[ Chapter8「俺はまだ勉強始めてないだけ」 - B ]

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 俺だって本気を出せば。
 サイガは自信を持ってそう言ったはずだった。
 ところが一晩過ぎて朝を迎えると、心の風向きはすっかり変わっていた。
「なんであんな挑戦受けたんだろ……」
 朝日のまぶしい通学路が大勢の生徒でにぎわう時間。その中でサイガは一人、誰よりも暗い顔をして歩いていた。
 今、彼の頭の中では、昨晩のやり取りが連続再生されている。得体の知れない相手からの提案であることに目をつぶれば、その内容はありがたいほど現実的なものだった。報酬も魅力的だ。しかし。
(全科目パーフェクトなんてどう考えても無理じゃねーか!)
 二車線道路の上をまたぐ歩道を渡り、いくつかの曲がり角を通り過ぎた頃、サイガの足は一層重くなっていた。
 実隆が通学路に合流したのはまさにそんな時だった。
「おはよ……今度は何があったの」
「よう実隆。次の中間の範囲ってどっからどこまでだっけ……あ」
 見慣れた顔を目にしてほっとしたサイガは、浮かんでは取り消していた疑問の一つを思わず口走っていた。
 唐突に問われた実隆は首をわずかにかしげた。
「二学期始まってから習った範囲、だと思うけど」
「そりゃそうだけど、どっからだっけ。後で教えて」
「分かった。けど、どうしたの。サイガが朝から勉強のこと聞いてくるなんて、中三の内申書の話以来だよね」
 実隆はメガネの内側で目を丸くした。
 高校受験において重要な要素である内申書は日頃の学習の成果、つまり試験の成績に大きく影響を受ける。中学生のとき髪を染めたサイガには、大人たちの不評を成績の威光で跳ね返すべく、内申書を意識して猛勉強した時期があった。
 もちろん内申書だけでどうにかなるほど受験は甘くない。先生たちが特殊な家庭環境と本人の努力の過程をよく承知していたからこそ、今のサイガがある。
「あー、そんなこともあったな。まあ今回もちょっと、いろいろと、な」
「今回は何を目指す気? まさかもう大学受験のこと考えて?」
「違う違う!」
 サイガは口で言う以上の勢いで首を横に振った。
「やっぱりそれはないか」
「当たり前だろ。……何つーのか、いろいろあってさ。どうしても今度の中間で成績上げなきゃなんなくなった」
 目の前にいるのはいつでも頼りになる親友だ。今も頼ろうとしている。でも事情を話そうとすると、どういうわけか首のあたりでブレーキが掛かってしまう。
 前にもこんな迷いがあったような、などと思いながら、サイガは詰まりかけた言葉を強引に圧縮した。
「超ざっくり言うと、俺の命がかかってる」
「え?」


 こうして実隆に託された困惑のバトンは、朝のホームルームまでに池幡ら数名の男子生徒に渡された。さらに授業一コマを挟んだ後、実隆は幹子にも同じ話を持っていった。
 それはただ共感と同情の輪を広げるためではない。親友が目標とする成績に少しでも近づけるよう、手助けを求めて回ったのだ。
「協力するのはいいけど、中学のときみたいにはいかないと思うの。大丈夫? 確かサイガくんって一学期は……」
「それもあるから手助けが必要なんだよ。そういうわけで、よろしく」
 実隆が行ってしまった後、幹子は自分の椅子に座り直した。その表情はすっきりしない。持ち込まれた困りごとは既に彼女の困りごとになっていた。
 その後ろの席で会話を聞いていたまりあは、心配になって幹子に声をかけようとした。しかしその前に依子が横から身を乗り出してきた。
「何かあったの?」
「よくわからないけど、サイガくん、お父さんの知り合いの人と成り行きで変な約束しちゃったらしいの。それで今度の中間試験、どうしても高得点取らないといけないんだって」
「えー、何それぇ。そんなのほっときなさいよ。いくら幼なじみだからって、幹子がいちいち面倒見ることないでしょ普通」
 そんなことより、と続けながら依子が下がった。彼女には彼女が推したい話の種があるのか、机の中を探り始める。
 その間に幹子は振り向いた。そして真後ろのまりあを見て尋ねた。
「雨宮さんも、そう思う?」
「えっ、と……」
 話を振られると思っていなかったまりあはすぐに答えられなかった。隣の席で学生鞄が開く音を聞きながら、改めて考え、迷う。正直な感想は依子の前では少し言いづらいものだったので、代わりに確かめた。
「……そんなに、大変そうなのですか? その、成績を上げるのは」
「そうね。普通の人よりは、たくさん頑張らないとダメかも」
 幹子は教室の前方をちらりと見た。
 渦中の人物はちょうど席を外しているらしい。依子の前方、先頭から二番目の席には誰もいなかった。
「サイガくん、受験のときは頑張って結果出したけど、そこで燃え尽きちゃったっていうのかな。高校に入ってからは授業に全然ついていけてなくて、一学期の期末は確か追試まで受けてたと思う」
「それは心配になりますね」
「うん。本人が今度も頑張るって言うなら、手伝えることはあるんだけど。ノートの足りないところを見せてあげるとか、問題用意するとか……」
 幹子の話の途中から、まりあの心の時計が逆向きに回り始めた。
 一学期の期末試験。もうすっかり遠い季節になった。夏休みの途中まで暮らしていたあの街で、懐かしい学校で、坂だらけの帰り道で、友達と一緒に。ひとつひとつの記憶が鮮やかな花を咲かせる。
 まりあはその花を一輪だけ現実の時間に持ってきた。そしてそれを幹子に見せるように、輝いた目で、こう言った。
「私も、お手伝いしていいですか」
「どういうこと?」「何か言った?」
 幹子が首をかしげ、依子が鞄から出した雑誌を手に、同時に聞き返した。
「西原くんは授業の内容についていけなくて、それでも試験はなんとかしたいんですよね。同じクラスの人がお困りだと聞いて、知らないふりなんてできません」
「えっ何、まりあちゃんってやっぱりあいつ気になるの?」
「そ、そういうのでは、ないです」
「ホントにー?」
 疑いの眼差しが雑誌の表紙と一緒に迫ってきた。表紙を飾るのは流行りの服を着てセクシーなポーズを決める赤毛の女性。下の名前が同じという理由でまりあがひそかに親近感を抱いている人気モデルが、話の続きを促すように微笑んでくる。
「勉強を手伝うにしても、私達みんなで協力した方がいろいろなことをできますし、私達自身の勉強にもなりますし。どうせなら一緒に良い点を取りませんか」
「みんなで、って……」
「雨宮さんは、どういうお手伝いをするの?」
 依子はまずいものが口に飛び込んできたような顔になった。一方で幹子は、まりあの瞳に満ちた輝きに少し興味を持ったようだった。
「私は、というより、みんなでやることですけれど。実は、前の学校でよくやっていた試験前対策がありまして」
 やり方はシンプルだ。各自が得意な科目に名乗りを上げ、試験に出そうな箇所を選んで他の仲間に“授業”をする。場所はどこでもいいし方法も自由だ。
 最初はまりあと数人の友達が中学生のとき、勉強ができる友達に分からない箇所を教わるところから始まった。しかしそれがいつしか互いに教え合う形式になり、人が増え、次第に先生よりうまい教え方ができるか競うようにもなった。試験勉強を一人で頑張るものだと思っていた頃には想像もつかなかった展開だった。
 放課後の教室で、以前暮らしていた家で、友達と一緒に。笑い声と拍手が耳の奥で爽やかに響く。
「私達はそれを『模擬塾』と呼んでいました」
 思い出をひとつ説明に変えるたび、まりあの口元が緩んだ。