[ Chapter5「ヒロインはどこへ消えた?」 - E ]

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 一週間という時間は滝に流れ落ちるように過ぎ去っていった。
 夜を過ごし、朝を迎えるごとに、祭りの準備は着々と進んだ。
 そして巡ってきた金曜日。放課後に体育館で催された前夜祭において、今年の季花高校文化祭の開幕が宣言された。


「没収と言ったら没収だ! こんなものは文化祭に相応しくない!」
「そんなあ、徹夜して今朝やっとできたのに〜! 先生、どうかご慈悲を!」
 一夜明けて土曜日の朝。
 登校したサイガと実隆が昇降口で目にしたのは、丸めた模造紙を持って職員室に入っていく小森谷先生と、それを半泣き顔で追いかける沼田の姿だった。
「何だ、今の」
「さあ?」
 二人は教室に至る階段を登らず、職員室の前を通過した。固く閉ざされた引き戸にすがりつく沼田のことは放っておいた。
 合同劇を行う二つのクラスは一階の視聴覚教室に集合することになっていた。九月に入ってから何度もリハーサルをしていた場所だ。二人が到着したとき、開けっ放しになった扉の向こうには、既に多くの級友や先輩の姿があった。
「おはようサイガ、さっきそこで殺し屋が待ち伏せしてなかった?」
「見たけど全然こっちに気づいてなかった」
 先に登校していた池幡が、雑談と同時進行のジェスチャーで座席指定を伝えた。実隆は一年生が多く集まるあたりへ。サイガは最前列の端に送り込まれた。
 教室の前方は出演者たちの指定席だった。その多くを占める三年生たちの会話がサイガの耳に自然と入ってくる。
「ねえ、誰か慎(マキ)のこと見なかった?」
「来てないねー、そういえば。いつも私達より早く来てるのに」
「どうした?」
「陣内さんがまだ来てないんだって」
 サイガは横と真後ろの席を順に見た。
 入口近くで一年三組担任の根本先生と話しているのは和泉先輩、あるいは商人アントーニオ。その隣で大あくびを隠し切れない道化。校庭のテントの賑わいを気にする商人の友人たち。携帯電話を開いて何か操作している侍女ネリッサと、その背後から画面を覗きこむ公爵。他の主だった役者も揃っている。
 しかし聞こえた通り、貴婦人ポーシャの姿だけが見当たらなかった。
「もうすぐ時間だよ? 本番でまさかの初遅刻?」
「今メール出したから」
 始業時間のチャイムが文化祭一日目の開場を宣言した。直後に視聴覚教室のドアが閉ざされ、根本先生が教壇に立った。
「皆さ〜ん、おはようございます〜。眠そうな人が多いですけど、本番までには起きてくださいね〜」
 先生はさらなる眠気を誘いそうな声で呼びかけてから、一日目の全体スケジュールを読み上げた。
 二日間にわたる文化祭の両日で合同劇は午後に上演される。午前中には準備と宣伝活動が行われる予定だ。ただし手が空いた生徒は再集合時間まで自由行動となることが、この場で先生によって確約された。
 続いて和泉先輩が教壇に上がり、連絡と諸注意を読み上げた。最後に全員が一丸となって最高の舞台を作ろうと呼びかけると、誰からともなく拍手が起きた。
 引き締まった空気の中で一時解散が宣言された。すると教室の後方に集められていたコーラス隊がほぼ一斉に立ち上がった。彼らは公演を行う体育館へ一足先に入り、前夜祭の片付けと観客用の椅子の設置を行う役目も与えられているのだ。
「みんな頑張ってねー」
「そっちもなー」
 手を振りながら、設営終了後の自由時間の話をしながら、生徒たちが廊下へ出て行った。続けて裏方たちも下準備のために席を離れた。ざわめきが体育館の方向へ遠ざかっていくと、視聴覚教室は静かになった。
 残っているのは名のある役を演じる者、そして衣装製作の担当者たち。遅れて席を立った役者勢はこれからそれぞれの衣装に着替え、校内を巡回するパレードを行う。
 そのはずだったが。
「来ないな、陣内。どうしたんだろ?」
「まさか学校に来る途中で事故か何か」
「不吉なこと言わないでよ!」
「さっきのメール、返事ないのよね。もうちょっとしたら電話かけてみる?」
 衣擦れとささやきが混ざり合う教室に空白がひとつ。
 机の上に広げて置かれた貴婦人のドレスが、蛍光灯の光を静かに反射している。それは前夜祭のステージで喝采を浴びたときより色あせているようにも見えた。
「やっぱり電話してみようよ。状況だけでも確認しないと」
「まさかここでヒロイン交代? ねえ白戸さん、一応ポーシャのセリフも覚えてるよね?」
「一応……でもやっぱりあれは慎じゃないと無理だよぉ」
 女子生徒たちが一台の携帯電話に耳を近づけた。発信の呼び出し音を鳴らし始めてから少しして、その全員が揃って落胆の息を吐いた。
 しばらく重苦しい沈黙の時間が続いた。
 が、その空気は床を打ち鳴らす振動によって粉砕された。男子生徒も含めた出演者全員が揃って、サイガの足元に視線を向けた。
 サイガは手に取った金貸しの衣装を机の上に戻し、床に置いていた学生鞄を探った。取り出された携帯電話はまだ振動を続けていた。電話の着信だった。
(非通知? ……誰だ?)
 先輩たちの視線に囲まれたこの場所で電話に出るのはなんとなく気まずい。そう思ったサイガは携帯電話だけを持って視聴覚教室から退場した。
 教室後方のドアを出てすぐ先に階段があり、そこにはちょうど人通りがなかった。誰かが来る足音がないことも確かめてから、サイガは通話ボタンを押した。
「こんな時に誰だよ……もしもし?」
『西原彩芽だな』
 聞いたことのない声にフルネームを呼ばれた。
『校内にいることは知っている。役者が一人足りないと騒ぎになっているだろう?』
「……は?」
 若い男とおぼしき相手は突然、サイガたちの置かれた状況を指摘してきた。わけが分からずサイガが返答に困っている間に、さらに衝撃の言葉が重ねられた。
『いくら待っても無駄だ。彼女の身柄は我々が預かっている』
「預かっ……え? お前何言って……」
『ここに生徒手帳がある。……季花高等学校、三年二組十四番、陣内慎』
「陣内……先輩に何した!?」
 サイガは思わず叫んでいた。自分の声を自分で聞いてから左右を見回し、誰にも見られていないことを確かめていると、携帯電話からこらえた笑いが聞こえてきた。
『ちょっと眠らせて連れてきただけだ。それ以上の“何か”はしていない。今のところはな。お前次第だ』
「ふざけんな。なんでそんなことを。つーか、お前誰なんだ」
『確かめたければ今から桜埜(サクラノ)公園に来い。場所は分かるな? 十五分だけ待ってやる。誰にも言わずに一人で来るんだ』
「……十五分後に、桜埜公園」
『誰も呼ぶなよ? でないと先輩がどうなるか……』
 小さな笑い声を残して通話が切れた。
 サイガはしばらく携帯電話を耳に当てたままその場に立っていた。だが、ここで止まっている場合ではないと思い直し、すぐに引き返した。
  階段脇から視聴覚教室の前へ。
 角を曲がった直後、目の前に誰かが現れた。
「西原くん!?」
「すぐ戻るっつっといてくれ!」
 衝突寸前でかろうじて身をかわしたサイガは、相手の顔も確かめずに一言を残し、廊下を全力で走った。