前かがみになり、激しく咳き込み続けた。
「だ、大丈夫かい……?」
 咳き込むペースが落ちるのを待ってから、柏木はカウンター越しに手ぬぐいを差し出した。サイガはそれを奪うように取って口元を覆うと、涙目のまま柏木を見上げた。
「よかった……俺以外にも、見えてるんだ……」
「どういうこと?」
「さっき『なんか変だ』って言ったけどあれ取り消し。本当は一つ心当たりがある」
 テーブルに叩きつけられた拳がタンブラーを一瞬だけ宙に浮かせた。
「助けてくれ柏木さん。あのクズ野郎のせいで俺、絶対ヤバイことに巻き込まれた!」