[ Chapter4「Death and the Shadow」 - A ]

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 文化祭に向けた合同劇の練習は一日の休みを挟んで、その後は三日連続で行われた。だが通し練習はなかなか思うように進まず、スケジュールに少しずつ遅れが出始め、関係者の間には不安が漂い始めた。
 空模様にも暗雲の気配が見える金曜日の夕方。この日の練習も、充分とは言えない状態のまま、最終下校時刻をもって打ち切られた。練習場所から追い出された生徒たちは若干の未練と悔しさを引きずりながら校舎を後にした。
「この調子じゃ、土曜どころか日曜も自主練かもな」
「いや、確か日曜は先輩たちが予備校の模試とか何とか」
「あーそうだ受験生……」
 三年生が直面する現実を一年生が嘆く。そんな雑談の真後ろをサイガは歩いていた。彼自身は水泳部の活動に顔を出せないことが残念で仕方なかったのだが、もっと険しい道と演劇とを両立させている先輩たちの姿を思うと、自分の嘆きなど口にできなかった。
 正門を抜けると同時に雑談の話題が変わった。サイガも同じタイミングで無駄な気がかりを心から投げ捨てた。すると今まで気づかなかったものが視界に入ってきた。
 真正面を横切る道路の脇に、一台の紺色の車が停車している。
「ほら来た。サイガ、こっち」
 助手席の窓が半分開けられ、その中から菜摘が手を振っていた。
 サイガはとっさに左右を確認してから、姉の姿を周囲から隠すように車へ詰め寄った。
「何なんだよ急に」
「忘れた? 今日の予定」
「早く乗って。続きは中で話そう」
 割り込んだ声の主は柏木だった。運転席に座り、菜摘の頭越しに手招きしている。
 確かに、こんなところに立ったままでいる理由はない。サイガは後部座席のドアを開け、菜摘の真後ろの席に収まった。ドアを閉めると同時に、姉の言う「予定」が埋もれた記憶の中から浮上してきた。
「ああ、母さん今日帰ってくるんだったな」
「お父さんも一緒にね」
 西原陽介、奇跡の生還。その"奇跡"は終わっていない。
 通常、人間が体の広範囲に重度の熱傷を負うと、皮膚だけでなく全身の機能に重大なダメージが生じる。救急医療で一命を取り留めたらもう安心、とはいかない。時間の経過とともに別の症状がいくつも出てくるため、少なくとも半月は油断できないのだという。
 ところがこの家出人はどういうわけか、事故から一週間あまりで諸々の症状が収束し、体の状態が安定してしまった。さらに彼がビザの期限切れを放置し不法滞在していたことが発覚した。こうしてアメリカにこれ以上残り続ける理由がなくなった陽介は、なかば強制送還のような流れで異例の早期帰国・転院となることが決定したのだった。
 ニューヨークから成田まで直行便で約十四時間。そこから救急車で数時間。予定では夕方前に受け入れ先の病院に到着する、とサイガは聞かされていた。
「さて、揃ったことだし、行きましょうか。柏木さん、お願いします」
「は?」
 柏木に車を出すよう頼んだ菜摘の真後ろで、シートベルトを締めたサイガが顔を上げた。
「行くってどこに」
「決まってるでしょ、K大付属病院。お父さんが転院したところ」
「待て。今行って帰ってきたとこじゃなかったのかよ!?」
「サイガだけ置いて先に行くわけないじゃない。っていうか、こうでもしないとなんだかんだ理由つけて行こうとしないに決まってるもん」
「ごめんね、サイガくん。菜摘ちゃんがどうしてもって聞かなくて」
「裏切り者……!」
 車が滑るように走り出し、慣性力とシートベルトがサイガを座席に縛りつけた。
「柏木さんだってサイガのこと考えてくれてるのよ。それに、例のことも、ほら。今日が初めてなんだから。忘れてた?」
「……忘れてねーよ」
 抗議の言葉は吐息に化けて静かに四散した。


 話は四日前にさかのぼる。
 最初の通し練習を行った日、記憶と鞄を同時になくして帰宅したサイガは、自宅の玄関前でその鞄を発見した。そしてすぐに柏木の店へと駆け込んだ。おかしな出来事が再び起きたら知らせるようにと言われていたからだ。頼れる味方から情報を得るか、それがダメでも気が済むまでは、バーの片隅に居座るつもりでいた。
 しかし現実は彼に優しくしてくれなかった。出された水を飲み干し一息ついた頃、柏木が店の電話の受話器を持ってきて、こう告げた。
「菜摘ちゃんから電話。大事な話があるから帰ってきて、だって」
「メシ食ったら帰るって伝えといて」
 そっけない返答を柏木が電話口の向こうに伝えた直後、
『……バカ!!』
 姉による渾身の怒号が受話器越しにサイガまで直接届いた。
 菜摘の不安そうな様子には柏木の方が早く気づいた。味方にも帰宅を促されたサイガはしぶしぶ店を後にし、来るとき乗ってきた自転車を再び全力で漕いで引き返した。自宅へ戻ると、今度は出迎えた菜摘に捕まり、居間へ連れて行かれた。
 そうして、姉弟の祖父母を含めた四人がちゃぶ台を囲んで座る場面が出来上がった。
 菜摘は現在の居住者全員が揃ったことを確認すると、自分の携帯電話でどこかへ電話をかけ、すぐにそれをちゃぶ台の中央に置いた。するとスピーカー通話に切り替えられた端末から声が流れてきた。
『みんな集まったのね?』
 通話の相手が母親だと気づいたサイガは姉の顔を見た。呼び戻した理由がこれなら最初からそう言ってほしい。そんな内容の文句を言おうとしたのだが、真剣な憂いの表情を目にしたら言う気が失せた。
 子どもたちと夫の両親に対し、美由樹はまず夫の容態を説明し、それから帰国が当初の予定から大幅に前倒しとなったことを告げた。東京の大学病院に陽介の知人がいて、その人を介して受け入れの準備が進められているという。入院費の精算や、事故を起こしたタクシー会社と進める損害賠償などの話は、これまた陽介の知人でニューヨーク在住の弁護士が引き継いだとのことだった。
 転院の話がひと通り済んだ後、美由樹は一呼吸を置いて、大事な話がもうひとつあると切り出した。
『菜摘。彩芽(サイガ)。ふたりともよく聞いて。……実はね。あなたたちに、もう一人、弟がいることがわかったの』
「……はぁ?」
 サイガは一瞬だけ思考を止め、それから顔をひきつらせた。
 周囲を見ると、祖父母は揃って目を丸くし、菜摘は固まった状態で機械的なまばたきだけを繰り返していた。誰も言葉を発さない。
 時間が止まったような空気の中、携帯電話だけが話を続ける。
『簡単に説明すると、お父さんが旅の途中で知り合った女の人が、別れた後に一人で子どもを産んでたんですって。お母さん、びっくりしちゃった』
 ことの起こりは自動車事故から三日後。十五時間以上の長旅を経てようやく夫と再会を果たした美由樹は、その日の夜、集中治療室の前で一人の幼児と出会った。別の入院患者の子だろうと思ったので声をかけることは控えたが、まるでこちらを心配するような眼差しが美由樹の心を少しだけ慰めてくれたという。
 ところがその幼児は、翌日また美由樹の前に現れた。今度は身寄りのない子を預かる施設の職員と一緒に。
 職員は美由樹に、その幼児が母親を病で失ったこと、母親の親族に引き取りを拒否されたこと、父親については名前だけ判明していることを丁寧に説明した。今回の事故でその父親と同姓同名の被害者がいると知り、父子関係を確かめに来たのだという。
『調べた結果、やっぱり父親は陽介さんで間違いないんだって。だから、あなたたちの弟。……それでね。お母さん、その子を引き取って、日本に連れて帰ろうと思うの』
 美由樹は言い切った。電話口の向こうの反応を待たず、さらに続ける。
『話を聞いて思ったのよ。あの子の生まれ変わりだって。私がちゃんと産んであげられなかったあの子が、やっぱり生まれてきたくて、陽介さんについていったんじゃないかって。だから私が面倒を見なきゃいけない気がするの。本当の母親の分まで。そう思わない?』
 すがるような言葉への返答は沈黙だった。
 東京に残る家族は誰一人として、肯定も否定も、口にすることができなかった。