[ Chapter10「怪人ハンターと賑やかしの記事」 - A ]

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 その日、まりあはいつもより早く目を覚ました。
 物音も時計のアラームも聞いていないのに、眠気がきれいに剥がれ落ちている。ベッドの上で体を起こし、いつになくすっきりした気分を味わった後、彼女は心に引っかかるものを感じた。
(なんだか不思議な夢を見ていたような気がします)
 思ってからしばらくは少し気になったが、考え込むまでには至らなかった。
 まりあは普段より早く身支度を済ませ、普段より早く家を出て学校へ向かった。急ぐ理由も特にないまま、冷たい風を頬に浴びつつ歩くうち、気がかりどころか何か良いニュースに出会えそうな気分を抱き始めた。
「おはようございます」
「おはよう。あれ、まりあちゃん今日早いね?」
 教室へ着いたまりあに数名の級友が挨拶を返してくれた。室内も廊下も人は少ない。まりあが鞄を自分の席へ置いた時、その前と左隣の生徒はまだ来ていなかった。
「その手袋カワイイ! ちょっと見せて!」
「あ、はい」
「私にも見せて。ねえ、これどこで買った?」
 昨年のクリスマスに贈られたウサギ顔の手袋が、まりあの手を離れて女子生徒たちの間を飛び跳ねていく。そのうちの一人にブランドを言い当てられ、贈り主のセンスが良いという話に発展したそのとき、横から全く違う空気と声が流れ込んできた。
「超ラッキー! ちょっ、雨宮さん、ちょっ、ちょっといいかな!?」
 手袋が高く飛び跳ねて机の上に落ちた。
 沼田が上ずった声に連動するように右手を振りながら、教室前方から自分の座席を通り過ぎて最後列までやってきた。昼休みと違って依子の席周辺に女子の壁がないから、割り込むのは簡単だ。もちろん依子の嫌味も聞こえてこない。
 通学鞄を肩からかけたまま、沼田はまりあの席に左手を置き、右手を差し出した。
「お取り込み中のところアレなんだけど。ちょっと、こっち来て?」
 どうもまりあの手を掴もうとしていたらしい。しかし沼田は何も触れないうちに動きを止め、落ち着きなく左右を見回してから、おとなしく引っ込めた。それから自分の机の脇まで引き返し、子猫の気を引くようなしぐさでアピールを繰り返した。
 突拍子もない行動に女子生徒たちは驚き、その目的に気づいて好奇の目を向けた。
 名指しされたまりあだけは、ふざけた身振りの割に真剣な目つきを見てしまい、戸惑った。何の用か想像もつかない。でも断る理由も特にない。考えた末、彼女は手招きに応じた。
「ここ座って。どうぞどうぞ」
 沼田は自分のひとつ前の席から椅子を引き、自分の机に向かせて置いた。そしてまりあが来ると着席を勧めた。何のためらいも照れもない行動だった。
「あの、沼田くん。これは西原くんの席の椅子ですよね?」
「いいのいいの、まだ来てないから」
 確認への返答は本当に何も気にしてなさそうな一言だった。
 まりあは教室内を見渡した。学校一目立つ髪色の生徒は確かに見当たらなかった。
「えっと、では……失礼します」
 彼が来たらすぐに退こうと決めたまりあがようやく椅子に腰掛け、スカートの裾を直す。その間に沼田は自分の椅子に座り、すぐに身を乗り出した。
「で、早速なんだけど。今度の日曜ってヒマ?」
「え……?」
「今度の日曜ってヒマ?」
 まりあがとっさに聞き返すと、沼田は発言の後半を全く同じ調子で繰り返し、それからまりあの顔をじっと見つめた。目を見開き、嬉しいことをこらえるよう唇を閉じた顔は、サンタからのプレゼントを待つ子供のようにも見えた。
 奇妙な緊張感に包まれたまりあは息を呑んだ。
 男子と一対一と向き合っている割にはちっともドキドキしない。
「そう、ですね……予定は今のところ、特にない、ですけど……」
 暇と言い切れるかはまた別だ。今日これから依子に声をかけられるかもしれない。それがなければ通信教育の課題とか、文化祭の後に入部した演劇部で割り当てられた作業とか、とにかく何かに取り組むことだろう。
 でも今の話においてそれはどうでもいいことだ。「特にない」だけを聴きとった沼田は口を大きく横長に広げ、椅子から立ち上がった。
「実はさ、一緒にっていうか、雨宮さんに会わせたい人がいてさ」
「会わせたい、人」
「そう! どーしても、雨宮さんじゃないとダメなんだ」
 まりあが聞き間違いを疑って一音ずつ口に出す間に、沼田は机の横に置いた傷だらけの鞄を開け、一冊の週刊誌を取り出した。表紙も側面もボロボロになったその本は、少なくとも最新号ではなさそうだった。
「っていうのも、ここ。この記事のことで」
 表紙の文字や写真を読ませる間もなく雑誌は開かれた。短い指が手早くめくって広げたのは左端を三角に折られたページだった。その目印(ドッグイヤー)もすぐに伸ばされ、スナップ写真に囲まれた大きな見出しがまりあの前に展開された。
『マンション立てこもり“早すぎた突入指示”警察が前代未聞の大失態』
 忘れもしない。文化祭当日に起きていた、あの恐ろしい事件の話だった。
「雨宮さんももちろん知ってるよな、この話。テレビでもいっぱいやってたし」
 まりあは無意識に顔をこわばらせていた。
 そのことに全く気づかない沼田は、見出しでも本文でもなく、それらを囲む写真を指した。
 非常階段を降りていく人々の姿を捉えた一枚がある。黒の濃淡で表された人影の中にひとつだけ、やけに白い部分の多い人物が紛れていた。
「ほら、この写真。例の」
 怪人ルシファー。
 呼び名を思い出したまりあは声を上げそうになった。
 ひと月前に沼田が騒いだからか、他にも同じ写真に着目した人がいたのか、既にその都市伝説は生徒たちのネット掲示板だけの話題ではなくなっていた。まさに今広げられている週刊誌でも、別の号に小さな記事が出ていたらしい。
「実はオレ、コレ撮った人と今度会うんだ。いやマジで。アポ取れたんだよ! 向こうも怪人のことちょっと気になってて、話聞きたいんだって」
 沼田が朝日を浴びた水たまりのように輝く目をまりあに近づいてきた。そして、
「それでさ、雨宮さん。前に会ってるだろ、あいつに」
 呼吸もまばたきも忘れさせる一言が続いた。
 唐突な名指しの直後ではなく、「な?」という念押しによって、まりあの頭の奥で何かの錠が外れた。
「怪人に会った人がいるって言ったら、ぜひ話を聞きたいって! だからさ、その、取材。一緒に来てくんないかな……いや、オネガイシマス。本当、雨宮さんだけが頼りで!」
 沼田が頭を下げた。額で机を打つ音がした。
 上半身だけ土下座のような姿勢を取る級友を前に、まりあは返す言葉を見つけられなかった。とっさに周囲を見たが、教室内には人が増えたのに誰も二人を見ていない。
「頼む。この通り」
「あ、あの、沼田くん。顔を上げてください……」
 このままではまともな会話が続かない。危惧がまりあを動かした。
 促された沼田はすぐに顔を上げた。合格発表を待つような緊張の隙間に期待感が染み込み、おかしな表情のまま固まっていた。
 まりあがもう一度声をかけようとしたそのとき。
「ちょっと! なんでそんなところにいるの!?」
 教室後方に現れた依子がまりあを発見し、心配と困惑を一声で粉砕した。級友が鞄で机を押しのけ突進してきただけで、沼田は机から一瞬にして離れ、隣の席に逃げてしまった。
 壁の時計はまりあが普段登校してくる時間を指していた。
 いつもと違う朝はここまでだった。
「まりあちゃん、優しいのはいいけど、こんな奴にまで合わせてやる必要ないからね?」
「え、えっと……」
 すぐ引き返す依子につられて立ち上がったまりあは、借りていた椅子のことを思い出して元の向きに戻した。そして本来そこに座る人物を待たせてはいないかと、もう一度教室を見渡した。
 誰より目立つはずの姿がどこにも見当たらなかった。
 話も気遣いも中途半端になったまま、時間だけが過ぎ、やがて朝のホームルームが始まった。根本先生がサイガの病欠を知らせると、教室全体がどよめいた。
「熱出して寝込んでるんだって。桂ちゃん……弟の風邪をうつされちゃったみたい」
 実隆に届いたメールを見たという幹子が、ざわめきの中でまりあに耳打ちしてくれた。