[ Chapter7「新たなる課題」 - C ]

back  next  home

 週の初めから数えて四日目、すなわち木曜日の、夕方。
 ウィルは柳家のリビングで院長手製の買い物リストに目を通していた。
 やや黄ばんだA4のコピー用紙に、油性ペンによる大きな文字と図形がたくさん書き込まれている。欲しい商品の数々、それらを扱う店舗の一覧、そして駅前周辺の地図。ご丁寧に立ち寄る順番まで図解入りで指定されていた。日没までに帰るように、ともある。
(よく出来ている。本当に、何もかもが)
 彼はリストを片手に持ったまま、傍らのダイニングテーブルに視線を落とした。
 広げられた例の白い日記帳に、いつもの銀色で流れるような文字が記されている。簡潔な指示、行くべき場所とその位置、そして駅前周辺の地図。指示内容以外は何故か院長の力作に酷似した図だった。しかも問題はそれだけではない。
《目標を探し出し接触を図ること。現場の位置及び地勢については以下に記載の通りとする》
 冒頭の言い回しは、ウィルがこの物質界で最初に出された指令の文面にそっくりだった。
(これが「改めて設定された課題」ということなのか)
 教官が突如宣言した路線変更がいよいよ実行に移されたのだ。自分の最初の指示書をわざわざなぞったのは、仕切り直しのアピールのつもりだろうか。
 ただ、続く文章もすべてが同じというわけではなかった。出だしはともかくその次は最初のときより具体的な単語が並び、ひと目で課題の要点を拾える内容になっている。地図を引用したのも一度迷子を経験した教え子への配慮かもしれない。
《これから貴方には地図上で指定した地点にて、ある人間の少年を見つけていただきます。保護は行いません。少年がその場所から自宅に帰るまでを見届けてください》
 教官が描いた地図の脇には、少年が指定の場所に現れる時刻が明記されていた。ウィルはそこまで読んでからコピー用紙を日記帳の上に重ねた。
 訓練生として受領した課題には時間指定がある。
 居候として任されたお使いには門限指定がある。
 どちらを優先すべきだろうか?

 三十分後。
 ウィルは以前院長に連れてこられたスーパーマーケットの店内を一人で歩いていた。
 二つの指令を読み込んだ後、これまで――物質界に来てからの一ヶ月間――に得た知見を思い出せる限り動員し、彼は一度の外出で両方の用事をこなせる最適な道順を導き出した。そしてそれをすぐ実行に移した。スーパーの陳列棚から鶏卵のパックを手に取ったとき、彼は自分の判断が間違っていなかったことを確信した。
(商品の減っていくペースが速い。ここに来るのが遅ければ買いそびれたかもしれない)
 特売というフレーズの威力を噛み締めながら、ウィルは近隣の商店を巡り、他の買い物を済ませた。そして院長から頼まれたものすべてをショルダーバッグとビニール袋に詰め終え、袋を両手に一つずつ持った状態で、教官から指定された場所に向かった。
 そこは最後に立ち寄った店から一つ角を曲がった先、二車線道路が出会う小さな十字路だった。
 両手がふさがっていては日記帳を開けない。ウィルは暗記してきた指令を一行ずつ思い出した。そして目の前にある建造物と、現在と、慎重に照らし合わせた。
《交差点に面した書店の前に立ち、そこで待機してください。青いジャケットを着た少年が一人で書店を訪れます。彼をひそかに追い、無事に家に帰り着くまでを見届けましょう》
 地図にも明記された位置、歩道の角には確かに書店があった。目立つ場所に建てられてはいるが、周辺の店と違って大きな看板も派手な広告もなく、行き交う人のほとんどが視線さえ向けずに通り過ぎている。
 ウィルは横断歩道を渡り、書店の店先まで来ると、交差点の中心に背を向ける形で足を止めた。直角に曲がった歩道の隅からは、二方向の横断歩道に面して設けられた二箇所の出入り口を両方見通せた。
 待機する姿勢はできた。しかし問題はこれからだ。追う対象がどちらの方角からここへやってくるのか、それはまもなく起こるのか、それとも実は現れないのか。ウィルには分からない。
(だが、確実にここへ来るというのなら、ここで待つしかない)
 何度も赤信号を仰ぎ、それよりも頻繁に通行人の視線を浴びながら、待つこと十五分。思っていたより少し明るい青色がウィルの視界に入った。
 薄手の青いジャケットの上に黒い箱型の荷物を背負った少年が、しきりに首を左右へ向けながら書店の前へやってきた。そしてすぐウィルに気づいた。
 目が合った直後、少年は巣穴に飛び込む小動物のように店の中へ入っていった。
 屋外にはウィルだけが残された。
 話しかける機会どころか、少年の顔を覚える暇さえ生じなかった。
(……今、俺は、逃げられたのか?)
 失敗。減点。思い浮かべた懸念を振り落とし、ウィルは作戦を練り直すことにした。
 「見守る」の中に「直接話しかける」は含まれないはずだ。むしろ距離を置き、追跡を悟られない立ち位置を持つことにこそ意味がある。
 これは訓練だ。
(まだ始まったばかりだ)
 ウィルは自分自身に言い聞かせながら、店頭の書棚の前まで歩いた。扉のない出入り口はくぐらずに一度足を止め、中の様子をうかがう。さっきの黒箱(ランドセル)がすぐ目に入った。
 少年が店の奥へ進んでいく。何かを探しているらしい。
 見失うまいとウィルも店内に足を踏み入れた。相手が普通の人間なら魂の気配を察知される心配はないに等しい。相手の視界に入らないよう、ついでに音など立てないよう、それだけを心がけて息を潜めた。
 少年が書棚の一つの前で足を止め、棚の手前で山積みにされた本の一冊を手に取った。そして周囲を――特にウィルが通らなかった方の出入り口を――気にしながら、本を持ったままの手を黒い箱と背中の間に差し込んだ。
 ウィルには少年が何かに怯えているように見えた。
 後ろ手を隠したままの箱が一歩分下がった。少年が棚の前を離れようとしたらしい。その直後、箱の側面に吊り下げられた布製の袋が大きく揺れ、別の本の山に当たった。
 ビニールの擦れる音がした。
 ウィルの視界の中心で少年が振り返った。
「あっ……」
 ただ目が合っただけなのに、少年の顔は瞬く間に青白くなった。そしてさっき隠した本を他の本の上に放り捨て、警戒していたあの出口から外へ飛び出していった。
 なぜ逃げるのか。少しも理解できないままウィルは少年の後を追った。書店を出るとすぐ正面の横断歩道が目に入った。そしてそこを直進する青色の小柄な背中を、黒い箱を、確かに見つけた。
 少年の頭上で青信号がまたたいた。
 続けて横断歩道に片足を踏み出した直後、ウィルは靴底に重たい振動を感じた。一瞬だけ足元に気を取られた、その直後に視界の左側が暗くなり、巨大なタイヤを履いたトラックが迫っていた。
(まずい。衝突する)
 ウィルは踏み出した一歩をとっさに引っ込めていた。彼が直前までの半分の歩幅で書店前まで引き返す間に、店のひさしより高い荷台を背負った車体が、舗装を揺らしながら左折していった。
 交差点に置き去られた排気ガスが霧散した頃には、少年の姿はどこにも見当たらなくなっていた。
(見失った……か)
 赤信号の前を何台もの車が通り過ぎていく。
 ウィルは立ち止まり、渡れなかった道を意味もなく眺めた。
(課題は失敗した。俺はどこかで判断を誤った)
 前提に立ち返って考える。教官が適切な課題だと強調している以上、今回の指示の少なくともどこかには何らかの意図があるはずだ。教え子にさせたいことがあったはずだ。どこかにあったはずの選択肢を、あるいは手がかりを、見落としたのか。
 考え込んでいたウィルは、自分のすぐ隣に人が来たことにしばらく気づかなかった。
「そこのあなた。ちょっといい?」
 縫い針で刺すような言葉が思考を砕いた。
 顔を上げたウィルの前に、見知らぬ女が立っていた。
 若さと気合にあふれた顔。この辺りの人間としては一般的な背格好。分け目のないショートカットの髪。黒のパンツスーツに運動靴。あちこち走り回ってきた後なのか、首筋には汗がにじんでいた。
「聞きたいことがあるんだけど、今、時間ある?」
 女はそう言って、黒い手帳のようなものをかざした。
 上半分には自信あふれる目をした顔写真。その下には金色の紋章が輝いていた。