[ Chapter4「Death and the Shadow」 - D ]

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 少女の顔が近づいた。サイガは思考も抵抗も忘れた。
 鼻先が触れそうなほど近くで見た死神の肌は白く、瞳はやはり灰色で、その中心にサイガ自身の顔がぼんやりと映っている。
「あなたを襲った当のお友達は何も覚えていないそうだけど」
 死神の声がサイガに今の話題を思い出させた。
 始業式の日の白昼。殴られたのは本当だし、負傷という証拠もある。しかし殴った側の動機は結局わからないままだった。
 知らなくていい。そんなことを言われたような気もする。
「あのときは結局横槍が入ったからあなたは助かった。でもそれがなかったらどういうことになっていたか。考えたことある?」
「あのとき……」
 殴られ蹴られ追い詰められた、その次の場面。
 曖昧な全体像を思い浮かべただけでサイガの足がすくんだ。
「……全っ然わかんねえ」
「でしょうね」
 アッシュがサイガから顔を離した。何かを諦めたような表情だった。
「まず屋上にいた人は誰も当時のことを覚えていない。校庭から屋上を見上げていた人はいなかったし、いたとしても顔までは判別できないでしょうね。しかもその時間、現場周辺の空間は何者かが仕掛けた結界の中。そこで何が起きていたか正確に知っている人間は誰もいないはずよ」
「空間の……何?」
「襲われている間、その前でもいいけど、屋上自体がいつもと違う場所のように感じられなかった? 多分ちょっとした違和感程度だと思うんだけど」
 サイガは口を閉じた。相槌さえ打てない。理解が追いつかない。
 無反応を質問の終わりと解釈したのか、わからなくていいと思ったのか、アッシュは話を続けた。
「とにかくそういう状況で、もしあなたが落とされていたら。学校の人間たちは『あなたが屋上から落ちた』という事実だけを目にすることになっていたでしょうね。しかも落ちた瞬間を屋上で見ていたと証言する人間は現れない。となれば『他には誰もいなかった』と解釈することができるわよね?」
「そう……なの、か?」
「もちろん他の仮説も立てられるけど証拠はない。正確には誰かが隠しちゃったんだけど。そしてその仮説から一つの筋書きが生まれる。つまり、あなた一人が屋上にいて、一人でフェンスを乗り越えて、そこから落ちたっていう推測」
「……待て。それじゃ俺が自分から飛び降りたみたいじゃねーか!?」
「そういうことよ。『様子のおかしい親友がフェンスを消して突き落とした』よりはずっと現実的なお話でしょ?」
 死神はあっさりと言ってのけた。
 サイガの頬や腕に触れる風がやけに冷たい。
「こんな言い方するのも何だけど、毒を盛られたりノーブレーキの車に轢かれたりするよりかは自殺を装って殺したほうが事件性は低めに見積もられてしまうものよ。普通の人間しかいない場所ではね」
「でも、俺、別にわざわざ死ぬ理由なんか」
「直前に先生から呼び出されたじゃない」
 憤怒の色に染まったスキンヘッドがサイガの心に一瞬だけ映った。
「その先生は前から体罰で問題になっている人なんですってね。そんな人とあなたは直前まで二人で密室にいました。その後あなたは転落死しました。死体を調べたら転落直前に暴行を受けた痕跡がありました。そこまで明るみに出れば必ず誰かが全部を結びつけて騒ぎ出すはずよ。鬼教師の体罰に耐えかねて飛び降りたんだ、これは問題だってね」
「いや、そんな……そりゃ殺し屋の奴は凶暴だけど、別にあのときは何もされてないし」
「真相なんかどうだっていいのよ。もっともらしい理由をつけて誰かに注目と責任を押しつけるのが犯人の目的なんだから。それとも『失恋したショックで身を投げました』の方が良かった?」
「失恋……えっ? なんでそんなこと知って……!?」
 サイガの顔に熱が集まり、それから一気に引いた。
 特別な想いの存在自体、その当事者の他には柏木にしか話していない。ましてふられたことは柏木にさえ言いそびれていたのだ。
「調べればすぐ判ることよ。だいたいそのときのお相手の子もあのとき屋上にいたっていうじゃない。残念ながら記憶は消されちゃったみたいだけど」
 記憶の断片が暗闇の端にちらつく。
 教室から出て行く幹子の後ろ姿。夢中で階段を登った場面を必死に思い出してみると、あの青一色の世界はその辺りから始まっていたような気がする。でも、どうして追いかけたのか、今となってはサイガ自身にもよくわからない。
 具体的な手がかりを思い出そうとするほど、全体像がぼやけてくる。
「とにかく、そうやってあなたをさりげなく死に追いやろうとしている人物が今も近くに潜んでいるはずなの。お友達の心を操ってあなたを殴らせた、悪意のある誰かが。だってあなたが生きている以上、そいつの目的はまだ達せられていないんだから」
 アッシュの視線がサイガの首へ向けられた。外れないまま放置されたチョーカーがそこにある。
「あなたを殺して犯人に何の利益があるのかはまだ判ってないけど、少なくともあなたがサリエルに囚われたせいでこんなことになったというのは間違いない。でももう大丈夫」
 死神は白い右手をスカートの側面のポケットに突っ込み、黒い棒状のものを取り出した。しかしそれはただの棒ではなかった。彼女がそれを両手に握り直すと、棒の片側の先端から鋭い刃が飛び出したのだ。
「さっき言ったでしょ? 私はあなたを助けに来たんだから」
 内側へゆるやかにカーブする形状の刃が、棒から直角に生えている。いわゆる鎌の形になったその道具を持ったまま、アッシュは手を伸ばしてサイガの首筋を撫でた。
 サイガは身震いした。チョーカーに沿ってなぞられる感触は、指先で触れたものとは思えない冷たさだった。
「この隷属の証さえなんとかなれば、あなたを悪夢から解き放てるはずなの」
 鎌の先端が首に触れたことにサイガはすぐ気づいた。皮膚とチョーカーの間に潜り込ませたらしいと推測できても、この息苦しい首輪を切断するためにそうするのだろうと予想してみても、頭の奥や二の腕がどんどん冷えてくる。
 見下されている死神は笑っていない。真剣に仕事をする顔だった。
「じっとしてて。すぐ楽にしてあげる」
 自分自身の拍動が全身に響く。それは少女の額がサイガの口元ぎりぎりまで急接近したからなのか。あるいは解釈によってはシャレにならない発言のせいなのか。
「……そ、そういえば。死にかけた話ならもう一つある。聞いていいか」
「何かしら」
「さっきの、屋上から落とされそうになった話の後。俺、知らないうちにプールに落ちてたんだ。あれも当たりどころが悪かったら死んでたと思うんだけど」
「そういえばそんな話もあったわね。あれは……」
 また冷たい風を首筋に感じた。サイガは思わずアッシュから目をそらしてしまった。
 そして彼女の背後を見てしまった。

『そこまでだ』

 黄金の眼光が死神の頭越しにサイガを見下ろしていた。
 背後の建物から降り注ぐ弱い光が、乱入者の姿も露わにした。暗い色の迷彩服と物々しい装備。ヘルメットと覆面に上下を挟まれ目元だけが見える顔。今まさに話題になった転落死未遂の直後に聞いた声の主、そしてプールから脱出した後に出会ったあの歩兵だった。
 そいつがいつの間にかアッシュの真後ろに立ち、サイガを睨みつけている。
『下がれ』
 強烈な発声そのものに肩を押されるようにサイガは後退した。チョーカーが刃の先端に引っ張られ、それから弾かれるように首の皮膚を叩いた。外れた刃は首輪を切断できなかったらしい。
 一歩離れるごとに、死神が何も言ってこない理由が見えてきた。
 草刈り鎌を手に持った彼女は完全に動きを止めていた。悔しさと怒りを全力で噛み潰した顔をしている。その首筋には銀色に輝くものが寄り添っていた。歩兵が左手に握った両刃の短剣を死神の喉元に押しつけていたのだ。
『言っただろう。貴様の命は何者にも奪わせないと。死神にも渡す気はない』
 暗闇が勝ってきた夜の中庭で、その目は確かに光を放っていた。