[ Chapter7「新たなる課題」 - E ]

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 ホイッスルの音を合図に壁を蹴り、青い世界へ飛び出した。
 両手を同時に回して水面を切り裂く。前へ進む。あらゆる音を忘れる。進む。両足で勢いよく水を押しのける。進む。呼吸する。進む。進む。進む。
 正面に壁を捉える。ギリギリの距離で身体を回転させ、再び壁を蹴る。
 全身の筋肉で水をかき分ける。進む。あらゆる触感を忘れる。進む。水面に出した頭を再び沈める。進む。前だけ向く。進む。進む。進む。進む……

「交代! 次、入って!」
 プールサイドに両足を着けて立った瞬間、忘れていたものが全て戻ってきた。
 サイガはため息をついた。そして練習の順番を待っていた二年生に飛び込み台の前を譲り、両隣のコースを泳いでいた一年生たちと共にフェンスの方へ退いた。
 土屋部長がプールの隅々まで届く声で指示を飛ばしている。その隣で顧問の男性教諭、林先生がホイッスルを構えている。水泳部員たちは次に来る自分の番に備えるか、別のトレーニングをしている。
 十月に入って初めての部活動。そこにあるのはいつもの放課後、いつもの練習風景だ。
(ダメだ。全然調子上がらない)
 漠然とした実感がサイガの肩をそっとさすった。
 今のはただの練習。タイムの計測はなかったし、両隣と競っていたわけでもない。それでも思うような速度を出せていなかったことを彼は確信していた。
 体がなまっているだけかもしれない。先月までは文化祭に向けた舞台稽古と掛け持ちだったから、泳いできた時間も距離も他の部員の半分程度だろう。でも本当にそれだけが原因だろうか。
(俺は、ここにいていいのか?)
 文化祭以来、サイガは同じことを何度も考えていた。
 事件の真相ではない。記憶の空白でもない。もちろんそれはそれで謎ではあるし、気にならないといえば嘘になる。だがメディアを賑わす証言も、面白い記事を見つけた沼田の浮かれようも、サイガにとってはどうでもいいことに等しかった。
 今も、ただひとつの回想が頭の中を周回し続けている。
『桑田くん、小森谷先生から圧力をかけられていたそうです』
 前の部長が顧問でもない教師から、サイガを校外の競技会に一切出場させないよう求められていた、という。
 おかしな話だ。生活指導担当として学校の方針を示すにしても、それは顧問を務める同僚を通せば済む話なのに。しかも心優しい陣内先輩がわざわざ「圧力」という表現を使うからには、ただしつこく要望するだけには留まらない言動があったのだろう。
 とはいえ主張の根幹は間違っていない。元はといえば頭髪の規則を破るサイガが悪いのだから。
(そんなんとっくに分かってる。俺だって、覚悟はしてたんだ)
 せめて大会に出る間だけでも地毛の色に。
 陣内先輩は桑田前部長がそう考えていたことも教えてくれた。
 サイガ自身も同じことは考えていた。実際、中学の部活動で大会に出るときそうしたことがある。髪を真っ黒に染め直した後は鏡を見るたび吐きそうになったが、スイミングキャップで頭を覆ってからはなんとか耐えられたし、大きな問題にはならなかった。
 でもそんな方法は一時しのぎでしかない。
(……分かってる、つもりだったけど)
 一時しのぎで十分だと高をくくっている間に何が起きたか。
 あれこれ言われた桑田先輩は深く悩んだというが、同じクレームは土屋現部長にも引き継がれているはずだ。顧問だって知らないはずがない。そして二人は文化祭への参加という口実のもと、サイガを新人戦のメンバーから外した。
 今後の競技会や記録会も全部そうなっていくのか。
 迷惑を被っているのは部長たちだけなのか。今更だから何も言われないだけで、本当は他にも自分が知らないところで、誰かの足を引っ張っているのか?
(自分の足を引っ張ってんのか? ……自分のためにやってきたことが?)
「そこのお疲れモードな一年生」
 背中を叩かれた。
 サイガは反射的に背筋を伸ばし、一拍置いて振り返った。何もない。反対側を向いてようやく、ひらひらと振られる手を見つけた。
 練習を見ていたはずの土屋部長がサイガの目の前にいた。
「雑念抱えすぎ。さっき泳いでる間も余計なこと考えてたでしょ」
「いや、別に……」
 今はともかく、水の中ではむしろ何も考えていなかった。
 サイガは言いかけたが、
「フォーム乱れまくってたんだけど」
 言葉になりかけた反論は追撃を食らって泡のように消えた。
 口を閉ざしたサイガの前でポニーテールの先端が揺れた。
「とにかく、準備して。次は真面目にやってよ」
 部長が定位置に戻っていく。サイガは先輩の後ろ姿を目で追い、その流れでプールサイド全体を見渡した。
 両隣にいたと思っていた一年生たちが既に飛び込み台の後方に控えていた。いつの間にか練習の順番がほぼ一巡していたらしい。
 ここでやるべきことは一つしかない。サイガは唯一誰もいない控え位置に入り、コースの始点と正面から向き合った。誰かが往路を背泳ぎで突き進んでいるところだった。
(真面目に、な)
 あと二週間もしないうちにこの場所は使えなくなる。秋を迎えた屋外プールを閉めた後、水泳部の活動は室内のトレーニングが中心になる。校外の温水プールを借りる日もあるが頻度はさほど高くないという。
 フォームを元に戻すなら今が最大のチャンスだ。
(そういや誰も、俺に直接出るなとか辞めろとか、言ってない)
 桑田前部長は、頑張りを認めている、と話していたらしい。あの陣内先輩の言うことだ、きっと嘘ではないだろう。
 土屋現部長は、ギリギリまで新人戦出場の可能性を否定しなかった。文化祭優先を建前にして、本当は最初からエントリーに入れていなかったのかもしれないのに、わざわざ「出場条件」を提示してくれた。あれは舞台稽古のために他の部員より練習時間が少ないせいだろうと思っていた。本当はどういう意味だったのか。
 どちらにしても言えるのは、二人がサイガの部活動への参加を否定しなかったこと。
 想像できるのは、二人が出場解禁への期待を捨てていなかったこと。
(だったら、なるべく期待に応えよう。できることは全部やる)
 サイガは後ろ髪を撫でる時の動作でスイミングキャップをさすった。
 自分にできること。一つはもちろん泳ぎの上達を目指すこと。
 もう一つは自身に原因のある問題を解決すること。簡単ではない。薬剤一箱で髪色は変えられても、鏡の前に立つ時の気持ちまでは染め直せないのだから。
 そしてさらにもう一つ。
『相手の狙いは貴様の命だ』
 形や語り手を変えて何度か言われてきた言葉の断片が頭をよぎった。
 サイガは今、一人の力ではどうしようもない、しかし部活に専念するためには避けて通れない難題に直面している。せめて事態を少しでもマシにする手がかりは欲しかった。
(なんか知ってそうなのは……そういやあいつは何だったんだろう)
 あの謎の女に聞けるだろうか。
 立てこもり犯と交渉していた女の話は何故かどこのマスメディアも取り上げないし、気絶した姿を発見されたという話も聞かない。学校内の秘密のネット掲示板でも話題になっていないらしい。今のところは行方知れずの状態だ。
(味方だって言ってた奴は結局助けに来なかったし)
 あの死神少女に聞けるだろうか。
 忌々しい「死ぬべき男」が今ものうのうと生きている以上、その件から手を引いていなければ彼女はまた現れるはずなのだ。またあの病院に行かなければ会えないかもしれないが。
(だったら……)
 誰に聞いてみようか。
 今日確実に会いに行けて、何らかの形で謎に関わる者。そういえば一人いる。それは――
「交代! 次、入って!」
 学校の片隅でホイッスルの音と冷たい風が交差した。
 サイガは目の前で自ら上がってきた部員に促され、プールに足から入った。懸念は溶けてどこかへ流されていった。

 ――俺はなんでそこで止まってしまったんだ?