[ Chapter6「とある悪魔の解放交渉(ネゴシエーション)」 - F ]

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 立てこもり事件の現場周辺は、メディアが報じている以上に騒然としていた。
 マンションを隣接する広場ごと包囲した警察。規制線の外にひしめく取材者と野次馬たち。その様子を俯瞰する報道ヘリ。降り注ぐ騒音が地上のあらゆる音を壊し、互いの声を聞き取れない人々は次第に声を荒げ始めた。
 しかもその混乱の中へ救急隊が割り込んできた。彼らは事件の展開を見越して待機するかと思いきや、立ち入りが規制された桜埜公園に担架を持ち込み、そこに倒れていた意識不明の男たちを次々と運び出していった。
「あれは放置していいのか」
『ほっときなさい』
 ウィルのかすかな、独り言にしか見えないようなつぶやきに、返答があった。その声はウィルにしか聞こえていない。彼の傍らに立つ少女を気に留める人間もいなかった。
 見習い天使と死神は公園入口を囲む野次馬の後ろにいる。意識を取り戻した重孝も少し前まではその場にいたが、彼は黒いバイクを手で押してどこかへ行ってしまった。
『悪魔と関わった記憶は事情聴取のついでに回収したけど、乱暴目的で女の子をさらったのは、間違いなく自分たちの意志で犯した罪だから。その辺の始末は生者の仕事』
 女の子、という言葉にウィルは惑わされかけたが、すぐに学校で聞かされた話を思い出した。そういえば行方不明の人間がいるという話がここに来るきっかけだった。関係はあるのだろうか。確かめる方法を探そうとして、すぐその無意味さに気づいてやめた。
「ところで、あんたはここにいていいのか」
『いいわけないに決まってるでしょ』
 アッシュはあからさまに機嫌の悪そうな反応を聞かせた。
『サイガの居場所は把握済み。拉致された女の子と一緒に、警察が囲んだ場所の近くで息を潜めているの。だけど、私は助けに行けない』
「どうしてだ?」
『死神は生きている人間の行いには干渉しないのが原則なの。立てこもっているのが悪魔なら遠慮なく狩りに行ったけど、調べたら犯人は悪魔と取引していた人間の方だった。こうなると上司の許可が下りない限り介入できないのよ』
(なんだ、俺と同じか)
 ウィルはショルダーバッグの側面に触れた。小銃と一緒に収められた日記帳は何も語りかけてこない。
『そういうあなたも結局居残るのね』
「手ぶらで帰るわけにはいかない状況なんだ」
 これだから初心者は、などという嘆きがこぼれる。ウィルはそれに耳を傾けるのをやめ、問題のマンションを見上げた。
 いくつかの部屋のベランダに警察官がいる。全員が青色の装備で全身を固めている。その配置に囲まれ、四方から凝視されている無人のベランダが事件の現場だろう。順繰りに見ている間にも、空白の隣の一室にロープが降ろされ、上階から濃紺のスーツを着込んだ人間が降りてきた。
 装備の色が違う。
 ロープを手放した捜査員の姿にわずかな違和感を覚え、上下左右と見比べた。その背中は最初、他と明らかに違う色に見えたが、次第に大差ないように思えてきた。
 さっきと色が違う。
 全員が平等に、あるはずの色を少しずつなくしている。
(この感覚、どこかで。……まさか)
 ウィルが心当たりを確信した時、色彩の変化はマンションの表面積の半分を覆い、野次馬が密集するあたりまで広がっていた。それなのに警察も報道陣も通行人も誰一人反応しない。誰もが事件現場を仰ぎ続けている。
(結界に大勢の人間を飲み込んで、何をするつもりだ?)
 疑問を解く方法を一つしか思いつかなかった。
 ウィルは歩道を埋める野次馬をかき分け、警察官が作る壁に沿って進んだ。
 公園の前には口々に何かを噂しあう人々が多かったが、マンションの入口に近づくと機材を構える人の割合が上がった。左頬に大きな傷跡のある男が、前から横から何本ものマイクを突きつけられ、困惑した様子で質問に答えている。
「いや、隣同士でもめていたとか、そういったトラブルの話は聞いてませんけど……」
 正面玄関が見える位置まで来ると、背広姿の男に足止めされた。その頭の後ろで晴天の空から青色が消えた。
「お兄さん、そこで立ち止まらないで、危ないから! 日本語わかる!?」
 ウィルは退去を促す男より頭一つ高い視点から、規制線の内側を見渡した。
 敷地内を動き回る人々は服装や武装に関係なく同じ目をしていた。好奇心などかけらもない。彼らは市民の平穏を脅かす敵と戦っている。
 その敵がどこにいるのか確かめようと、ウィルが建物を見上げたときだった。

『突入しろ』

 ノイズ混じりの重低音がウィルの耳に刺さった。
 それは命令だった。周囲の人間は誰も反応しなかったから、彼ら以外の何かに向けられたメッセージだと、見習い天使の直感は判断した。
 ところがその数秒後、マンションの上階が突然騒がしくなった。やや遅れて地上の、今やウィルの後方に詰めかけていた報道陣が一斉に口を開き、カメラのシャッターを切った。
「たった今、犯人が立てこもった部屋に、警察官が突入したようです!」
 興奮した声を流し聞きしながら、ウィルは外壁を見上げた。
 曇りにも似た白い空の下で男のわめき声が反響する。立てこもり犯が身柄を確保されたらしい。吠えるように唱え続けられた呪詛は明らかにどこかの悪魔へ向けられた響きで、しかしどこにも届かないまま、ヘリコプターから放たれた爆音に吹き飛ばされて散った。
 人質となっていた母子の保護。犯人の連行。誰かの罵声。歓声。
 報道陣が事件現場の動きを逐一説明しながら大移動を始める中、ウィルはその場にとどまって周辺に目を配った。建物の外にいる捜査員たちもまた忙しく動いているが、何故か慌てているようにも見えた。
(今、何が起きている?)
 人としての五感は何も捉えられない。犯人を載せた大型車がマンションの正面玄関を発車した瞬間、最高潮に達した野次馬心に四方八方から揉まれ、転ばないよう耐えるので精一杯だった。
 だが肉体の鎧の内側で、ウィルは確かに感じ取った。空気の震え、あるいは魂の震え。その感覚だけに身を任せた瞬間、世界の色が変わった。
 庭を行き交う捜査員の中にたたずむ白い影。
 近づいてくる白い仮面。
 その姿は明らかに目立つのに、人間たちは見向きもせずに通り過ぎ、あるいは急に気が変わったように離れていった。いつしか周囲には誰もいなくなっていた。
 遠くでたかれるフラッシュよりも眩しい白が、ウィルの正面に立っている。
「サリエル……」
『持って行け』
 仮面の男は真っ白なコートの左肩を覆うように何かを抱えていた。
 ウィルがそのことに気づいた時には、白い顔が目の前まで迫り、怯む隙さえ与えずにその荷物をウィルの右肩へ移し替えていた。
 銃を取り出せなかった腕に、柔らかさと暖かさ、そして予想もしない重量がのしかかった。
「待て。これは何だ。持って行け? どこに?」
『直に分かる』
 サリエルは一言を残してウィルの左側を通り抜け、歩道を行き交う人々の間に割り込んだ。ウィルが振り返ったとき、その姿はもう跡形もなく消えていた。
 残された荷物には右肩だけでは支えきれない大きさもあった。ウィルはそれを両腕で抱え直してからそのぬくもりが毛布であること、そして中に何か、いや誰かが包まれていることに気づいた。
 息がある。鼓動を感じる。
(これは、何だ?)
 教官に伺いを立てようにも、両手がふさがっていては日記帳に手が届かない。しかし元通りに人が行き交うようになったこの場では肩の荷を下ろせない。ウィルは仕方なく人の流れを肩でかき分け、公園の方へ引き返した。
 バイクから降りた時と同じ位置で重孝が待っていた。物静かな案内人はわずかに口を動かしたが、か細い声をウィルに届けるには周囲が騒がしすぎた。
「すまない。連れ戻せなかった」
 ウィルは人間に話せない部分をまるごと省略した短い報告を伝えた。すると重孝は首を小さく横に振って、それから運ばれてきたものを何も言わずに引き取った。
 荷重がウィルの肩から離れる瞬間、毛布の隙間から長い黒髪の一房がこぼれて風になびいた。