[ Chapter3「路地裏の怪人」 - D ]

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「今日の練習はここまで。みんな、お疲れ様でした」
「お疲れ様でしたー!」
 練習に必要な時間に対して放課後は短い。台本のおよそ三分の一にあたる場面まで進んだところで、その日の合同練習は終了となった。
 舞台を作るために移動させていた机や椅子が手際よく元の状態に戻されていく中、まりあは教室の片隅で陣内先輩にひたすら頭を下げていた。
「何回も中断させてしまって、本当に申し訳ありませんでした」
「いいのよ、雨宮さん。顔を上げて。今日いきなりお願いしちゃって、今日初めて台本を読んでもらったんだから」
 誰も責められないし、責めてもいない、と教えられて少しだけ心が落ち着いた。それでもまりあは自分が場違いなところにいるという感覚を頭から捨て去ることができなかった。
 夏休み前から練習を重ねてきた先輩方と同級生たちの連携。
 長いセリフをよどみなく語る役者たち。
 とりわけまりあを感嘆させたのが陣内先輩の姿だった。台本を持ち込んでいる代役がセリフを読み間違うたび、ヒロインは嫌な顔ひとつしないばかりか、自分のセリフにアドリブを加えてその間違いを補ってみせたのだ。
「今日はとにかく流れを止めない練習、がテーマだったから。本番で誰かが失敗しても、やり直しはできないでしょう? その訓練がしたいって、和泉くんが」
 陣内先輩は視聴覚教室の後方を見やった。
 まりあも同じ方へ目を向けてみた。
 教室の片付けを終えた生徒たちがぞろぞろと退室している。賑やかな声が廊下を反響する中、たった今話題になっていた和泉先輩が、教室の最後列の机から何かを手に取ったところだった。
「和泉くん、それは忘れ物?」
「うん。誰かがここに台本を忘れていったんだ。しかも名前を書いてない」
 こちらに向けて台本をかざす和泉先輩の立ち位置は、まりあにとって見覚えのあるものだった。陣内先輩もだいたい同じ記憶に思い至ったらしい。一瞬だけ視線を振ってから、まりあより先に口を出した。
「確かそこには西原くんがいたような気がするんだけど」
「あぁ、そうだったね」 和泉先輩もすぐに心当たりを掴んだようだった。 「最初の出番が来てからはずっと舞台袖にいて、一度も台本を読み返してなかったから、そのまま忘れちゃったのかもしれないね」
 まりあは連れ立って視聴覚教室を後にした同級生たちを思い出した。その中には金髪もいたような気がする。ついさっきのことだ。
 今ならまだ学校内にいるかもしれない。
 楽観的な発想がまりあを動かした。
「私、届けてきます」

 和泉先輩から台本を預かったまりあは、まず階段を一つ上がり、二階にある一年三組の教室に戻った。しかし忘れ物の持ち主は見当たらない。居合わせた同級生に聞くと、もう帰ったと言われた。
 次に階段を駆け下りて昇降口に出た。しかし探す相手は見当たらない。なんとか探し出した彼の靴箱に、上履きが乱雑に突っ込まれているのを見つけただけだった。
 そして彼女自身も上履きからローファーに履き替え、校舎を出た。人影まばらな校庭を一直線に正門まで走り、いつも帰る方向へ曲がろうとして、足が止まった。
 まりあは気づいてしまった。
 どの道を行けば持ち主に追いつけるのか、全く知らないということに。
『西原くんも、こっちの道なんですね』
『いや、違うんだ。本当は全然この辺じゃなくて……』
 先週交わした会話のかけらが耳の奥を吹き抜ける。
 自分が知っている道を通らない通学路。
 まりあには想像もつかない。自宅への帰り方もまだ一つのルートしか知らない新参者に、街の全体像など分かるはずもなかった。
(どうしましょう。クラスの誰かに聞いたら、分かるでしょうか)
 まりあはあたりを見回した。彼女よりも後に正門を抜けた生徒たちが右へ左へと散っていく。その中に知っている顔は見当たらない。
 次に、道の端に寄ってから携帯電話を取り出し、メール画面を呼び出した。しかし、今の状況を誰にどう説明してどう助けてもらうか、頭の中でまとまらない。
 意味などないと知りつつ、通り過ぎた生徒たちを視線で追いかけた。すると集団のひとつが角を曲がった直後、その次の交差路に別の人影を見た。
 彼女がいつも歩く通学路とは真逆の方向に。
 遠ざかる金色の後頭部を。
(よかった! まだ、間に合うかもしれません)
 まりあは走り出した。大きな通りの脇を抜け、二車線道路をまたぐ橋を渡って。自分の普段の道順にはかすりもしない、本来なら決して通ることのない道を、ただ前だけを見て。
「あっ、すみませんっ!」
 十字路を横切ろうとした自転車とぶつかりかけて立ち止まって。
「待ってください!」
 一度は見失った後ろ姿を曲がり角の先でもう一度見つけて。
「待って……!」
 急に駆け出したその人に、あっという間に距離を作られて。
「待っ……て……」
 古いアパートの先で角を曲がったきり、その人の姿は見えなくなった。建造物と植物ばかりの光景を目にした瞬間、まりあは走るのをやめてしまった。
 息が苦しい。何とか歩くのは続けていても、足がずっと震えている。
 でも、行かないと。
 焦る気持ちに羽が生え、その羽ばたきに引っ張られるようにして、目印にしたアパートの前までは辿り着いた。そしてまりあは目撃した通りに自らも角を曲がってみたが、その先には誰もいなかった。
(……見失って、しまいました)
 どうしよう。こうなる気がしていたわ。
 心の両脇から同時に違う気持ちをささやかれ、自然と足が止まる。気がつけば、どうして台本をすぐ渡しに行こうと思ったのか、自分でも分からなくなっていた。
 明日も学校に行くならそこで渡せばいい。簡単で現実的な代替案を今になって思いついたまりあは、来た道を引き返そうと回れ右の一歩を踏み出した。
 その時。
「用があるのはあんたじゃない」
 どこからか聞こえてきた男の声がまりあの耳を惹きつけた。
 左右と真後ろを見たが誰もいない。空耳か、誰かに向けた言葉だったのか。恐らく彼女自身には何も関係ないだろう。それでも何故か気になったまりあは、回れ右をやめて息を潜め、男の声がする方へ静かに近づいた。
「……だという証拠はあるのか」
 別の人物の声がした。一部はよく聞き取れなかったものの、まりあは発言者がいる方向をはっきり掴み、そこを目指した。さっきまで追っていた相手が通ったはずの道だった。
 進んでいくと、曲がり角から十メートルもしない場所に、塀で挟まれた細い脇道を見つけた。そこをのぞき込むと、道を塞ぐように立つ男の背中が目に入った。ついさっきまで見ていた後ろ姿によく似ていた。
「それは……」
 何か話している男の真後ろに立ったとき、まりあは急に顔が熱くなったように感じた。
 白に近い金髪。季花高校の制服を着ていない。学校からここまでのどこかで見間違いが起きて、いつの間にか無関係の別人を追いかけていたことに、今気づいたのだ。
 しかし人違いのことは数秒でどうでもよくなった。
 金髪の男が不意に道の端へと寄り、その体に隠れて見えなかった口論の相手が姿を現した。新たに出てきた人物がまりあの視界の中で静止していたのはほんの一瞬だったが、その特徴を捉えるには十分だった。
 膝下まで丈のある白いダスターコート。
 灰色、あるいは銀色にも見える髪。
 顔全体を真っ白に覆う仮面。
(あれ……って、もしかして)
 まず、その異様さに息を呑み。
 次に、どこかで見たかもしれないとぼんやり思い。
 それから、昼休みの教室で聞かされた話をはっきりと思い出した。
(怪人……ルシファー……?)
 空の色が曇り始めた。地上のすべてが色あせていった。