文化祭を翌週に控えたある日の朝。
普段通りに登校したまりあを待っていたのは、正門のすぐ奥に組み上げられた二基の櫓(やぐら)だった。鉄パイプをつなぎ合わせて造られた骨組みだけのそれは、およそ二階建ての家に並ぶ高さ。その姿に何かを察して声を上げ、あるいは特に反応なく、大勢の生徒がその間を通って校庭に入っていく。
(これは、何でしょう?)
「文化祭の看板を飾る門だよ」
彼女が疑問を口に出す前に、横から答えをささやいていく人がいた。
「補強が済んだら、三年生の他のクラスが飾りつけをするんだ。どんな飾りかは直前までのお楽しみ」
まりあは最初、感心しつつもただ聞こえただけと思って流しかけた。
しかし声の主が和泉先輩だと気づき、さらに先輩が振り向き手を振るのを見てしまったものだから、急に全身を緊張が走った。
「あっ……ありがとうございます!」
まりあは後ろ姿に向けて何度も頭を下げてから、櫓のような骨格を見上げた。
(これが、この学校の文化祭……)
他の生徒達と同じように二基の間を通り抜けると、その後は普段通りに校庭を横切って昇降口を目指した。校庭でも当日は何かが行われるらしいが、今は白線で描かれたトラックだけがある。
靴を上履きに替えてから進んだ階段では、壁に並ぶポスターの隊列が目に入った。各教室で開かれる出し物の告知が順不同で貼られている。踊り場の壁の中央では、合同劇の上演日時を宣伝する一回り大きなポスターがひときわ目を引いていた。
学校内のあちらこちらが文化祭の色に染まっている。
(いよいよ、なんですね)
これから祭りの会場に馳せ参じるような高揚感を早くも抱いたが、それも階段を登りきるまで。教室に入るときにはもう、まりあの気持ちは今日の授業に切り替わっていた。一時限目の数学Aが小テストから始まることを思い出したのだ。
「まりあちゃん、おはよー」
「おはようございます」
「さっき正門の前でぼーっと突っ立ってたでしょ。見たよー」
まりあが級友たちと挨拶を交わしながら席につくと、待ちわびたように隣の席から依子が身を乗り出してきた。彼女がこうするのは決まって、人に話したくて仕方ない話題をまだ誰にも聞いてもらえていないとき。そのことにまりあが気づいたのは最近のことだった。
「ねぇねぇねぇ、まりあちゃん、今日も劇の練習見に行く?」
「え、えーと……」
ネリッサ役の三年生は予定通り一週間で復帰した。無事に代役の務めを終えたまりあは、小道具作りなどの事前準備を終えた他の生徒達と共に、劇中のコーラスパートの練習を始めていた。しかしそちらよりも舞台の練習のほうが長引くため、まりあは時々こっそりと練習を見学していたのだ。
「行くんだったら、ちょっとチェックしてきてよ、陣内先輩の様子」
依子のアヒル口がまりあの耳元に迫ってくる。
「陣内先輩、ですか?」
「そう」
まりあが問い返すと依子はにんまりと笑い、ひと呼吸置いてから、
「昨日聞いたんだけど、先輩って実は……」
「雨宮さん、堀内、ちょっといいかな!?」
切り出した話を威勢のいい声に上書きされた。
まりあが教室前方を見ると、机を挟んで正面に、沼田のにやついた顔が近づいてきたところだった。彼の手にはメモ帳とボールペン。すぐにでも書き込めるよう構えつつ、なぜか小脇に新聞を抱えている。
「雨宮さんちって新聞とってる?」
「新聞ですか? はい、とっていますけど……」
「どこの? 何新聞?」
「ちょっと何してくれてんの、このボケガエル! 今超大事な話だったんだけど!」
その場に固まっていた依子が我に返るや立ち上がり、沼田に詰め寄った。
対する沼田は指一本分だけ下がり、ボールペンを持った手で敬礼のポーズを作った。
「何って? 事件捜査であります!」
「ポーズださっ……」
「新聞の捜査、ですか?」
脱力したように座る依子の隣で、まりあが小さく首をかしげた。
沼田は変な敬礼をしたまま答えた。
「いやあ、ちょっと調べたい事件がありましてね? 俺んちでとってる新聞には載ってなかったんで、他の持ってる人がいたら借りたいなーって」
「今度はどんな作り話を本物に仕立てる気?」
「作り話なもんか! うちの会長も言ってたぞ、火のないところに……なんだっけ」
「もういいから。他をあたってちょうだい」
依子は煙たそうな顔を強調しつつ、片手で払うしぐさをした。
それでも沼田は居座ろうとした。しかし彼が抱えているものと同じ新聞を購読していることをまりあから告げられると、落胆しながらもおとなしく撤退した。
「あーうるさかった。この調子でみんな同じ新聞だったらいいのに」
「堀内さんのお家も同じですか?」
「ううん、違う」
ライバル紙の名を挙げながら、依子は机に両肘をついた。今のやり取りだけでテンションを無駄に削られすぎたらしい。
「やっぱりあいつ絶対調子に乗ってるわ。まりあちゃんが余計なこと教えたせいで。別に悪いってわけじゃないけど、言わなくていいことっていうの、あるでしょ?」
「えっ……私、ですか?」
何の話が始まったのか、まりあは数秒遅れで気づいた。
先日彼女が出会った謎の人物の話だ。本人は都市伝説そのままの姿を目撃したことよりも、そこで起きた出来事の方を重要視していたが、話の聞き手たちの関心はそうならなかった。
とはいえ、怪人の実在を本気で確信したのはそれこそ沼田ぐらいしかいないらしい。残りの級友たちはまりあが混乱して記憶とイメージが混ざっただけだとか、噂に乗っかった誰かがわざとその格好をしていたのだとか、そういったある程度現実味のある仮説を支持していた。
「ただ怪しいヤツを見たっていうならわかるけど。あんなのいるわけない、何かの見間違いだってことにしておけば、沼田だってあんなふうに燃えたりしなかったのに」
「そう、でしょう、か……」
まりあの視線が教室をさまよう。
依子の意見、いや苦言を聞くたび、自分でも本当の気持ちがわからなくなってくる。
「まあ今さらよね。その後は目撃証言も出ていないみたいだし、怪しい人がいたっていう話も聞かないし」
「確かに……あ、でも、不審者がうろついていたっていう話は、あったみたいですけど」
「そうなの? どこ情報?」
「えっと、お母さんが今朝話していました」
アヒル口が固まった。
「詳しいことまでは聞いていませんが、帰り道には気をつけて、って……」
まりあはちょうど今朝のこと、家を出る直前の会話を思い出しながら話していたが、途中で依子の変化に気づいて言葉に詰まった。珍しい動物にでも出くわしたような表情に見えたのだ。
「……堀内さん?」
「高校生にもなってそんなことわざわざ言ってくる親って……なんでもない」
依子が一方的に話を完結させたところで、始業のチャイムが鳴った。
教室内を歩き回っていた生徒たちがそれぞれ自分の席に戻ってくる。その足音がやまないうちに、まりあは放り出されていた話題の一つに気づき、拾ってみた。
「そういえば、堀内さん。先ほどの陣内先輩のことですが、結局どういうお話だったのでしょうか」
「あー、それね。もうどうでもいいや。そのうちわかるでしょ」
さっきまで依子の目を輝かせていた関心事はすでに過去のことになっていた。