[ Chapter9「監視と病魔」 - B ]

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 見習い天使が指令と困惑を隠して院長の診察を受けている頃。

 一年三組のホームルームはいつもより少しだけ静かに始まった。
「皆さん、おはようございます〜。今日は、ちょっと、お休みの人が多いですね〜」
 担任の根本先生が言っているのは、教室のそこかしこに見られる空席のことだ。
 その中にはサイガのひとつ前の座席も含まれていた。列の先頭を陣取る見慣れた背中がない分、正面の黒板がより広く見える。しかし見晴らしの良さはサイガにとってなんとも落ち着かないものだった。
「他のクラスでも、とってもこわ〜い風邪が流行っているみたいですね〜。皆さんも気をつけてくださいね〜」
 先生は教卓の周囲をゆっくり歩き回りながら、真面目な注意を今ひとつ緊張感に欠ける声で呼びかけた。その間、最前列の空席の前を通り過ぎるたびに、何故かサイガを見つめては微笑みかけていた。
 最初こそ何かの前触れを疑ったサイガだったが、何度視線が重なっても何も起こらなかった。そして結局何事もないまま朝のホームルームが終わってしまい、どこかすっきりとしない気分だけが残された。
(でも、変なことが起きなかっただけマシか?)
 一時限目までのわずかな休憩時間に、学級の半数が席を立って動き出した。
 サイガも立ち上がり、数日前に借りた漫画の単行本を持って実隆の席を訪れた。本を回収した親友は次の巻と一緒に前向きな推測を渡してくれた。
「期待してるんだよ。ほら、この前の試験の成績良かったから」
「あー、あれか……」
 根本先生が担当する国語について言えば、サイガは英語や数学ほど苦手とはしていない。賭けに挑んだ先日の中間試験では学年平均を余裕で上回る結果を出していた。
 機嫌がいいから笑顔がこぼれた。
 その結論に落ち着きかけたところで、横から待ったがかかった。
「いいや、あれは何も考えてないと思う」
 たった今返された本を次に借りに来た池幡だった。
 サイガと実隆は顔を合わせかけた。言動も発想も常にふわふわして誰にも掴めない先生のこと、その可能性は否定できない。
「どうせ深い意味ないんだったらどっちでもいいか」
 結論が出て、それきりで話は終わった。サイガは次の本を週末までに返すと実隆に約束して、自分の席へ戻ろうとした。
 するとそこへ飛び込むように沼田がやってきた。
「最近の風邪やべーよ、マジやべーよ。サイガ、お前んとこ大丈夫か!?」
「大丈夫って何が。俺まだ別になんともねーし」
「じゃーなーくーてー!! 桂ちゃん!」
 沼田はサイガが怯んだ隙にその懐まで迫り、勢いのまま両肩を掴んできた。
「ちょうど今、蓮美姫が風邪ひいててさ。昨日から三十八度の熱出してんだよ。もー見てるだけでマジ苦しそうだし、オレがこうしてる間にもっと悪くなってんじゃないかって考えただけでトリハダもんだし!」
「あーはいはい、お前んちのな。前にも何か言ってたな。で?」
「で、って……だから! 母ちゃんが蓮美を病院に連れてって、それで医者から言われたわけ! ちっちゃい子はこーゆー時大人より弱いから気をつけろって! ……ああ〜、できるもんなら代わってやりたい。ってかオレにうつせば風邪治るかな?」
 目玉も表情もくるくる動かしながらの力説は、脱線が進行しないうちにチャイムの音色で打ち切られた。沼田はまだ何か言いたそうな様子だったが、池幡から小テストの実施をちらつかされると跳ねるように逃げていった。
「結局妹の話をしたかっただけか。でも怪人探し手伝わされるよりは、兄バカのほうがまだマシだな」
「そりゃそうだ」
「池幡も大変だね」
 肩をすくめる池幡に、サイガも実隆も軽くうなずいた。
 自分に実害が及ぶか否かは重要な問題だ。自慢や妄想や嘆きをただ一方的に聞かされるだけなら、まだ「聞き流す」という手が使える。
 それで話が済んだことにほっとしつつ、サイガは借りた本を持って自分の席へ戻った。グダグダになった話のことはすぐに忘れたし、その前に悩んでいたこともほとんど気にならなくなっていた。
 しかし後者は授業が始まってから、教師と目が合ったために練習問題の回答役に指名されるというコンボを三科目連続で食らったことにより、嫌でも思い出す羽目になった。
(やっぱりホームルームのあれは前振りだった……!)
 サイガは級友の欠席が一日で済むことを祈らずにいられなかった。

 その日、校内には様々な噂が流れた。
 ここ数日の流行が高熱を伴う症状ということで、インフルエンザや他の感染症を疑う声は少なくなかった。しかし諸々の仮説は口伝いに広まる間に打ち消し合い、結局ぼんやりとした「熱風邪」という表現だけが残った。
「そういえば、今朝沼田が言ってたこと、間違いでもないよ」
 放課後、実隆が教室を出る前にサイガの席の前で足を止め、声をかけた。
「子供が大人ほど丈夫じゃないのは事実だし。それに桂ちゃんは今まで違う国で暮らしてたわけだから、もしかしたら日本の病気のウイルスに対しては耐性少ないんじゃないかな。旅行先で変な病気にかかって寝込むって話だってよくあるし」
「そんなヤワな奴には見えないけどな」
「でもサイガは本当に気をつけたほうがいいと思う。うつったら後が大変になるのって桂ちゃんだけじゃないんだよ、君の家の場合。変な病気持ち込まないようにしないと」
「大げさすぎ」
 サイガは級友の心配を弾き飛ばすように片手を振って、教室を後にした。
 水泳部の部室でジャージに着替え、体育館の一角で室内トレーニングに参加する。プールを使えない日のメニューを予定通りにこなした後は、程よい疲れと空きっ腹を抱え、まっすぐに帰宅した。
 記憶にも残らないような普段通りの夕方だった。
「ただいまー」
 自宅に着いたサイガが玄関に上がったとき、正面に伸びる廊下の奥では、ちょうど美由樹が台所の入口ののれんをくぐって顔を出したところだった。
「あら、もうそんな時間? おかえりなさい。ちゃんと手を洗って、うがいもしてね」
「は?」
 美由樹がなんでもないようなやり取りに続けて言ったのは、ごく普通の母親らしい、しかし最近は全く聞かなかった一言だった。
 不意打ちに戸惑った長男が聞き返す前に、美由樹は廊下の途中で足を止め、居間の向かい側にある彼女の私室へ入っていった。その腕にはタオルで包んだ何かを抱えていた。
 サイガは靴を脱ぎ捨て、その部屋の前を通り過ぎようとした。しかし部屋の引き戸に目をやり、それが半開きであることに気づくと、中を覗かずにはいられなくなっていた。
 布団が一組敷かれ、その隣に母親の背中があった。枕元で何かをしながら穏やかな声で話している。それも英語で。
「Back? ……サイガ? まだそこにいたの?」
 振り向いた美由樹の後ろに子供の頭が見えた。
「桂ちゃんが風邪ひいちゃって、今、三十九度の熱があるのよ。お昼に病院連れてったら、最近風邪がはやってて、大人でも油断できないんですって。だからほら、早く洗面所行ってきて」
 母に強く促され、サイガは仕方なく廊下を進んだ。すぐ隣にある自分の部屋、曲がり角に接した台所を通りすぎて、突き当たりにある洗面所を目指す。
 歩きながら思い出したことがいくつかあった。
 ひとつはタオル包みの正体で、疑問の片隅に引っかかっていた小さな懐かしさが記憶を引き継いだ。あれは氷枕だ。サイガ自身も幼いとき何度か世話になっている。
 ひとつは母の部屋に今は弟も寝泊まりしているということ。
 そして、つい最近聞いた話。
「……お前、母さんを守るために来たんじゃなかったのかよ」
 思わず口から漏れ出したつぶやきに、廊下のきしむ音だけが応えた。