[ Chapter3「路地裏の怪人」 - G ]

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 次の日は普段と何ら変わらない形でやってきた。
 一年三組の教室が朝から騒がしい。とりわけ後方の隅、雨宮まりあの座席あたり。理由はそこを取り囲む女子生徒たちが盛んに黄色い声を上げているからだ。
「ねぇねぇねぇどうだった? どうだった? 和泉先輩との共演!」
「そんな、大げさな話じゃないですよ。先輩方の演技に合わせて台本を読んだだけですし、それに……」
 好き勝手な言葉が飛び交う人垣の内側から、まりあは助けを求める視線を周囲に送った。しかし誰かがそれを受け取ってくれた様子はなかった。
「だからぁ、そういうことじゃなくてぇ」
「最後まで残ってたっていうじゃない。和泉先輩も一緒に! 何話したの?」
「そういえば、雨宮さん。昨日の帰りのアレ、どうだった? 見つかった?」
 話が一定の方向へ進められる中、唐突に違うキーワードが割り込んできた。黄色い声の一員が別の場面を思い出したらしい。
「帰り? 何かあったの?」
「あ、昨日、西原くんが練習場所に台本を忘れていってしまいまして。届けようとしたら……その……」
 説明の後半をしぼませながら、まりあはうつむいた。
「サイガの? えっ何、まりあちゃんはああいうのがタイプなわけ?」
 包囲網の一人、依子が信用のない口調で尋ねながら教室の前方を見やった。まりあがいる列の隣の列、前から二番目の席に、よく目立つ色の後ろ頭がある。
「そ、そ、そういうわけでは……」
「分かってる、人の好みに口出しする気はないから。それで? 届けた後は?」
 依子に促され、輪の外に向いていた聴衆の視線が戻ってきたところで、まりあは学校を出てからの経緯を順に話した。
 追いかけた人物が実は人違いだったこと。
 間違えた相手が刃物を持った何者かに襲われていたこと。
 襲撃犯がまりあに気づくとすぐに逃走したこと。
 その人物の特徴が不審どころではなかったこと。
「白っぽい頭に白いコート。で、仮面?」
 依子が聞き取った言葉を拾って並べると、まりあはもう一言分付け足せる程度の間を置いて、小さくうなずいた。
 同級生たちは顔を見合わせた。
「なんか似たような話を聞いたことあるんだけど。それもつい最近」
「最近ってゆーか昨日?」
「そういえばそんな話あったねぇ」
 目配せの相手を何度も変えながら、彼女たちは声を潜めた会話を交わした。
 そこへ、
「詳しく! 雨宮さんその話もっと詳しく!!」
 彼女たちより一段低い、そして一段と調子に乗った声が絡みついてきた。沼田だった。
 どこからか湧くように輪の中へ入ってきた男子生徒へ、女子たちの非難と悲鳴が容赦なく浴びせられた。それでも沼田は怯むことなく人をかき分け、まりあの正面を陣取ると、彼女の机の上に持参したメモ帳とペンを置いた。
「怪人ルシファー、見たんだろ。本当に見たんだよな? 具体的にどんな感じのヤツだった!? ちょい待て、何か質問されてない? それともなにか思い出せないことがはぁ!」
「いい加減やめなさいよ、このバカガエル! まりあちゃん困ってるでしょ!?」
 何かが潰れるような音が沼田の喉から発生した。依子がワイシャツの襟を掴んで後ろへ引っ張ったのだ。机から引き離されたことで、強引な取材にようやくブレーキが掛かった。
 当事者まりあは下を向いたまま固まっていた。
「ホントかどうかはともかく、何もされなかったんでしょ? だったら良かったじゃない」
 女子生徒の一人が言った。
 まりあはうつむいたまま答えなかった。
「その、襲われてたっていう人は、どうなったの」
 別の一人が尋ねた。
 まりあが顔を上げた。沼田を取り押さえる依子を一瞬だけ見てから、自分の真正面、二つ前の席を視線と言葉で示す。
「えっ、と、それが……最初は立ち去ろうとしていました。でもそれを、柳さんが引き留めて。一緒に近くの病院まで連れて行きました」
「台本は?」
「あ、結局、西原くんのご自宅にお届けしました。柳さんが住所をご存じでしたので、案内していただいて」
 包囲網が静まり返った。
 一拍置いて、全員の視線がまりあと同じ方へと向けられた。ちょうど登校してきた柳重孝が静かに椅子を引いて座るところだった。
「よし沼田、後のことは柳さんに聞きなさい。ほら行け、今すぐ行け」
「ええー!?」
 沼田はすぐに輪の中へ引き返して筆記用具を取り戻したが、直後に再び押し出されて集団から外されてしまった。重孝の大きな背中を一瞥し、大げさな困り顔を向けるも、女子たちは誰も反応しない。口々にまりあを慰める様子を見せつけただけだった。
 閉め出されたと知った沼田はしょんぼりした顔でその場を離れた。しかし重孝の横は素通りし、その斜め前にある自分の席に持ち物を置いてから、一つ前の席に飛び込んだ。
「助けてよサイガ、女子がオレをイジメる!」
 後ろから飛びつかれたサイガの反応は鈍かった。同情を寄せるどころか、返事らしい返事もせず、重そうに頭をもたげてため息をついただけだった。
「何なんだよー、サイガまで! みんなもうちょっとオレに優しくしてよ!」
「違うんだ。サイガは今それどころじゃないんだよ」
 頭を抱えて叫ぶ沼田を、すぐ側に立っていた実隆がなだめた。
「どしたの?」
「いろいろあったんだって。疲れてるみたいだからそっとしといてあげて」
「いいよ別に、気ぃ遣わなくても」
 サイガがようやく口を開いた。それから実隆に二言三言、教室のざわめきに隠れる声で何か話した。
 実隆は一度うなずいてから、それまで二人がしていた話の概要を沼田に、やはり控えめな話し声で伝えた。
 沼田の目が大きく見開かれた。
「ええっ、サイガの父ちゃんもう退院すんの!?」
 教室全体が静まり返った。
 全力で声を張り上げた沼田に級友たちの視線が集中した。本人がその視線の意味に気づくより前に、実隆が手を垂直に立てて横に振った。
「そうじゃなくて、転院。一度帰国して、日本の病院に入り直すんだって」
「なーんだ」
 沼田の肩から力が抜ける。前後してあちこちから同じようなつぶやきが聞こえてきて、始業前の教室は元通りのざわめきに満たされた。
「いっぺん死にかけた奴に一週間だかそこらで退院されてたまるか……」
 サイガがなけなしの気力を絞り尽くすように言葉を吐き捨て、自分の机に上半身を投げ出すように突っ伏した。
 その様子を見た実隆は肩をすくめ、サイガの後方へ視線をやった。
 まりあを囲んでいた女子生徒たちが、一人また一人と輪から抜け、それぞれ自分の席へと戻っていく。騒がしさが少しずつ小さくなっていく。
「今日も練習あるの?」
「いえ、次は明日だそうです」
「また呼ばれてるんでしょ、いいなー。見学行こうかな」
 もともとまりあの隣に座席を持つ依子の声だけが、最後まで教室の後方に響いていた。しかしそれもやがて、前方のドアが開く音と担任の一声によって打ち切られた。
「は〜い、皆さ〜ん、おはようございま〜す」
 根本先生の挨拶はいつもどこか間延びしている。今日はそこにあくびまで加わり、生徒たちの失笑とあくびの連鎖を誘った。
 こうして朝のひとときは静かに終わった。
 不可解な出来事の翌日とは思えない、平凡な一日の始まりだった。