[ Chapter9「監視と病魔」 - C ]

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「熱は……少しだけ下がったけど」
 電子体温計をにらむ院長の口ぶりは、その表示が予想の範囲内だと受け取れるものだった。
 声のような雑音を拾った夜が明けてから、ウィルが彼女の診察を受けるのはこれが二度目だ。最初はウィルが部屋を抜け出し階段を降りていたところを重孝に見つかり、連行されたリビングで病状を調べられた。そして今度は往診から帰ってきた院長が三階まで様子を見に来た。
「ゆうべはちゃんと眠れたって言っていたけど、本当に? 一晩中起きていた後みたいな目よ」
「……眠っていたことは、本当だ」
 ただし頻繁に目を覚ましていた。
 朝の診察の際に言いそびれたことを白状するはずが、ウィルの口から出てきたのは咳ばかりだった。喉を殴る痛みに耐え切れなかった彼がうずくまると、その背中を院長が優しくさすった。
「もうちょっとしたら、食事とお薬を持ってくるから。それまでベッドでおとなしくしていてね。いい? 今朝みたいに出歩こうとしちゃダメよ?」
 念を押しながら部屋を出た後も、院長の気配はしばらくドアの外に残っていた。
 足音が階段の下に消えるのを待って、ウィルは慎重にベッドを抜け出し、傍らの勉強机の縁にしがみついた。
 熱は少し下がったかもしれない。好材料はたったそれだけ。彼が体表で感じる肌寒さも、歩く際の両足のふらつきも、昨日と何ら変わらない。ほてった手で開いた日記帳の内容にも変化はなかった。
《貴方の敵は貴方の手で始末しなさい》
 最後に記された一文は、教官が今日の明け方によこしたメッセージだ。
 ウィルには意味もわからなければ適切な対応も浮かばなかった。何か書こうとしても、頭の中にこもった熱が思考を焼いて鈍らせる。
 しかもそれを最初に読んだ時と違って、午後を迎えた今は、眠気の波が繰り返しまぶたに打ち寄せていた。油断すると最も単純な疑問さえ忘れてしまいそうだった。
(敵、というのは。この肉体に入り込んだ病のことなのか?)
 苦い薬に耐えて養生しろという意味なら話は平穏のうちに片づいただろう。院長の言うことに従い、ただおとなしくしていればいいのだから。しかしそれは的外れか、違わないとしても話の本筋ではないようにしか思えなかった。
 ウィルは日記帳を机の上の本棚に差し込むと、よろめいた勢いのままベッドに横から倒れ伏した。
 部屋の入口が見える。ハンガーラックにショルダーバッグが一個かかっている。
(魂の陰り。あの声。すぐに報告すべきなのか。……あるいは)
 教官は時折、ウィルのレポートを待たず、先回りするように次の指令をよこしてくることがある。今回もそうだとしたら。
 回想の片隅に何かが浮かび、直後に全身を覆った寒気にかき消された。
 ウィルはやけに重たく感じる身体を強引に動かし、羽毛布団の下に潜り込んだ。まず寒気を振り落とす。温かい暗闇に撫でられるまま目を閉じる。肉体を刺激する感覚が少しずつ剥がれ、やがて一片も逃さず毛布に吸われていった後、彼の意識だけがそこに残った。
 あるいは意識さえ断片になったのかもしれない。
『クスクス……クスクス……』
 遠くで何かが揺らめいている。
 昨夜掴みかけたものと同じ形の声だ、とウィルは判断した。他に知っている感触のどれにも似ない、そんな理由しかないが、今はそれで充分だろう。
『うまくいった。うまくいったわ』
 今度はより鮮明な言葉を嗅ぎとった。
 ウィルは飛び出していきそうになる感情を抑え、関心の舳先を向けた。小刻みに揺れる色は当初感じたよりも近くにあるらしい。
『弱いわ。弱ってる。簡単に結界を破れたの。すごいわ』
 注意深く追いかけた先には歓喜が連なっていた。
 しかもそれはウィルが思ってもみない言葉を含んでいた。
(結界? 何のことだ?)
 少なくとも今この場にそれはない。もし展開されていたら魂の視野を広げたときに気づくはずだ。
 味方がここにそれを仕掛けたという話は聞かないし、そうする目的も思いつかない。
(誰の、どこの、何を狙った……)
 ウィルは引っ掛かりを覚えた部分を一つずつ整理した。
 弱っているのは何、あるいは誰なのか。
 今この場を通り抜けている思念はこちらの存在を意識しているのか、いないのか。
 自分と関わりのない存在なら、何故魂が接するほど近くでそれを観測できているのか。
 発信者の目当てが自分ではなく、たとえばまだ見ぬ味方だとしたら、それはもしかしたら近くにいるのかもしれない。どこにいるのか。
 味方を狙うものは敵だ。
 自分の敵は自分で始末しろ。
 敵はどこだ?
『クスクス……クスクス……』
 どこかで、しびれに似た刺激が弾ける。
 感じ取れるのは、魂が触れているから。
 触れられているから。
 声を読み取れるほどには近く。
 自分でないと判るほどには遠く。
 それは誰だ?
(……まさか)
 窓の外を通る車のエンジン音が雑音を踏み潰した。
 一瞬で物質界に引き戻されたウィルはすぐに飛び起きた。ほてりも痛みも忘れ、ベッドから這い出すと、左右によろめきながら部屋の入口まで歩いた。
 開けるのは扉ではない。日頃の外出に使う、重孝から借りっぱなしのショルダーバッグを、やや乱暴に掴んでひっくり返した。
 夕日が遠のいた暗い部屋の床に、銀色の流れ星が落ちた。
(教官の指示が“違う”ものを指しているのなら、これの存在を説明できる)
 ウィルは床に転がった小銃のようなものを拾い上げた。
 それは以前に起きた立てこもり事件の折、教官から支給され、敵を蹴散らすのに使ったものだ。ずっと持っていたわけではなく、事件後に指示を受け、一度は本の中へと返したはずだった。ところが半日前に例のメッセージを受け取った際、その隣のページから浮かび上がるように、同じ武器が再び物質界へと現れたのだった。
 使い方は両手が覚えている。グリップを握ってから引き金に指を絡めるまで、思い出そうとすることもなく、発砲に至る手順を進めた。
(あの声が俺への干渉の痕跡と仮定し……ぐっ!?)
 室内を漂っていた冷気が腕にまとわりつき、ウィルを咳き込ませた。
 彼は思わず手の甲で口の中を塞いでいた。喉の変調はしばらくして収まったが、予定外の動作が加わったことで集中が途切れてしまい、小銃を床へ落としそうになった。
 一度放り上げるようにしてグリップを持ち直し、構える動作の最初からやり直しながら、室内全体に注意を向ける。
 既にあの笑うような音は聞こえない。
(弱っている、と聞こえた。この肉体の変調のことか。それとも)
 風邪は気力との戦いだと院長は言った。
 自分の敵は自分で始末しろ。
 敵はどこだ?
(結界。我々と物質界の橋渡し。……広い意味では、実体化も結界も、同じこと)
 ウィルは小銃を右手だけで握り直し、もう一度だけ咳をしてから、ゆっくりと右腕を肩の後ろへ回した。さらに手首をひねり、引き金に触れている指先を中心に銃身を回転させ、向きを変えた状態で握り直した。
 銃口は彼自身の首筋に向けられている。
 照準を確かめもせず、見習い天使は引き金を引いた。

 柳医院の三階の一室が、雷光のような純白に、一瞬だけ染まった。