[ Chapter6「とある悪魔の解放交渉(ネゴシエーション)」 - E ]

back  next  home

 堅いものが砕けるような音を最後に、室内は完全に静まり返った。
 謎の女は目を見開いたまま動きを止めていた。その唇はサイガが腕を伸ばせたら届くだろう距離にある。何かを言いかけたきり固まった顔の脇に、鋭利な刃物で切断されたコードの切り口が落ちていた。
『どうやら泳がせ過ぎたようだ』
 落下物が来た方から声がした。
 顔を上げたサイガは女の背後に立つ影を見つけた。はじめは錯覚を疑い、次に立てこもり男が舞い戻ってきたのかと思ったが、目を凝らして認識した姿は違うどころか予想の範囲にもないものだった。
 ついさっきまでテレビの中継画面に映っていた人物、ヘルメットとアサルトスーツと防弾ベストを着込んだ警察官が、カーテンを背にして立っている。
(警察? なんで、いや、どうやってここに?)
 助けが来た、と思ったのは一瞬だけ。その人はいつどこから、どうやって音もなく侵入を果たしたのか。一度湧いた疑問は消えず、しかしサイガに答えは思いつかない。そして考える余裕自体がすぐに失われた。
 カーテンの前に置かれていたはずの液晶テレビがないことに気づいたために。
 そのテレビがついさっき女の背中に激突したことに気づいたために。
(まさか、こいつがあれを、ぶん投げた? 後ろから?)
 落下物の軌跡と一緒に生じた鈍い音が耳の奥で再生された。今思えばあれは人体が発する音ではなかった。
 そもそも液晶テレビは飛び道具じゃない。同じ画面サイズのブラウン管テレビよりは小さくても、人間の背骨にぶつけて平気なわけがない。
(止めるにしたって、やり方手荒すぎねーか!?)
 サイガが身震いする間に、警察官は陣内先輩が座る椅子の前に移動していた。フェイスガードがついたヘルメットを見上げる人質の顔には心からの安堵が現れていた。
「あの、」
『解っている』
 状況の説明か質問か、言いかけた陣内先輩を、重くのしかかるような低音がさえぎった。
「何する気だ、やめろ!」
 サイガは不穏な直感に突き動かされて叫んだ。
 そいつを先輩に触れさせてはいけない、気がする。自信がある。根拠を聞かれたら困る自信もある。
 武装した黒い背中は少しも振り向かなかった。
『助かりたいか?』
「は……はい」
 警察官としては少々不自然な問いかけに、戸惑いを含んだ肯定の返事が続いた。
『正直な返事だ。良いだろう。……全ての憂いを忘れて眠れ』
 重武装の背中の向こうで、細い腕が力を失い垂れ下がった。
 何かが起きた。焦るサイガの前で物々しいヘルメットがようやく回転した。昼白色の照明が逆光となってヘルメットの内側に影を落とす。頭ひとつ分の闇の中ではっきりと、黄金色の眼光が輝いた。
 その瞬間、サイガの視界は鮮明な記憶に覆い尽くされた。
 投げ出された屋上から見た空。
 更衣室で出くわした薄闇。
 病院の中庭に現れた底なし沼。
「お前……先輩に何した! 桂! じゃなく、て、サリエル!」
『落ち着け。今騒いでも無駄だ』
 怒りの名指しにサリエルは一切動じなかった。半歩引いて体の向きを変え、改めてサイガを見下ろす、その顔は黒いマスクで表情を隠されていた。
 サイガは意識的なまばたきで回想の残像を振り払うと、横たわる姿勢はそのまま、首だけを精一杯持ち上げた。手首には相変わらずロープの感触がある。謎の女が味方らしいことを言っているうちにこれを外させればよかった、そう思っても既に手遅れだ。
「落ち着いてられるか。だいたい何なんだその格好」
『貴様と違ってこの娘は警察の救援を本気で信じていた。監禁された自分達を必ず発見すると真剣に期待していた。故に我輩がこのような姿に見えていたのだろう』
「娘、って……陣内先輩?」
『他に誰が居る。言っておくが外見など些細な問題だ。同じ概念、同じ存在であっても、そこに見出す連想は人により異なるのが常だろう?』
 サリエルのそばで、椅子に座ったままの陣内先輩が目を閉じ、上を向いた姿勢で動きを止めている。頬や首筋が血色を失い真っ白になっていた。
 最初は先輩の身を心配してその姿を見ていたサイガだったが、次第に違和感を覚えるようになった。生気をなくしたような変化が肌だけでなく制服のスカーフや椅子の脚、さらに背景である壁にまで及んでいることを発見したとき、彼は愕然とした。
 室内のあらゆるモノから、空気から、色だけが抜けていく。
 サイガが首の力を抜いて頭を床につく間にも異変は進んだ。謎の女の半開きになった唇も、分厚い扉のようなカーテンも、冷たい灰色に近づいていく。
 目の前の偽警官が着込む装備もまた同じ。画面の中で動きまわるアサルトスーツは確か青か紺色だったはずだが、サリエルがまとうものはほとんど黒色にしか見えなかった。
『さて、次は貴様の番だ』
 白黒写真のような空間の中心で、サリエルの左手がサイガの顎に触れた。指先の力が強引に人質の顔を持ち上げていく。
 サイガは次の展開を予想してみた。もしそれが今見た通りの展開で、先輩のときと同じ質問を自分も受けたなら、答えは一つだ。即答してやろう。
 言葉を用意したサイガの鼻先にフェイスガードが迫った。黄金色の目がわずかにその形を変えた。
『よく聞け』
 この男は笑っていたのだろうか。
『残念ながらこの手は今、一人しか救えない。それでも助かりたいか』
 サイガは用意していた言葉を即座に破棄した。
 “もしも”がつかない質問だった。今この場から救出できるのは、自分か陣内先輩、どちらか一人だけ。本当にそういう意味なのか。
 探りを入れる時間も技術もサイガは持っていない。口を開くことを我慢して、正面向きに固定された首の痛みに耐えながら、まだマシな返答を考えた。
(こいつは何考えてんだ?)
 漂白されていく空間の中で、偽警官の瞳だけが色褪せずに輝き続けている。ただ見られているだけなのに、サイガは眼の表面を焼かれるような熱さを感じた。
 痛みから逃げるように逸らした目で、サリエルの右手を見た。
 家に居座っている幼児もそうだが、大人の姿で現れた彼も、右腕の出番が一向に来ない。動かせないという話が同じなら、確かに片腕だけで二人をこの部屋から救い出すのは困難かもしれない。この男に今さら常識を求めていいならの話だが。
(だいたい、なんでここに来たんだ? こいつはあのクソ野郎の……)
 上から見下ろした土下座が脳裏に浮かんだ。
 その瞬間、サイガは迷いの森から脱出を果たした気分になった。
『答えろ』
 重低音の圧力が増す。
 求められているものはひとつ。イエスかノーか。
「わかった」
 サイガは全身を押さえつける空気をなぎ払うように、行き着いた結論を宣言した。
「俺のことはいい。先輩を助けてやってくれ」
『それは本心か』
 サリエルが問いかけた。考え直しを促すというよりは単なる事実確認の口調だった。
「ここで助け出されたって、どうせ俺は後でお前に殺される予定なんだろ。あのクズのために。だったらここで先輩のために死ぬ方が何万倍も幸せだ」
 サイガは胸を張って答えた。ファイナルアンサー。
『成る程』
 顎を掴んでいた左手が離れた。
 抵抗もなく落下したサイガは再び床に倒れた。天井を仰ぐと、偽警官の左手に短剣が握られるさまが視界に入った。どうやらその刃で何かを始めるらしい。
 腹を決めて目を閉じた。
 ところが次にサイガが得た感触は、両手首を縛っていた縄が切断され、拘束力が失われるというものだった。
(……あれ?)
 思っていたのと話が違うような。
 気になって薄目を開けた直後、サイガの意識は断ち切られた。