[ Chapter8「俺はまだ勉強始めてないだけ」 - D ]

back  next  home

 勉強会当日、つまり土曜日の朝は穏やかに始まった。
「あらあら、実隆くんじゃない! こんなにりりしくなっちゃって!」
「ご無沙汰してます」
 一番乗りで西原家を訪れたのは実隆だった。出迎えた美由樹は久しぶりに訪ねてきた息子の親友をいたく歓迎し、彼がいるなら安心できると喜んだ。
 確かに今回の彼は最も頼もしい味方だ。五教科七科目の出題範囲を頭に詰め込むのに忙しいサイガに代わり、勉強会の日程調整や題材の選定、講師役などの手配を一手に引き受けてくれた。そして当日も昼食以外のすべてを仕切ることになっていた。
「昔は幹子ちゃんと二人でよく遊びに来てくれたわよね。今日、幹子ちゃんは?」
「別の人の家で勉強会をやっているはずです。女子は女子だけで、だそうで」
 二人の他に集められた仲間は男ばかり四人。彼らは約束の時間に少し遅れて、全員一緒に西原家へ到着した。美由樹が夫の両親を連れて出かけた直後のことだった。
「おじゃまします。……今日はよろしくお願いします」
「これ、うちの店のなんだけど。よかったら家族の人と食べてよ」
 全員が集結して急に狭くなった玄関で、初めてこの家を訪れた二人が揃って挨拶した。
 おどおどしたしぐさと輝く金縁のメガネが対照的な牧田(マキタ)と、貫禄ある立ち姿で和菓子屋の紙袋をサイガに差し出す片岡(カタオカ)。実隆が招いた友人たちは共に一年三組の成績上位者で、今日はサイガの苦手分野の克服を手伝うことになっていた。
 一方、サイガと一緒に教わる側も二人参加している。
「ほー、こいつがウワサの弟くん」
「なあなあ、今いくつ?」
 池幡は岩のような顔をほころばせ、沼田は靴を雑に脱ぎ捨てた。緊張感に欠ける彼らの関心は、サイガと一緒に玄関で客を出迎えた桂に向けられていた。
"Five!"
「ファイブ? えっ五歳? うちの蓮美(ハスミ)姫とおんなじだ!」
「沼田って妹いるんだ?」
「それ以上言うな片岡、兄バカの話は長いぞ」
 制止が入ったときには既に妹自慢が始まっていた。だらしない笑顔の沼田はしゃべり続けながら池幡に背中を押され、先に通された牧田に続いて居間に入っていった。桂はというと、片岡が律儀に全員の靴を並べる様子を不思議そうに眺めていた。
「実隆、これで全員だったっけ」
「そうなるね。本当は柳さんも参加予定だったけど、今朝メールが来た。体調崩したから今日は来られなくなりましたって。昨日早退してたからね」
「じゃあしょうがねーな。……って、あの人ケータイ持ってたんだ」
「いや、パソコンのメール」
 居間は廊下の途中、玄関から見て左手側のすぐ目の前にある。サイガは実隆と片岡もそこへ送り込んでから、ふと振り返った。
 桂が玄関扉の向こうをじっと見つめていた。

 六人の同級生が一つのちゃぶ台を囲み、それぞれ持参したノートと筆記用具を広げた。全員の準備が整うと、まず牧田が実隆に促され、用意してきたというプリントを配った。
「僕は数学を担当します。今日は、確率について復習していきたいと思います」
 そして最初の講師役はちゃぶ台の中央にサイコロを置いた。
「ここに六面体ダイスが二個あります。これを例えば沼田くんが一回振って、両方で六の目が出る確率を求めてみましょう」
「えー、そんなの振らないとわかんないだろ。チャンス一回だけ?」
「お前問題の意味からわかんないとかヤバ過ぎないか」
「サイガは分かる? 行けそうならちょっと解いてみてよ、答え方見るから」
 片岡から指名されたサイガは、軽く抵抗する素振りを見せつつ、なんとなく思い出した計算式を手元のプリントに記した。そして解答を導き出した直後に不正解の判定を食らって肩を落とした。
 具体的な解説が始まってからも似たようなやり取りが続いた。素の発言かウケ狙いかわからない沼田の迷質問や珍回答。池幡の投げやりなフォロー。頭の痛そうなサイガをみんなで気遣いつつ、教師の説明不足から生まれたつまずきを、優等生たちの言葉で一つずつ修正していく。
 高校生たちが奮闘する間、桂は居間の隅にスペースを与えられ、しばらくはそこに座っていた。しかしそこで何をしていたかまでは誰も気に留めなかった。

 プリントに用意された問題が八割方攻略された頃、柏木が約束通りに西原家を訪ねてきた。彼が台所へ入ってからしばらくして、ウスターソースの香ばしい匂いが居間にも漂い始め、サイガと仲間たちは空腹感との戦いを余儀なくされた。
 壁掛け時計の電子音が正午を知らせたのは最後の設問の解説中だった。完全に学習意欲の途切れた息遣いと腹の虫とが響きあう中、実隆はサイガの答案を覗き込み、一度うなずいた。
「正解してるね。この問題のポイントはちゃんと理解できたみたいだし、そろそろ休憩にしようか」
「わかりました。では、僕の“授業”は以上です。ありがとうございました」
「牧田くんお疲れ様ー」
 まばらな拍手の中、部屋を囲むふすまの一つが開き、具材と湯気をたっぷり積み上げたソース焼きそばが現れた。
「待ってました! やべ、超うまそう!」
「この色、野菜の切り方、普段食べるのと全然違う。プロだ……」
 誰が指示するでもなく、全員のノートがすみやかに取り皿へ場所を譲った。そして役目を無事終えてほっとしている牧田から順に、大皿の焼きそばが取り分けられた。
「物足りなかったらいつでも言ってよ。何か考えるから」
「サンキュー。よーし、いただきます!!」
 片岡が率先して両手を合わせ、皆がそれに釣られながら、昼食タイムが始まった。
 我慢を重ねた空腹感の威力は絶大。濃い目のソースで口周りを汚しつつ、会話も目配せもせず夢中で食べる男子たちを、柏木は満足そうに眺めていた。
 やや遅れて、部屋の外に出ていたらしい桂が戻ってきた。すかさず柏木が用意していた食器を、実隆が少し移動してちゃぶ台の一角をそれぞれ提供し、幼い弟を兄の友達の輪に加えた。その頃には突進するように食べる者はもうなく、雑談する余裕も生まれていた。
「柏木さん、うちの学校のOBって聞いたんですけど。怪人ルシファーって知ってます!?」
「お前何いきなり取材始めてんだよ。失礼だろ」
 突然目を輝かせた沼田を隣の池幡がひっぱたいた。その間に柏木は二人の後ろを通り、ほぼ空になった大皿を二杯目に取り替えながら答えた。
「この前週刊誌で特集していた話だよね。読んだよ」
「さすが! って、そうじゃなくて。あの記事が出てから知ったってことですか」
「いいや。僕らはちょうど二十年前に高校を卒業した世代だけど、三年生の頃かな、噂になったことはあったよ。でも写真に写ったっていう話はなかったね」
「へぇー。当時はどんな感じの」
「柏木さんって進路は文系でした? それとも理系?」
 沼田は怪人の話を掘り下げたかっただろう。しかし池幡が率先して口を挟み、これに片岡たちが乗ったことで、話題は大先輩の大学受験の話へと移っていった。
「あの頃はパソコンで大学の情報を検索するなんて想像もできなかったよ。だから紙の資料を学校で借りたり、郵便で取り寄せたり……」
「そのうち入試も自宅からインターネット経由で受けられるようになるとか……前にどこかで読みました」
「だってさサイガ。家にパソコンもネットもないなんて環境、今はなんとかなってても将来大変だから、早く何とかした方がいいよ」
「んなこと俺に言われても……」
 片岡のおせっかいにチャイムが重なった。来客を知らせる音だった。
「ちょっと出てくる。続きやるなら適当に始めてて」
 サイガが立ち上がって廊下に出た。そして最短経路で玄関にたどり着き、自分の靴を足場にして引き戸に手を伸ばして、それを開けた。
 ところが玄関の外には誰もいなかった。
(何だよ。せっかく出てきたのに)
 誰かが門の脇にあるボタンを押してから、まだそれほど時間は経っていない。この近くにいるだろう。
 そう考えたサイガは二歩だけ戻り、家族共用のサンダルをつっかけて表に出た。
 門の外には誰もいなかった。
 頭上には紫色の空が広がっていた。