[ Chapter4「Death and the Shadow」 - E ]

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「あなたがサリエルね」
 ようやく一言発したアッシュは、首に刃物を突きつけられた状況にしては落ち着いた声をしていた。
「天の軍勢の怒りを買って、地獄の軍団に喧嘩を売って、さらに冥府まで敵に回して。あなたいったい何がしたいの?」
『教えてやるつもりはない』
 短剣の側面が白い肌へさらに強く押しつけられた。
 アッシュは言いかけた何かをこらえるように唇を引き結び、手に握ったままだった草刈り鎌を自分の斜め後方へ勢いよく放り投げた。その間、頭と両足は指一本分も動かさなかった。
 死神が武器を放棄する様子を、サイガはただ見ていた。妨害も逃亡も考えつかない。何も持たない両手を軽く上げるしぐさが丸腰のアピールであることぐらいは知っていたが、実際にそうする人を目の当たりにしても、自分がどうすればいいのかが全くわからない。
 迷彩服姿の兵士に捕まった女子高生。そんな光景に出くわすなんて思ってもいないのに、そんなときどう対応すればいいかなんて知るはずもないだろう。
「これでいい?」
 アッシュの問いかけに、サリエルと呼ばれた歩兵は応じなかった。見る者を威圧する視線は一貫してサイガだけに向けられている。
 サイガは気がつくとその黄金色の目を見つめ返していた。だから、次の瞬間に何が起きたのか、すぐには理解できなかった。
 空気を裂くような音を聞いた気がする。
 すぐそこで何かが動いたような気がする。
 小さな変化をぼんやりと認識した頃には、サイガの視界からアッシュの姿が消えていた。
「それにしても物騒な格好ね」
『西原彩芽の目にはこのように見えている。それは貴様も同じではないか』
「言われなくても知ってます。私はこの格好気に入ったけど。まあ悪くないセンスね」
 自分の名を呼ばれて我に返ったサイガの前で、死神と兵士が対峙していた。
 一瞬の隙を突いて拘束から抜け出したアッシュは、大きく跳んで距離を取り、今度は敵を正面に見る形で着地した。石畳の上にローファーの靴音が響いた。
 敵を取り逃がしたサリエルは左手を下ろし、たすき掛けしたベルトの一本に挟むようにして短剣を収めた。そして右肩に深く突き刺さった草刈り鎌を無造作に引き抜いた。
 投げ捨てられたはずの鎌がいつの間にか戻ってきて、兵士の肩口に一撃を食らわせていたらしい。しかしサイガがいくら目を凝らしても、中庭の奥にあるのは暗闇ばかりで、死神の味方らしき姿は見つけられなかった。誰がどこで拾って投げたのか。教えてくれそうな人もいない。
「仕方ないわね」
 アッシュはブレザーの腰のポケットに手を差し込み、今度は束ねられた黒いリボンを取り出すと、それをほどいて両手で広げるように持った。三メートル以上はあるように見える。相手を打ち据える武器というよりは、これから人を縛り上げるために取り出したような構えだった。
「手荒な真似はしたくなかったんだけど」
 死神が右腕を振るった瞬間、リボンの先端が音もなく空気を撃ち抜いた。
 サイガは思わずのけぞり、慌てて中庭の端まで後退した。リボンが自分の目の前をかすめたという認識が錯覚だったことには走りながら気づいた。
 その一投が真に狙ったのは奪われた草刈り鎌だった。柄に巻きついた黒い帯を一瞥したサリエルは、左手に握っていた柄を強く引いた。即座にアッシュがもう一方の先端を引っ張り返す。綱引きは数秒。投げ上げられた鎌が大きな弧を描いて死神の頭上へ落ちる間に、歩兵は短剣を抜き放ちながら駆け出していた。
(なあ、今、何が起きてるんだ?)
 まばたきするたびに、両者の位置も姿勢も優劣も変わっていった。
 不意打ちを峰打ちが弾く。蹴り足が姿勢を崩す。下段から突き上げられた拳が風を起こす。手刀が首筋をかすめる。掴まれた腕を捻って解く。払われた刃を逆方向から振り抜く。斬りつける。跳ね飛ばす。引き裂く。突き出す。受け流す。踏み砕く。破ける。弾ける。しなる。揺れる。吠える。触れる。飛ぶ。叫ぶ。
 すべてが、速い。
 サイガの目には戦況を全く追えない。
(っていうか……こいつらマジで何者だよ!?)
 両者の動き。気になる単語ばかりの会話。互いの素性をつかんでいるらしい関係。何もかもが間違いなく知らない世界の出来事だった。
 疑問と恐怖を山ほど抱え、それでも戦いの行方から目を離せない。警戒半分。興味半分。危険なショーの観客の気分を味わいながら見ているうち、サイガはある点に注目し、追いかけていた。
 歩兵サリエルの姿勢。よく見ると彼は常に左足を前に出した状態で攻撃を受け、また繰り出していた。もっとよく見ると、左手に持った短剣しか使っていなかった。背中と腰に銃や手榴弾といった強そうな武器をくくりつけているにもかかわらず。
 さらに注視するともう一つ見えてきた。さっき刺されていた右腕が全く動いていない。アッシュの攻撃を短剣で受け止めた後、空いた右手で彼女を捕まえるなり左手を支えるなり、素人のサイガでも思いつくような行動をそいつは一切取らなかったのだ。
(やっぱ、あれか? さっきの。あれ絶対痛いよな?)
 肩の筋肉をえぐっていたように見える曲線の刃。一瞬目にしただけなのに、つい自分の肩を手で抑えたくなるほどリアルに痛みを想像してしまう。本当のところ傷口がどうなっているのかはよく見えなかったが、その場所をかばうように動くのも無理はない、とサイガは一人で結論づけて納得した。
 しかしその直後、別の色をした記憶がサイガの頭の奥にちらついた。
『戯けたことを言うな』
 自分に向けられた左手の、何かをひねるような動き。
 白昼の男子更衣室でサリエルと初めて出会ったあのとき、理由はわからないが、とにかく首を絞められた。そのときにも使ったのは確か左手だけだった。両手で掴んで、などということはされなかった気がする。
 もともと左利きなのか?
(いや……それでも、なんか変だった、ような)
 サイガは推測を自ら否定しながら、戦闘の続きを見守った。途中からは見とれていた。途中で誰かに肩を叩かれたような気がしたが、すぐに忘れてしまった。
 今はどちらが優勢なのか。素人にはわからない。やはりサリエルの右手が動き出さないこと、途中でアッシュの鎌が次第に長く分厚い形状へと変化していることを発見した程度だ。だが細かいことは理解できなくても、すぐに決着がつきそうな空気ではないことだけはなんとなく感じた。
 中庭の中心でつばぜり合いが続く。掴んで掴まれて、絡めて解いて、押し退けて引き込んで、かすめてよろけて、防具を砕いて、スカートを裂いて――
「うわっ! なんだこれ!?」
 足首をこするくすぐったい感触が観戦を中断させた。
 反射的に叫んでから、サイガは自分の足元を見て、新たな困惑と恐怖に直面した。すぐそこの戦闘への関心は一瞬で吹き飛んだ。
 いつの間にか両足に何かがまとわりついている。それだけはひと目で分かった。クラゲの触手のような、朝顔のつるのような、細長い影がしきりに動き回っているようにも見える。しかし夜の中庭は暗すぎた。膝から下が真っ黒に染まっているようにしか見えず、病棟の窓から降り注ぐ弱い光では全体像が掴めない。
 一拍置いて、理解が追いついた。脚が覆われているのではない。足が得体のしれない感触に引っ張られ、ついさっきまでしっかりと立っていたはずの地面に、少しずつ沈み続けているのだ。
「マジかよ! これどうなってんだ……クッソ、動かねえし!」
 片足だけでも地面から抜け出そうとしたが、引き抜く動作のために踏み込んだ足がさらに沈んでいくだけだった。底なし沼。言葉しか知らなかったものが今そこにある。
 サイガは自分を助けに来たと言っていた死神を見た。
 既に攻防は中断されていた。身の丈ほどの長さの首狩り鎌を担いだ少女と、変わらず短剣を握る覆面姿の男が、揃ってサイガを凝視している。
 二人が互いに目配せをしたように見えたのは気のせいか。
 直後、サイガの両肩に柔らかく重たい感触がのしかかった。体を後ろから強く引かれ、こらえきれずのけぞった瞬間、銀色の流星がサイガの視界の端を横切った。