[ Chapter9「監視と病魔」 - G ]

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 謎の病の元凶が打ち破られてから一夜が過ぎた。
 ウィルは朝食の席に着いたものの、最初の一口から早くも手が止まっていた。すぐ隣で焼きたてのトーストをかじる音さえ耳に入らない。
 彼の思考は昨日という日を、特にその後半を、何度もなぞり続けていた。

「まあ、ウィル! いったいどうしたの!?」
「路上で座り込んでいるところを見つけまして……」
 敵を打ち破った直後。文字通り一歩も動けなくなったウィルは、見知らぬ若い女性に助け起こされ、そのまま手を引かれる形で柳医院まで連れて行かれた。ふらつく足で来た道を引き返す途中、重孝が迎えに来たので、道のりの後半は彼の肩も借りた。
 肉体が病み上がりの頃と同程度まで弱っているという自覚はあった。外へ飛び出してからの時間の経過も実感した。ゆえにウィルは院長から心配という名の苦言を呈される覚悟を決めたが、いざ帰り着いてみると、話は意外な方向へ進んだ。
「彼、何かを思い出そうとしていたみたいなんです。見つけた時、とても苦しそうにしていて。気になることもおありだと思いますが、今夜はゆっくり休ませてあげてください」
「そう……まあ、そうだったのね……」
 院長はそれきりウィルに何も尋ねなかった。
 口添えひとつで追及を完封したその女性は、院長や看護師らと少しだけ話してから帰っていった。恩人に対してウィルは一言も話せず、もちろん礼も言えなかった。
 だが今回に関してはそれでも全く問題なかった。
 居候先への道すがら、彼はその女性の魂に直接触れ、正体と事情を悟ったのだ。
『お疲れ様でした。よく闘いましたね』
 彼女こそがこの街の平和を陰から支える守護天使のひとりだった。口を閉じたまま心に直接語りかけてくる声は優しかった。初めて出会った“味方”のねぎらいには、以前院長から頭を撫でられた時のくすぐったさを思い出させる不思議な響きがあった。
『あなたのことはリーダーから聞いています。実はずっと心配していました』
『えっ?』
『あなたが戦闘中に見失った病魔についてはこちらで仕留めましたのでご安心ください』
 敵の一体を取り逃がした件は解決していた。
 一度はありがたい情報だと思いかけたウィルだったが、ふと、その話の背景に疑問を抱いた。彼はすぐに目の前の当事者に尋ねた。だが優しき守護天使は困ったような寂しいような笑顔を見せただけで、会話自体もそこで終わってしまった。

(俺があれを見失ってから、あれの別個体に遭遇し、払いのけるまで。長い時間ではなかった。その間に仕留めたというならば、どこかで待ち構えていたのか?)
「ウィル? 食欲ないの?」
 肩を叩かれる感触が推理を中断させた。
 顔を上げたウィルの正面には返答を待つ顔の院長がいた。隣では重孝が肩に置いた手をそっと引っ込め、グリーンサラダの下にフォークをくぐらせていた。
「いや、そういうわけではない」
「そう?」
「考え事をしていた。……昨日、俺と一緒にここへ来た人は」
「あぁー、ひなぎく先生ね」
 ウィルの返答に表情を曇らせた院長が、続くキーワードに素早く反応して、おしゃべりの相手を見つけた時の輝きを目に宿した。
 そのとき発せられた「先生」が「医者」とは違う意味合いであることを、ウィルは説明される前に感じ取った。差異の理由はすぐ判明した。
「うちと提携している幼稚園で先生をしているの。可愛らしい人だったでしょう?」
 院長の視線はうなずくことを期待していた。
 ウィルは少しだけ首を前に揺らしてから、皿の上のトーストに手を伸ばした。


 同じ頃。
 サイガは朝食どころか、自室の布団の中から一歩も出られずにいた。
 昨晩帰宅してからしばらくは何事もなかった。ところが眠りについた後、息苦しさと暑さで目を覚ました時には、異常な高熱とその影響が全身に及んでいたのだった。
 もう何度目かもわからない寝覚めが、自分自身の咳によってもたらされる。喉が痛い。渇いてもいる。それでも動き出す気になれずぼんやりしていると、布団の外から声が聞こえてきた。
「本当、とんだ置き土産をもらっちゃったのね」
 サイガが薄く目を開けると、足元に立つ人影のようなものが目に入った。
「でもどうしてサリエルはこんな雑魚の対処に一週間も……?」
「……何の話?」
「なんだ、起きちゃったの。別になんでもないわ」
 かすれた声を聞き取った死神アッシュは、小さく首を振って質問を拒否した。病院で初めてサイガに出会ったときと同様、黒のブレザー制服を着用し、灰色の長い髪をなびかせている。手にはハイテクらしい手帳を持っていた。
「何しに来たんだ、今さら」
 声を上げるだけで呼吸が乱れ、サイガは激しくむせた。鼻水まみれの手を枕元のティッシュボックスに伸ばす間、アッシュの姿はろうそくの炎のように揺らいでいた。
「また小競り合いに巻き込まれたって聞いたから様子を見に来たの。すみませんね、今さらで」
「ホントだよ。いろいろヤバかったんだぞ」
「こっちだっていろいろ危なかったんだから」
 アッシュは手帳を閉じてブレザーの胸ポケットに収めた。
「冥府っていうのは天の軍勢や地獄の軍団に比べたらずっと小さな組織なの。現世だけでも数えきれないほど命があるのに、私達死神はいつでも人手不足だから、地域ごとの担当者はいろんな事件を掛け持ちしているのが普通なのよ」
「あーそうですか」
 鼻と口の周りを拭い終えたサイガはゆっくりと上半身を起こした。
 頭が枕から離れる瞬間、氷水が動く音を聞いた。つい最近隣の部屋で見かけた氷枕が、いつの間にかサイガの頭の下に敷かれていたのだった。
「そういやなんでそんなところに立ってんの。遠くねーか?」
「これから魂を刈り取る人以外の枕元には立たない。死神のマナーなの」
「なんだそりゃ……」
「つまり、まだあなたのお迎えの日じゃないっていうこと。今回のその症状、とりあえず命に別条はないレベルだから。何日かおとなしく体を休めれば治るはずよ」
 少女の視線がサイガの背後へと向かった。そこには壁があり、裏側には彼の母親の部屋がある。
 その部屋で物音がしたかと思うと、元気な軽い足音が廊下を駆け抜けていった。
「……今の、桂?」
「そうね」
「昨日はあいつが寝込んでたはずなんだけど」
「病気の原因を全部手放したからすっかり良くなったみたい」
(……じゃあ、俺のコレは、桂からうつされた……?)
 サイガは呆れ顔のアッシュと同じタイミングで首を回し、廊下の方向へ注意を向けた。
「最低だな」
「私もそう思う」
 やがて幼児の足音は完全に遠ざかった。部屋の引き戸から何も聞こえなくなった後、アッシュは布団の端で足を隠すように膝を曲げ、サイガに目線の高さを合わせた。
「ところで、この前あなたが知りたがっていた、プールに落ちた時の話だけど。あれについて私の上司から伝言。『君が冥府に来たとき、すべてを話そう』ですって」
 申し出に希望を見出したサイガが身を乗り出し、続く言葉に肩を落とした。そうしている間にも寝間着の内側に溜め込まれていた熱が外気に奪われていく。やがて落胆を寒さが上回り、病人は再び掛け布団を被って寝転がった。
「……それって、俺が死んだ時ってこと」
「間違いではないわ。今はここから生き抜くことだけ考えなさい」
 いつも肝心な部分だけがわからない。
 サイガは偶然口に入った掛け布団の端をぐっと噛み締め、すぐに吐き出した。
(そんなこと言ってらんねーんだよ、俺は)
 せめて、と言いかけた瞬間、引き戸が音を立てて開いた。
 布団の間から顔を出したサイガが見たのは、濡れたフェイスタオルを手に部屋へ入ってきた母親の姿だった。
「起きてたのね。体の調子はどう?」
「ノックぐらいしろよ……!」
 抗議の声が絞り出された時、死神の姿は既に消え去っていた。