[ Chapter9「監視と病魔」 - D ]

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 街を席巻した熱風邪の流行は当然のように、内科の看板を掲げる柳医院に多忙をもたらした。午前も午後も診療予約の電話がやまず、待合室のソファが全て埋まっている状態が何時間も続いた。
 ところが、三日ほど過ぎた頃に混雑はぱったり途切れた。院長や看護師たちは拍子抜けしつつも流行が収束する兆しにほっとした。そして患者や知人から聞いた話にそれぞれが驚いた。
「熱が出たときも急だったけど、下がったのもいきなりだったんですって」
「院長、私も同じような話聞きました。目が覚めたら嘘みたいにすっきりして、熱だけじゃなくて咳も止まったっていうんです」
 休診日の夕食の席。院長母子と共に食卓を囲むスタッフたちは伝言を教え合い、揃って首をかしげた。一口に風邪といっても様々な症状や進行パターンが知られているが、諸症状が一度にまとめて取り払ったように治る、というものはあまり多くない。
 やがてそのうちの一人が横へ目を向け、箸を持つ手を止めているウィルに気づいた。
「そういえばウィルさんも、三日目ぐらいで急に熱下がりましたよねえ。そういう風邪だったってことなんでしょうか」
 居候の視線がダイニングをさまよった。
 隣に座る重孝はその様子をじっと見ていた。


 看護師たちが指摘した通り、ウィルは発症から三日目の朝に高熱から回復し、週末には労働に加われる体力を取り戻していた。院長は様子を聞いて多少喜びはしたが、それ以上に彼が病み上がりの身で家の中を歩き回ることを心配した。
 時は十一月初旬。冬の入口。
 発熱から一週間ほどが過ぎたある日の昼下がり、ウィルは柳家の屋上に一人立っていた。右手をパーカーのポケットに収めている。曲げた指の内側に、教官が送ってきたあの小銃があった。
「終息した……ということでいいのか?」
 疑問の出発点は鮮明に思い出せる。
 熱に苦しみながら不審な声の正体を模索した夜、わずかな手がかりを頼りに敵の痕跡をたどった彼は、自分の首に向けて発砲するという作戦をとった。弾丸は彼の肉体に傷も痛みも与えず、魂にさざなみを立てていた何かが静かに退いていく、そんな感触だけを確かに残していった。
 それから夜明けまでの間に風邪の諸症状は薄れていった。ウィルは一眠りしてから、すっかり軽くなった体で机に向かい、教官への追加報告をまとめて書き連ねた。
《今回罹患した病は物質界由来のものではなく、低級の悪魔が霊的接触を通じて肉体に変調を及ぼした、呪いに近い性質の現象であったとみられる》
 彼は仮説を日記帳に記録する傍ら、自分の身に起きた変化を思い返した。
 魂に触れていたあの陰りは、敵を払いのける護身用の聖なる弾丸を受け、怯むことも逆上することもなく消え去った。当てたものが敵の本体なら、悪魔と呼ばれる群体の中でも低い階級に違いない。あるいは上位の存在が使っていた駒ということも考えられるが。
(人の肉体に爪を立てる雑魚がいつから俺にまとわりついたのか。考えられる機会は、あの日の外出中。でもどうして俺だったのか)
 ウィルは頭をかきむしりながら、ふと窓の外を見た。青い目には向かいの家の屋根しか映らない。しかし屋根の下に渦巻く陰影が確かに視えた。
《様子はわかりました。着眼点は良いのですが、証拠となりうるものが貴方の変調の痕跡しかないようでは、これを推論以上のものにまとめることは難しいでしょう》
 目を離した隙に教官からの返答が日記帳に浮かび上がっていた。
 新たな文章に気づいたウィルはその次の行に書き足した。
《ではそれを調査させてください》
《本来こういった被害の調査は守護天使の仕事です。しかし彼らも多忙ですからすぐには駆けつけられないでしょう。それまでの間に限り、私の監督範囲の元でのみ許可します》
 教官はしぶしぶといった様子で承諾した。
 教え子は口出しが一時停止になると確信した。
(魂の陰り。それが悪鬼の手形でも捨て駒でも、この銃に反応するなら、敵だ)
 ウィルは筆記具の羽根を置いた手で小銃を取り、窓の外のある一点へ銃口を向けた。引き金を引くと窓ガラスがほんのわずかに震え、それから向かいの家屋の中で暗い淀みが霧散した。弾丸の性能は証明された。
 それから見習い天使は連日、可能な限り家の内外に注意を払った。柳医院の正面玄関で同種の陰りを多く見かけ、流行中の病との関連を疑い始めてからは、何度も屋上へ上がっては帰りがけの患者が背負う暗雲を観察、そして狙撃した。
 問題は撃った後の変化や影響を追跡調査できないこと。魂の走査範囲が限られる見習いが家から一歩も出ないでそれを実行するのは不可能に等しい。だがその情報はわざわざ探さなくても、院長たちの雑談を通じて勝手にウィルの耳へ入ってきた。
「あの人間、患者たちも俺と同じように、魂の陰りが薄れたことで回復したのなら……」
 今、屋上に立つウィルがどれだけ丁寧に心の耳を傾けても、怪しげな気配は一つも拾えなかった。そこから力が及ぶ範囲で感知できる呪いの痕跡は、既にウィルの手で残らず駆逐されていたのだ。
(そろそろ地域の担当者が動いたか?)
 ウィルは意識を一度肉体の中へと戻し、屋上へ出たもう一つの理由、洗濯物の取り込みを始めた。
 初冬の空気は真昼の日差しが乾かした衣類をすっきりと冷やしていた。
(敵が拠点を変えた可能性もある。あれだけ派手に撃てば俺に気づいてもおかしくはない)
 教官へ結論を報告する頃合いだろう。そう考えたウィルが、この一週間で得た情報を改めて整理し始めた、その時。
 洗濯カゴを抱えた腕に一層強い冷気が巻きついた。
 風ではない。筋肉の震えではない。高熱を出す直前に触れた違和感を連想させる、ここ数日で発見したものよりずっと濃厚な“陰り”が、すぐ近くに迫っていた。
 ウィルはカゴを足元に置き、気配を感じた方角の手すりから身を乗り出した。植木や塀の間から見える道路に人の姿はない。自転車や自動車も見えない。そしてあれほど強烈だった感触も既に感じ取れなくなっていた。
(通り過ぎた……?)
 屋上の空気が止まった。
 しばらくして我に返ったウィルは手すりから両手を離し、衣類で満杯となったカゴを抱えて階段を降りた。荷物を一階のリビングに置いた後、今度は階段を駆け上がり、重孝の部屋に残していた日記帳を広げた。
《病を吹き込む悪魔の本体らしきものを発見しました》
 羽根の芯で書きつけた文章には問いかけも確認も入らなかった。
 ウィルは閉じた日記帳をショルダーバッグに放り込み、それを抱えて再び一階まで降りると、院長からもらった靴をつっかけて戸外へ飛び出した。
「ウィルさん!? どこ行くの!?」
 誰かが呼び止めたように聞こえた。その声が看護師の一人だと気づいたとき、既に柳医院はウィルが振り向いても見えない位置まで遠ざかっていた。
 訓練生は進む方角を定めると迷いなく直進した。
 屋上で得た不気味な感触はわずかながら両腕に残っている。
(移動する本体が、病を種子のように周囲へ蒔いている。それならば不特定多数の人間が同時に同じ陰りに取り憑かれる現象を説明できる)
 その本体が恐らく一直線に突き進んでいったのであろう地域へ、ウィルは息せき切って到着した。
 立ち止まって深く息を吸うと、不意に日が陰り、肌を刺す寒さが増していった。
『……見つけた……』
 風の吹き抜ける音に混じって、か細い声が聞こえた。
 ウィルはショルダーバッグの中に右手をねじ込んだ。
 今は魂の感覚を研ぎ澄まさなくても視える。排ガスを巻き上げたような色を薄くまとった風が、流線型の、生き物らしい何かを形作っている。そんなふうに見えた。
『天の軍勢の、手先……よくも私の可愛い妹達を……!』
 子供を思わせる声が風の悲鳴と重なりあった。
 ウィルの耳は聞き覚えのある声をはっきりと捉えていた。
「妹達というのは、あんたと同じ声で一緒に好き勝手なことを騒いでいた連中か」
 鈍色の風がうねった。
 外套を着てこなかった体は無防備にも等しかった。冷気が衣服の隙間から入り込むたび、手足が震え、関節が重くなる。
 それでも。だからこそ、ウィルは小銃を握った。
「俺の耳元でさんざん喚いただろう。あんたこそ、よくもやってくれたな」
 銀色の銃身には何も映らなかった。