[ Chapter4「Death and the Shadow」 - C ]

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「本当に一人で来ちゃったの?」
 サイガは若い女の声を耳にした。
 中庭の大樹の下にいつの間にか現れた人物が、通路の終点に立つサイガに近づいてくる。病棟の窓から漏れる明かりがその姿を淡く照らした。
「誰にも話すなと言えば誰かに話す。警察には言うなと脅せば一応通報しておく。人間はそういうところがあるから予防線の一つも張ってくるかと思ったのに、まさかなんにもしてこないだなんて」
 それはサイガと同じ年頃の少女だった。黒のブレザーと胸元の黒いリボン、白黒チェックのスカートは、お嬢様学校の制服を連想させる上品なデザイン。風になびく長い髪、そして黒のニーソックスが目を引く。
 優雅に動く細い脚にサイガが見とれていると、さらにきつい言葉が飛んできた。
「あなた、どこまで隙だらけなのよ。殺してくれって言っているようなものじゃない」
「……は?」
 ようやくサイガは視線を少女の顔へ向けた。
 色白の顔は一生忘れそうにない美しさで、しかし記憶のどこにもここまでの衝撃は刻まれていなかった。初対面に違いない。
 だがじっくり眺める余裕は与えられなかった。少女の灰色の瞳は明らかに、強い怒りに燃えていたからだ。
「自分の置かれた立場がわからない? 何度も何度もやられかけても結局助かってるからどうせ今回も大丈夫だって思ってる? いつになったら警戒すること覚えるの?」
 少女に顔を指さされたあたりから、サイガの頭の中で混乱した言葉が霧のように広がり始めた。思考が方向を見失う。次第に自分の表情もわからなくなる中、自分を罵っているらしい声だけを耳の奥に感じていた。
 呆けた状態で固まったサイガに、今度は少女のほうが困惑した。
「ちょっと……やだ、まさか本当に何も知らないの!?」
「え、あー、その……」
 目と目の距離が徐々に縮まる中、意味もなく口を開閉させていたサイガは、ようやく理解できる問いかけを見つけた。返答が頭に浮かぶとすぐに声を取り戻した。
「……いきなり言われても、何の話だか全然。っていうか、さっきメールしてきた人だよな? 合ってる?」
 少女は眉をひそめた。反応が予想外で気に入らないものだったらしい。
「話が違う……」
「だから、何の話?」
「しょうがないわね。いいのかどうかわからないけどこの際だから私が説明してあげる」
 それまでサイガに詰め寄り続けていた少女がようやく離れた。ちょうど一歩分の間隔をおいてから改めて姿勢を正す。サイガもつられて背筋を伸ばした。
「ご明察の通り、メッセージの送信者は私よ。よく来てくれたわね」
 改めて話し始めた少女はいたく真面目な顔になっていた。弱い風を受けて広がる髪はよく見ると、眼の色よりも少しだけ濃い灰色をしていた。
「私はアッシュ・スキャータ、冥府渡航管理局第四方面特殊事案対策課の取締担当官。あなたが知っている概念を借りてわかりやすく言うなら“死神”ね」
「……シニガミ?」
 サイガは長い肩書をまともに聞き取れなかった。固まった表情のまま、最後に耳にした一言だけをかろうじて復唱すると、アッシュと名乗った少女はうなずいた。
「といってもあなたを迎えに来たわけじゃないからそこは安心して。もちろんいつかは死ぬけどまだ先の話。冥府が管理する命の予定、つまりこっちの都合で言うと、その前に回収しなきゃいけない魂があるの」
「回収……」
「西原陽介。あなたの父親よ」
「あぁ?」
 サイガの口から歪んだ一音がこぼれ落ちた。同時に顔つきも変わった。
 仇敵を睨む表情を突然見せつけられたアッシュは驚いたようだった。
「あ、悪い。つい癖で。なんだ、あいつ結局死ぬの?」
「あなた仮にも親に向かって……そういえば昔からそういう態度だったとか言ってたか」
 親子間の事情を何故か知っているらしい死神は、ブレザーの胸ポケットから生徒手帳のようなものを取り出して開いた。表紙には火の玉と天秤を図案化したエンブレムが描かれている。胸ポケットにも同じデザインが金の糸で刺繍されていた。
「自動車事故のことはさすがに知ってるわよね」
「そりゃ一応、ひと通りの話は」
「本来はタクシーの運転手だけでなく西原陽介もそのとき死ぬはずだったの。正確に言うと、事故の翌朝に搬送先の病院で、っていうのがこっちの立てた予定だったけど」
 アッシュは手帳の中身を何度か指先でつついてから、それをサイガに突きつけた。
 表紙の内側は紙のページではなく磨き上げられたガラスで、鏡のようにサイガの顔がはっきりと映った。しかし鏡像はすぐに消え、無数の灯に包まれた夜の街を映し出した。ガラスの正体は鮮明な映像を表示する画面だった。
「この男、相当悪運が強いのね。とんでもない人物を味方につけて、迎えに行った死神を力ずくで追い返させた。しかも瀕死の状態から回復しだすし、半日以上飛行機に積まれていても容態が急変しないし。腹が立つほど死なせる隙がないの」
 動き出した映像の内容は、問題の事故の一部始終だった。発生直後にテレビで流れていた不鮮明な動画とは全く違う。ハンドルを切った車が対向車と衝突し、瞬く間に炎上する映像に、サイガは気がつくと見入っていた。
 事故を起こしたタクシーが煙と炎に前半分を飲み込まれる中、その脇に誰かが近づいた。暗くて姿はよくわからない。その人物は後部座席のドアを開け、中から何かを引きずりだした。タクシーの乗客が救出された瞬間だった。
「今そこで救助活動をしていたのが陽介の協力者。私と同じ“こちら側”の存在だから、あなたたち人間が作った記録映像には一切映っていないはずよ」
「こちら側?」
「あなたが今いるこの世の外側。神仏がいるとか天国地獄があるとかそういうのをイメージしてくれればいいわ。大体合ってるから」
 道路に横たえられた乗客を救急隊員たちが取り囲んだところで、アッシュは手帳を一度取り上げた。指先で数回画面をつつき、それから何かを書いている。
「天国といってもそんな穏やかな場所じゃないけどね。あなたが知っている概念で言うところの“天使”と“悪魔”がずっと抗争を続けているし。おかげで魂の循環がうまく行かなくなって、それで中立の組織として冥府が作られたんだけど……話が逸れたわね。とにかく、そういうところから来た存在が陽介と何らかの取引をしたの」
「取引……」
 サイガの脳裏に記憶の欠片が浮かんだ。
 白昼のプールサイド。誰もいないはずの更衣室。そこに降り立った影が、こう言ってはいなかったか。
『取引は成立した。貴様は差し出されたのだ』
 一言を思い出しただけで背筋が震えた。
『俺の代わりに死んでくれないか』
 続けて思い出した一言は怒りを呼び覚ました。
「……それって、金色の目をしてる奴?」
「やっぱり知ってたんじゃない」 アッシュが肩をすくめた。 「通称“サリエル”。天使側の軍勢の内規を破って脱走したとされるお尋ね者。そいつが陽介に手を貸したせいで、あなたは本来関わらないはずの争い事に巻き込まれて、しかも予定外の時期に殺されそうになってる。だから私があなたを助けに来たの。ところで最近危険な目に遭った覚えはない?」
 サイガは息を呑んだ。
 名前はどこかで耳にしたような気がしたが、それ以上のことはわからない。しかし自分が死にかけた場面ならいくつも頭の片隅に並べられた。
「えーと……俺、こないだ階段から落ちたけど。そういうやつじゃないんだろ?」
「背中押された覚えはない? 生徒に混ざった何者かがあなたを突き落としたのよ」
「最近よくスピード出した車が突っ込んでくるのを見るんだけど、あれは違うよな」
「あなたをはねようとした暴走車は少なくとも五台確認されている。そのうち一台はあなたとわずかに接触した後に謎の対物事故を起こして運転手が重傷を負ったそうよ」
「……急に腕がしびれて動かなくなったことも、あったような。でもさすがにそれは」
「急病を装って殺そうとしたのかしら。でもその時食べようとしていたパンには食中毒を起こす細菌が致死量レベルで混入していたから、結局しびれたおかげで命拾いしたのね」
「じゃあ……始業式の日に、実隆に殴られたのは」
「ちょっとは自分の頭で考えなさいよ」
 矢継ぎ早の返答が突然打ち切られた。
 アッシュは手帳を胸ポケットに戻し、再びサイガに顔を近づけた。
「どうしてあのときお友達はあなたを屋上から落とそうとしたんだと思う?」