[ Chapter3「路地裏の怪人」 - E ]

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 それはただの散歩のつもりだった。
 太陽が西に傾き、暑さが多少和らいだ頃、ウィルは柳医院の裏口から脱出した。紺色のピンストライプの病衣にサンダル履き。病室に収容されてから着せられた服装のまま、例の白い日記帳を抱え、蝉の声だけがこだまする街を歩き始めた。
 この街に降り立って一週間足らず。その間に彼は院長の紹介状付きで大学病院に送られ、多種多様な検査と数回のカウンセリングを受けさせられた。さらに一度は警察署にも連れて行かれた。教官の入れ知恵を駆使してなんとか正体は隠し通したものの、結局彼は「記憶喪失の迷い人」のまま柳医院に送り返され、当面の間は元の病室に留め置かれることとなった。
 慣れろとは言われたが、物質界の環境は訓練学校とあまりにも違いすぎる。ウィルの魂を蝕む息苦しさは我慢の限界に達していた。
(外出を禁じられたわけじゃない。迷わず戻ればいい。そういう話だろう)
 ウィルはしばらく歩いてから一度立ち止まり、日記帳に挟んで持ち出していた地図を広げた。これの読み方を学ぶ時間なら十分にあった。もう先日のような失態は繰り返さない、と改めて自分に言い聞かせる。
 手始めに地図を見ながら適当に歩いてみた。そして見つけた公園が地図通りの場所にあることを確かめたら、急に自信が湧いてきた。
(この場所はこんなに近かったのか。だとしたら)
 視線が地図の上を滑る。止まった位置には、公園の倍ほど広い土地がある。
(あのときの現場もそう遠くはないのかもしれない)
 熱中症に倒れていなければたどり着けたはずの場所。今度こそ行ってみよう、そう考えた直後に思いとどまった。軽率な行動を教官にとがめられたばかりだ。また面倒な事態が起きたときの教官の対応を想像するうち、自信がかすれて消えていった。
 出直しを決意したウィルはすぐに引き返した。進む方向が逆になるだけで全く違った場所に見える道を、今度は地図に頼って歩く。道のりの半分までは順調に戻ることができた。
 しかし、ある十字路の手前で目撃した光景が、慎重でいようとする心がけをあっけなく吹き飛ばした。
 見覚えのある人間がウィルの目の前を横切っていったのだ。
(あれは……)
 他の人間と違う髪色。記憶に一致する背格好と顔立ち。服装までもが全く同じ。
 ウィルはすぐに走り出した。日記帳を開いて報告を書き記す時間も惜しかった。十字の標識までは全速力で、角を曲がってからは早足を保って、彼は問題の人物――黄銅色の髪の少年を追った。
 幸い相手は急ぎ足ではなかった。角を曲がってから少しだけ直進し、それから細い脇道へと入っていく。
 ウィルは日記帳と地図をまとめて抱え直しながら距離を詰めた。腕を伸ばせば指先が届きそうなほど近づくと、思い切って声をかけた。
「そこの人間。止まってくれ」
 少年が立ち止まった。
 その右手から鞄が滑り落ちた。
「聞きたいことが……」
 言いかけた口が止まった。
 ウィルの全身を寒気が走り抜け、一瞬だけ相手から注意が逸れた。
「誰かと思えば、先日の不用心な見習いではないか」
 冷たい声を耳にした直後、銀色の光が落ちた。
 少年が振り向いて左手を伸ばし、逆手に握った短剣の先端をウィルの右頬に突きつけていた。刃は少しも震えていない。そして少年の腕は、髪は、色彩を失い灰色に沈みかけている。
 まさしくあのときと同じ至近距離の威圧だった。
 そして同じ結界がウィルの周辺を覆っていた。
「用があるのはあんたじゃない」
 今度の彼は早めに冷静さを取り戻せた。半歩引いて刃の届く範囲から離れ、目の前に現れた敵を警戒しながら、その周辺にも意識を向けた。
 相手がゆっくりと体の向きを変え、ウィルに正対する。そこは両側に高い塀が立つ場所。細い道の奥にも塀が一つ。行き止まりだった。
「では、これが本当に貴様の探していた人間だという証拠はあるのか」
 同じ顔だった、と言いかけて、ウィルは言葉を失った。
 黄色を失いモノクロに染まった髪の下に、肝心の顔がなかった。装飾のない真っ白な仮面が貼り付いて、横長の切れ込みから黄金色の眼光だけがはっきりと見える。本来の眼の色は、そういえば、見ていない。
 気がつくと、前に見た顔の記憶に霧がかかり始めている。
「それは……」
 反論探しが完全に停止した瞬間を敵は見逃さなかった。
 音もなく踏み出した一歩と同時に短剣を順手へ持ち替え、姿勢を低くして斬りかかる。ウィルがとっさに体を捻って脇に逸れたため、刃は狙いを外し、病衣の裾と袖をわずかに切り裂いた程度にとどまった。
 病人を装った見習いは軽くふらつきながら体勢を立て直した。残念ながら手元に武器はない。どう考えても日記帳に目を通す隙などない。救援を求める余裕さえ足りない。今度こそ自力でこの危険を退けなければならないのだろう。
 敵の左腕が慣性力に任せて振り抜かれた。肘が伸びきった直後、短剣を持った手首がくるりと向きを変える。いつ袖を通したのか、白い上衣の裾がたなびいた。
 とっさの判断がウィルを動かした。戻ってきた刃を再び紙一重で回避すると、引いていた右腕をすぐさま翻し、戻っていく左手を掴んだ。日頃の訓練が魂に刻んだ瞬時の判断。まだ馴染んだとはいえない肉の鎧をまとっていても、体は自然に動いた。
「待て」
「何だ」
 手首を押さえたはいいが、二言目が出る前に敵の軽い動作であっさり指が緩められ、拘束から逃れることを許してしまった。
 敵は切っ先をわざと目の前で振り回してウィルを怯ませてから、後方に大きく跳躍し、再び捕まえようとした手に空を切らせた。次の一飛びで塀の上に片足で着地し、さらに高く飛ぶ。直後、その背景を覆い隠すように、黒い煙が立ち上った。
 少年は間違いなく宙に浮いていた。
 薄墨の線で描いたような造形の黒翼を背負って。
「どうして俺がその人間を“探していた”と思った」
「そういう目をしていたからだ」
 ウィルに答えの意味を考える時間は与えられなかった。
 濁った色の空にかざした短剣を、敵は真下にいるウィルへ投げつけた。突然の行動に反応が遅れたウィルの右手首を刃がかすめる。銀色の凶器が地面に衝突する音と前後して、二本の短剣が続けざまに降ってきた。
 アスファルトの上を赤いしずくが跳ねた。
 一本はウィルの左腕を病衣の袖ごと裂いていた。そしてもう一本は右足の指の間に刺さり、サンダルを地表に縫いつけていた。
「此処は未熟な者がうろつくことを許すような世界ではない。すぐにでも還れ」
 黒翼の人物はその左手に、さっき投げたものと同じ形状の短剣をまた持っていた。
 身動きを忘れたウィルに向かって銀色の刃は振りかざされて――

「やめてくださいっ……!」

 ――刃先が大きく震えてから、止まった。
 攻撃を遮ったのは、悲鳴。女の声による一撃はウィルの背後から発せられていた。
 ウィルが振り返ると、袋小路の入り口を塞ぐように立つ人間の少女が目に入った。恐怖と悲しみに覆われた顔は、何かを抱えて震える姿は、あるはずの色彩を失っている。間違いなくこの場の結界に巻き込まれていた。
 敵の方に視線を戻すと、落ちてくるはずだった短剣が見当たらない。
 黒翼の男が左手を自分のこめかみに当て、空中に浮かんだまま固まっていた。仮面が邪魔で表情は判別できないが、今までと明らかに様子が違うということはウィルにも判った。
(何だ、これは。何が起きた?)
 反撃のチャンスなのか。それとももっとふさわしい行動があるのか。
 ウィルが判断に迷っている間に、頭上の翼が翻った。敵は塀の奥に見える屋根を飛び越えてその先へと飛んでいき、直後に吹き荒れた風が結界を消し去った。
 暮れゆく色の空を見上げたまま、ウィルはその場に座り込んだ。