[ Chapter5「ヒロインはどこへ消えた?」 - F ]

back  next  home

 廊下の角から人が飛び出してきた。
 まりあは突然迫ってきた衝突の危機に対し、とっさの行動が何ひとつできなかった。しかし相手のほうがギリギリのところで身をよじり、まりあを避けてくれた。
「西原くん!?」
「すぐ戻るっつっといてくれ!」
 サイガは振り向かないまま一言を残し、昇降口の方へ走っていった。
 その場に残されたまりあは遠ざかる後ろ姿を見ながら、無意識に手を胸元へ当て、セーラー服のリボンを握りしめていた。リボンに包まれたメダルの固い感触が少しずつ落ち着きを思い出させてくれた。
(今の、って……)

 まりあが廊下の角にいたのは半分ほど偶然だった。
 本来なら設営班の一員として体育館へ入り、既に作業を始めている頃だ。しかし彼女は移動中の雑談によって、先生の指示の一部を聞きそびれていたこと、鞄を置いてきた視聴覚教室がこの後しばらく出入りできなくなることを知った。
「お財布だけでも取ってきたら?」
 友達の勧めでまりあは一人引き返し、視聴覚教室の前まで戻った。そして中に入ろうとしたところ、廊下の奥から飛んできた声を耳が拾ってしまった。
「陣内……先輩に何した!?」
 聞き取れた名前につられて足を止め、耳を傾けた。
 教室を通り過ぎてから一歩分のところで壁が途切れている。声はその先、曲がり角の向こうにいる人が発しているようだ。
 まりあは曲がり角の先に階段があることを思い出した。
「……十五分後に、桜埜公園」
 声自体にもどこか聞き覚えがあるような。誰だったかしら。
 頭の中に候補が上がる前に、携帯電話を折り畳む軽快な音が廊下に響いた。突然発せられた違う音にまりあが驚いた直後、まさにその曲がり角から、西原彩芽が飛び出してきたのだった。

(……どういう、ことでしょうか)
 聞こえたのはサイガの声だけだったが、携帯電話を持っていたから通話中だったのだろう。それにしても穏やかでない様子と言葉に、まりあの心の奥底で不安が芽を出す。
(陣内先輩、そういえば今日はまだ登校されていない、と聞いたような気がします)
 誰から聞いたのかと記憶を探ろうとしたまりあは、ふと、自分がここへ何をしに来たかを思い出した。そして目の前に迫っていた視聴覚教室のドアを開けた。
 中にいた生徒たちが一斉にまりあへ視線を向けた。
 彼らは教室をついたてで二分する作業の最中で、即席の壁の奥に男子、手前に女子がいた。その中に陣内先輩の姿はなかった。
「あれ、どうしたの?」
「すみません、忘れ物をしてしまったので、取りに来ました」
 まりあは本来の目的を鞄ごと回収すると、静かな急ぎ足で教室の外へ出た。先輩のことも、ついさっき出会った同級生のことも、なんとなく言い出せなかった。
 完全に閉ざしたドアの窓ガラスがため息で曇る。
(さっきの西原くんの言葉、聞き間違いだといいのですが)
 あれは陣内先輩の身に何か、それも悪いことが起きたかのような一言だった。
 しかし発言者はもうここにいない。どこへ行くのか、手がかりも聞き取れてはいたが、それはまりあが知らない場所だった。
 気になるのに、何もできない。
(すぐに戻ってきます、よね……?)
 まりあは仕方なく再び体育館へ向かった。
 廊下を進む途中で職員室が目に入ると、先生に相談するという選択肢を思いついた。だが中を見てみると教員のほとんどが不在で、残って何か仕事をしている先生はまりあの呼びかけに反応してくれなかった。
 自分たちか陣内先輩、どちらかの担任がきっと体育館にいる。そのことに気づいてからは脇目を振らなくなった。歩き進めるうちに先生でなくてもいいと思うようになった。聞いてしまった内容が正しいのか勘違いなのか、定まらないこの不安を共有できるなら誰でもよかったのかもしれない。
 廊下の終点にあるドアが開放されている。その先から騒がしい物音と集団の声が聞こえてくる。
 まりあは歩きながら鞄を抱え直し、すっかり重くなった心も強引に持ち上げながら、校舎の外に出た。
 外に出てすぐ、体育館入口の開け放しになったドアが目前に現れた。
 しかしまりあの目に入ったものはそれだけではなかった。
(や、柳さん……と?)
 体育館の中ではなく外に、雨よけの屋根に迫る長身の同級生がいた。
 柳重孝は何かを受け取ろうとしていた。その何かを渡していたのは、白に限りなく近い金髪を持ち、学校の制服でないラフな服装の青年だった。
 見慣れた顔と、見覚えのある横顔。
 呼び起こされた記憶が段差を駆け下りる足をすくい、もつれさせた。まりあは小さな悲鳴を上げながら不規則なステップを踏み、最下段でなんとか体勢を立て直した。
 呼吸を落ち着かせてから顔を上げると、二人共がまりあに顔を向けていた。
「あの時の……」
 青年の口からこぼれた一言は確信だった。
 それを聞いたまりあもまた確信した。
 人違いで追いかけた相手。仮面の怪人と何かを話していた人。
 同じ場面に重孝もいたことを思い出して、まりあは二人が今ここで一緒にいることに納得がいった。学校関係者でなくても出入りできる文化祭なら、知り合いが会いに来ることは珍しくない。
 その重孝が顔を、長い前髪に隠れた目を、まりあに向け続けている。
 ずっと見られているうちに、まりあは二人の前を黙って素通りすることをためらうようになった。何か言わないといけないような気がする。でも何と言えばいいか。考えるうちに、唇が自然に動いた。
「あのっ、桜埜公園……ご存じですか」
 口走った言葉にまりあ自身が驚いた。
 体育館の中にいる先生に伝えるため、忘れまいと頭の中で繰り返していたキーワードが、うっかり転がり出たのだった。ここで言っても仕方ないのに。
 しかしまりあが質問を取り消す前に、重孝は首を大きく縦に振った。そして再び無言の凝視に戻った。
 動きを止めた二人を交互に見ていた青年が、困惑を隠し切れない様子で尋ねた。
「……それで?」
 まりあは仕方なく、視聴覚教室の前で目撃した一部始終を二人に説明した。思えば相談の相手は先生以外でもよかったのだから、彼らでもいいのだ。それに言うべきかどうかを迷う時間も惜しかった。
 重孝は直立不動のまま、終始表情を変えずに耳を傾けた。
 隣の青年は話が始まるとすぐ、下げていたショルダーバッグに片手を突っ込んだ。いくつかの固有名詞が挙がったときには視線が揺れ動いていた。まりあがすべてを話し終えた頃、彼は難題に突き当たったような顔になっていた。
「なあ、重孝。あんたはそのナントカ公園っていう場所への行き方も知っているのか」
 青年の問いかけに重孝は一瞬だけ固まり、それから小さく何度もうなずいた。すると青年はこう続けた。
「俺をそこへ案内してくれ。そいつを止めに行く」
 重孝がこれまでで一番機敏な動作で青年の顔を見た。そして口元をわずかに動かし、まりあにまでは届かない声で何かを言ってから、校舎の裏手へ走っていった。
「えっ、あの、柳さん!?」
「そこで待っているんだ。絶対についてくるな」
 そう言い置いて青年も走り去った。
 体育館の入口に一人だけが残された。その姿に気づいた級友に声をかけられるまで、まりあは二人が消えた方向を呆然と見つめていた。