[ Chapter7「新たなる課題」 - A ]

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 週の初めの日、すなわち月曜日の、昼過ぎ。
 柳医院に隣接する院長宅の一階で、ウィルはテレビ画面に見入っていた。
『先週土曜日の、午前九時半頃。こちらの閑静な住宅街で事件は起きました』
 昼食を共にした院長たちが仕事に戻り、広いリビングに一人きり。エプロンをつけたまま、左手首に少しだけ洗剤の泡を残したまま、ソファに腰を下ろしてくつろぐ。その姿はとても補習受講中の見習い天使には見えないものだった。
 もちろん彼は自分の立場を忘れてなどいない。ついさっきまでは真面目な顔で課題に取り組んでいた。と言っても課されたのは食後の皿洗いで、基本をマスターしたと判定したのは院長だったが。
『事件当時、この部屋に住む会社員の男性は外出中で、室内には男性の妻と三人の子どもたちがいました。容疑者が男性宅に侵入した際、長女と次男は外へ逃げ出しましたが、逃げ遅れた妻と長男が……』
 午後の情報番組のトップニュースは、二日前に発生した立てこもり事件の顛末だった。それはウィルが足を運んだマンションで目撃した騒ぎに他ならなかった。繰り返し流れる映像にも、現場の様子を説明するレポーターの声にも、覚えがある。
 先週までウィルはこの受像機から流れる情報にほとんど興味を持っていなかった。自発的に番組を視聴するようになったのは、雑多な話題が院長や看護師たちの日常会話と密接に関わっていることを知ってからだ。そして事件当日の夜、彼はその情報が画面に区切られた別の世界などではなく、自分が今立っている場所と地続きの“現実”から発信されていることを悟った。
『いや、隣同士でもめていたとか、そういったトラブルの話は聞いてませんけど……』
 アナウンサーの声で事件の概要が語られた後、左頬に大きな傷のある男が画面中央に現れた。概要と同じく、彼が困惑する様子もまた、既に何度も放映されている。
 ウィルは最初にその映像を見たとき、証言する男を自身の目で確かに見たことを思い出した。そして映像に重なる字幕と音声から、彼が事件の舞台となったマンションの所有者であること、現場で彼を取り囲んでいたのが映像を作るための機材だったことを学んだ。
『今、容疑者を載せた警察車両が……』
 続けて現れた映像は、マンションの正面玄関を出発した車が画面手前に向けて走ってくるもの。後部座席中央に座る男がアップで映った直後、車のボンネットの位置に横書きの字幕が重なった。
『……容疑者は警察の調べに対し、裏切られた、壁の向こうに敵が、などと意味不明の供述を繰り返しているということです』
 殺到する人々を押しのけるように車が進んでいく。敷地の外へ出て行く瞬間を後方から撮影した映像が、事件と直接関わりのないものを一瞬だけ映した。
 画面の隅に突っ立っている麻糸のような色の頭。
 表情までは読み取れないが、車が通るルートとは全く違う方向を見ていることは色の濃淡で判別できる。
(今の、は)
 ウィルは目を大きく見開き、身を乗り出した。
 同じ表情をしているはずの顔はもう画面から消えていた。
(……あれは、俺だった)
 他に候補を思いつかない。
 ウィルは前のめりの姿勢をとったまま、映像が撮影された当時の記憶を探した。思考からテレビの存在が消失し、代わりに自ら現場で拾った声が耳の奥で大雑把に再現された。
 人間たちが見守っていた事件が解決の段階に入った直後の場面。
 つまり、ウィルが事件以上に重大な問題に出会った場面。
 今ここで見た映像の中で言うなら画面の外に、周囲の人間と明らかに違う身なりの人物がいたはずだった。何度思い出してもその身にまとった白色はまぶしく、誰も振り向かなかったことが不思議で仕方ない。
(まさか人々の関心をそらすことが結界の使用目的だったのか。……しかし、仮にそうだとしたら、あの派手な衣装には何の意味がある?)
 必要以上に光を反射していたコートも、顔を覆っていた仮面も。
 あれは幻覚ではなく物質化の手法で織られたものだった。ウィルは相手が最も近くまで来た瞬間を思い返し、そのとき得た直感への自信を深めた。
 しかしそんなものを作り出す理由が、利点が、思い当たらない。
『さて、容疑者は被害者宅の隣の部屋に住む男だったわけですが。この点について……』
 画面の中で司会者が話題の切り替えを促していた。大層な肩書を持った誰かが名指しに応じ、隣人一家への小さな不満が積もって逆恨みに変化したのでは、とする見解を語った。
 ウィルはソファから立ち上がり、ようやくエプロンの存在を再認識してこれを外した。そしてリビングの隅にひっそり置かれたショルダーバッグを取りに行った。事件現場にも持参したものだ。
 バッグに隠してあった白い日記帳が取り出された。ローテーブルの上へ静かに置かれると、本に挟まっていた白い羽根がひとりでに反り返ってページを持ち上げた。表紙が傾いた状態で止まったところでウィルが手を添え、日記帳は完全に開かれた。
 現れたページは既に銀色の文字で埋め尽くされていた。
《教官は一連の問題についてどのように聞いていますか》
 あの日の出来事、特に教官の指令を受けてからの一部始終。死神を名乗る少女と出会い、情報提供を受けたこと。サリエル本人と遭遇し、持ってきたものを押し付けられたこと。その中身はサイガが助け出そうとしていたらしい女性で、結局ウィルと重孝がその人を学校まで送り届けたこと。
 全てがウィル自身の筆跡だった。
 どこにも教官のコメントは加えられていなかった。報告の末尾、ついでのように記された質問にも、全く反応がなかった。
(これを書いてから既に、二日か。さすがに届いていないとは思えない)
 ウィルは反るのをやめていた羽根を手に取った。
(教官は何をしている?)
 そして報告の後の余白に指先を置き、一枚だけページをめくった。空白の続きに今考えていることを記す準備はできていた。
 ところが。
《先日はお疲れ様でした》
 次のページには既に別の筆跡で書き込みがされていた。

《貴方から頂いた報告、これまでの成果、そして現在貴方を取り巻く問題を踏まえ検討した結果、今回の補習プログラムの内容を抜本的に見直すことにしました。
 これまでは事態の早期解決を優先し、一刻も早く保護対象と接触・救出することを目指してきました。しかし現在の状況はこちらが想定した以上に複雑かつ厄介なものとなっています。残念ながら今の貴方を対象の保護に直接向かわせるには危険過ぎるのです。
 今後、貴方には改めて設定した課題を提示し、現在の力量に見合った訓練を受けていただきます。また必要に応じて講義を用意することも考えています。これは保護作戦に必要な知識とスキルを段階的に、着実に身につけていただくためのものになります》

 ウィルは羽根を握ったまま、ローテーブルの上に両手をついた。
 震えているのが自分の腕なのか、指先に曲げられている羽根なのか、分からない。
(どうして最初からそうしなかった……?)
 教官へぶつけたい感情や疑問の断片が、ウィルの心の奥底で沸き立っては弾けた。何ひとつ言葉にならないそれらを何もかも見抜いているかのように文章は続いていた。
《幸い、そちらの街に集結していた悪鬼たちは解散したらしく、その数を急激に減らしています。後始末が終わり次第、地域の守護天使たちの協力を得られることになりました》
 読み進めるほど、訓練生には教官の狙いが分からなくなった。
 目論見通りに事が運ばないから迷走している、ということなら話は分かる。上げすぎたハードルを下げるのは教官として当然の選択だろうとも思う。もともとは間違いを犯した生徒の救済策として行われているのだから。
 だとしても。
(あの少年を助け出すことにこだわる必要はないはずだ)
 ウィルは羽根を手放し、ローテーブルから一歩離れた。
 放置されていたテレビは変わらず声を発し続けていた。話題はどこかの芸能人の離婚話に移っていたが、コメントを最後まで読み上げる前に、リモコンに呼ばれて沈黙した。
 光を失った画面には疲れきった居候の顔が映っていた。