[ Chapter6「とある悪魔の解放交渉(ネゴシエーション)」 - G ]

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 陣内慎がようやく学校に現れた。
 その知らせをまりあが耳にしたのは、合同劇の関係者一同が体育館に集合し、一日目の上演に備えている最中のことだった。
「良かったぁ、事故に巻き込まれたとかじゃなくてぇ」
「でも今日の公演どうするの、代役で行く方向で決まったんでしょう?」
 客席の隅で待機する女子生徒たちの率直な感想が、次第に辛辣さを増していく。誰も陣内先輩本人を責めないし事情を探ろうともしないのは、普段の行い、人徳のなせるわざかもしれない。ただしその分が形を変え、別の方向へ怒りを加速させていた。
「で、サイガは何なの? せっかく選ばれたのに、当日いきなりサボるとか、マジ最低」
「せめて柳さんみたいに、陣内先輩探してた、っていうんだったらまだわかるけど」
 そう、本当はそうしていた、はずなのに。
 まりあは口を挟みたくなる気持ちをこらえ、舞台上に視線を向けた。
 陣内先輩が重孝に付き添われて登校する少し前、先輩同様行方不明となっていたサイガがふらりと体育館に現れた。こちらは最初こそ無事を喜ばれたが、一人で消えて一人で戻った理由を問われた彼が口を閉ざしたために、歓迎ムードは一瞬で非難の嵐に変わった。
 サイガは今、周囲の圧力に屈し、和泉先輩や担任教師たちの前で土下座している。
(西原くんだって、先輩のために何かしていたのなら、きちんとそう言えばいいのに。どうして黙っているのでしょう)
 事情の断片しか知らないまりあには、サイガをかばうことも、彼の心情を想像することもできなかった。
(あの電話のこと。やっぱり先生にも話せばよかったのでしょうか。……でも私は聞いただけで、本当のことはわかりませんし、プライベートの話といえばそうですし)
 言い表せない苦しみに心を揺さぶられ、舞台から目をそらす。
 根本先生のとりなしで謝罪パフォーマンスが一段落し、サイガは他の役者や道具係に連れられて舞台袖へ消えた。体育館の片隅に、劇中歌を合唱する生徒だけが残った。
(私にできたことは他にあったのでしょうか)
 まりあは胸に手を当て、制服の下に隠れたメダルをスカーフで包むように握りしめた。
 周囲はまだざわついている。同級生への小さな怒りは先輩への心配の声とともに、本番直前まで常にどこかでくすぶり続けた。その空気の香りは皮肉にも、台本に書かれている金貸しへの風当たりに似ていた。


 開演直前。
 大入りの客席のざわめきが幕越しに舞台袖まで聞こえてくる。そこに控える生徒たちは、役者も他の担当も皆、同じ緊張を共有していた。
 そんな中でサイガは一人、大道具に埋もれるようにして座っていた。
(今回も振り回されただけで終わりかよ……くそっ)
 黄金色の眼光の前で意識を失ったサイガは、学校の裏庭で目を覚ました。時間が巻き戻されたわけではないことはすぐ分かった。スラックスのポケットに入っていた携帯電話に、数えきれないほどの不在着信とメールが残されていたのだ。
 急ぎ向かった集合場所でサイガを待っていたのは、お叱りと罵声の大洪水だった。弁解しようにも説明しづらい事情ばかり。しかも関係各所に多大な迷惑をかけたことは事実。サイガにできたのはとにかく謝ること、そして迅速に役の衣装に着替えることだけだった。
 支度が整った今も周囲の視線は冷たい。友人たちにさえ距離を置かれている。
(先輩は無事戻ってきた。結果オーライ。だけど……一人しか救えないんじゃなかったのか)
 サイガは両手首に残るロープの跡を見つめ、それから頭を抱えてうずくまった。
 何がどうなって問題が解決し、どうやって自分と先輩の両方が生還できたのか。いくら考えても何も思い出せず、謎の歩兵や警察官や死神が現れることもなかった。
 手を下ろしたままうなだれている間に、隣に誰かが座る気配がした。サイガが脇に目を振ると、ドレスアップした貴婦人が視界に現れた。
「陣内先輩……」
「いよいよ本番ですね」
「……舞台、出るんですか」
「ええ。皆さんは心配してますけど、本当に、どこも悪くないんですよ」
 淑女の微笑みの中に強い決意の輝きが宿っている。何かを隠そうと無理に力を入れている印象は感じられなかった。
 陣内先輩は失踪中の出来事を覚えていないらしい。サイガが舞台袖で耳にした雑談を思い出していると、不穏な記憶が割り込んできた。
『全ての憂いを忘れて眠れ』
 言葉通りの現実。サイガは気味悪さと疑いを抱き、そして本当に記憶がないのか確かめてみたくなった。何かキーワードを投げたら反応するだろうか。
「先輩」
「どうしました?」
 返事を聞くなり、浅はかな考えが吹き飛んだ。あれは掘り返していい記憶じゃない。
「あの……」
 なんでもない、をなんとなく言い出せない。代わりの話題を何か。サイガは先輩絡みの記憶を急ぎかき集め、未解決の疑問を一つ探り当てた。
「……俺を今回の劇に推薦したの、桑田先輩だって聞いたんですけど」
 他人から聞いた風を装う言い方になってしまったが、陣内先輩は何も疑問に思わない様子だった。むしろ楽しい話題に出会ったように笑顔が花開いた。
「そう、そうなんです。桑田くん、この役が絶対に合ってるから使ってほしいって、和泉くんたちに頼んでいたんですよ。本当に熱心に」
「そんなに? ……でもどうして、桑田先輩がそんなこと」
 サイガはその人物について、水泳部の部長としての顔しか知らない。部員を熱心に指導し、練習にはストイックに取り組む人だったが、それはあくまで水泳の話。シェイクスピアどころか演劇も読書もイメージにないし、他のクラスの催しに口を出すことも意外だった。
 驚きを顔全体に貼りつかせた後輩を見て、ヒロインはおかしそうに笑った。
「西原くん、自分でこれが正しいとか、絶対必要とか、そう思ったことはどんなに反対されても諦めないでしょう。頑固とも言うけど、強い心とも言える。それは自分なりに信仰を貫こうとするシャイロックに通じるから演じやすいはず、って桑田くんは言ってました」
 それはポジティブな評価なんだろうか。サイガは反応に困った。
 一方、なぜか陣内先輩も悩むようなしぐさを見せた。
「それともう一つ……これは文化祭が終わってからお話しようかとも思いましたが、西原くんの場合はもしかしたら、全部知ってから舞台に立ったほうがいいかもしれませんね」
 話には続きがある。
 意識せずサイガの背筋が伸びた。
「これは最近聞いた話ですが。桑田くん、小森谷先生から圧力をかけられていたそうです。『あれは学校の恥だからどの大会にも出すな。後から頭を染め直しても駄目だ、私が許さん』、というような話をされていたらしくて……」
 個人名が出た瞬間にサイガは息を止め、最後まで聞いてからため息に変えた。
 たかが髪色。されど校則違反。目をそらしていた現実が迫ってくる。
「桑田くんは西原くんの事情も、水泳を真剣に頑張っていることも知っていて、大会前だけ黒に染めるよう説得するつもりだったそうです。でもそれもダメと言われて。このままだと、どんなに練習頑張っても報われないまま、悔しいだけの高校生活になってしまう」
 聞き手の脳裏を記憶が駆け巡る。
 ある人物の怒り顔と、別の人物のヘラヘラした顔が、交互に現れては消えた。
「それで悩んでいたときに合同劇の話を聞いて、思いついたそうです。校内ならどんなに目立ってもいい。最高の舞台に立てるんじゃないか、って。それで原作を読んで、和泉くんのところへ相談に行ったそうです」
 サイガはその話の意図するところをすぐには理解できなかったが、元部長が文化祭実行委員や顧問や現部長にいろいろ頼んで回る姿はなんとなく想像できた。そして気づいた。
 この舞台は、勝負だ。
 そこに求められているのは。
『皆様、大変長らくお待たせいたしました。まもなく開演いたします……』
 体育館に女子生徒の声によるアナウンスが流れた。
 舞台袖の生徒たちが誰からともなく和泉先輩のもとへ集まり始めた。互いに誘い合い、主役を軸とした円陣が組まれる中、ヒロインにも手招きが来た。
「ありがとうございました、陣内先輩」
 サイガは立ち上がった。一言が、次の行動が、自然に出てきた。
 貴婦人のドレスの裾が大道具に絡まないよう手を貸し、共演者の元へエスコートする。一歩進むごとに迷いが薄れ、疑問も憂いも心から剥がれ落ちていった。
「俺、頑張ります」
 最高の舞台にしてやろう。幕の向こうにきっといるだろう桑田先輩のために。一緒に練習を重ねた先輩や級友たち、これから大会で戦う水泳部の仲間のために。
 そして、自分を自分でいさせてくれない奴らの度肝を抜かせてやろう。