[ Chapter10「怪人ハンターと賑やかしの記事」 - B ]

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 ウィルは課題の成功によって自分が慢心しているとは思っていなかった。しかし油断があった点はどうしても否定できなかった。
「俺は、また……」

 彼を落ち込ませる出来事があったのは、街に吹き荒れた病魔を仕留め、初めて同胞に出会った翌日のことだ。
 朝食の後に重孝を学校へ送り出し、仕事場へ行く院長を見送って、食卓を片付ける。家事をひとつひとつこなしながら教官の指示に備える。そんないつも通りの朝がこの日も、まだ肉体に前夜の疲労が残る中、動き出していた。
 ただ普段通りのことだけを考えていたはずだった。
 ところが、両手に持ったゴミ袋を収集場所へ運び出す途中、彼の頭を巡っていた思考が全て吹き消された。
「サイガがここ来るのっていつ以来?」
 聞こえたのは今やよく知る名前だった。
 ウィルが足を止めて振り向くと、見覚えある金髪の少年が中年の婦人に付き添われて柳医院へ入っていく、まさにその瞬間が目に入った。
 顔が見えたのは一瞬で、耳に入ったのは婦人の声だけだ。それでも魂で感じ取った震えはウィルの直感を肯定していた。
 堕天使に囚われたあの不幸な人間が、こちらの拠点に自らの足で来た。
(保護するなら今だ)
 日記帳はリビングに置いてきた。教官の声は聞こえない。
 だがウィルは独断ですぐに少年を追うことをしなかった。まず当初の予定通りゴミ袋を捨てに行き、それから院長宅の玄関先に戻ったのだ。
(あの少年は柳医院を訪れた。考えられる目的は一つしかない。今は診療時間内だからすぐ引き返すことはないはずだ)
 前の週末に何時間も表の道路を観察し、患者が医院に来てから帰っていくまでの様子を見届け続けた、その経験から導き出した結論だった。
 だがその試算は、ウィルが玄関扉に手をかけた瞬間にリセットされた。
 左側から突き刺すような視線を感じ、彼はその正体を確かめずにいられなくなった。そして見た直後から後悔し始めた。
『気づかれたか』
「気づかせた、の間違いじゃないのか」
 狭い庭の片隅に人がいた。先日と同じく幼子に身をやつしたサリエルが、黄金色の輝きを帯びた目で、ウィルに狙いを定めていた。
 視線の意味に思い当たったとき、既にウィルの足は履いていたサンダルごと見えない釘に打たれ、扉の前に敷かれたタイルにつながれていた。
『大人しく自らの職務に戻るなら解放してやる。余計な真似をするなら容赦はしない』
「何だと……?」
『貴様が考えた行動計画は全て見通した。まだ解らぬか』
 重く低い声が語り終える前に、幼児は門の外へ駆け出していた。声さえ聞こえなければ、イタズラの現場を目撃されて逃げるように見える、そんな表情と挙動だった。
(今の言動は、忠告のつもりなのか?)
 幼児を見失ったウィルは、足の拘束が解かれたことを確かめ、すぐ家の中へ戻った。
 彼がリビングへたどり着いた時、ローテーブルの上に置かれた白い日記帳は既に開かれ、新しいページを銀色に輝かせていた。
《どうか慎重に。彼はまだ近辺にいます》
 教官からのメッセージが誰を指したものかは明らかだ。
 ウィルは何度か見た医院内部の様子、そして院長たちの雑談を手がかりに、あの少年がたどりそうな動線を推測した。それからローテーブルの前に片膝をついて羽根を手に取り、この後に自分が起こす行動、そして教官への要望を日記帳に書き記した。
《敵の足止めと対象の保護を単独で両方実行することは困難です。応援を要請します》
《良い解答です。よくできました》
 教官の返答に続けて銀色の線が小銃の形を描いた。
 教え子はそれを作戦開始の許可と解釈した。
(これで独断とは呼べなくなった)
 ウィルが羽根を置いて立ち上がると、その動きを追うように銀色の線がページの外へ飛び出し、絵に描いた小銃が立体となって現れた。それを手にしたウィルは日記帳を残して玄関へ戻り、先ほどのサンダルをもう一度履いて家の外へ出た。
 門は通らない。家屋と塀の間、砂利が敷き詰められた狭い空間を静かに通り、診療所がある方へ回り込んだ。その先には少しだけ広い場所がある。申し訳程度に用意された駐輪スペースから、薄いカーテンのかかった窓がよく見えた。
 そこにいる。
 五感の外で魂がささやく。
(早まるな。俺はこういう場面で判断を誤る傾向がある)
 ウィルはこれまで教官から受けた指摘の数々を記憶の中で抱え直し、一歩踏み出しかけた足を引っ込めた。
 問題の少年がここに来た目的は一つしかない。しかし診療について部外者であるウィルが中に入ればまず看護師の目に留まるし、制止されるかもしれない。人間たちが見ているところで騒ぎを起こしたくはなかった。
 患者用の出口も一つしかないから、少年と接触できるタイミングは限られる。サリエルも恐らくそれを想定して備えているだろう。見習いには厳しい状況。しかし「その時」まではまだ時間があるはずで、教官がうまく手を回せていれば、その頃には味方が来るはずだ。
 塀の内外に注意を払いながら、手の中の小銃を握り直した。
 が、そこへまたしてもウィルの予期しない出来事が割り込んだ。
 カーテンのかかった窓よりもっと手前にある窓が突然開き、見知った顔の看護師が顔を出したのだ。
「ウィルじゃない。何してるの?」
 名前まで呼ばれたウィルがとっさにできたのは、小銃を体の陰に隠すことだけだった。患者を待ち伏せしている事実は伏せるべきだと直感したものの、代わりに話す説明を思いつかない。
 きまり悪そうに口ごもり、左右を見たり建物の上階へ目をやったりする。そんな居候の様子を見た看護師は、なぜか一方的に納得した顔になり、こう言った。
「あ、洗濯物落としちゃった?」
「いや、それは……」
「そんな顔しないで。誰でもやることだから気にしない、気にしない。探すの手伝おうか?」
「結構です。一人で解決します」
 申し出を断られた看護師は残念そうな顔をして引っ込んだ。
 嘘は言っていない。真実に触れなかっただけだ。
 窓が閉まるまでを見届けたウィルは気を取り直し、家屋の陰に隠れてから改めて医院の表玄関を視野に入れた。同時に敵の乱入を警戒して小銃を構えた。
 両目に頼らず気配を知れるといっても、未熟なウィルには待合室に何人の人間がいるかまでは判らない。だが他の人間と明らかに違ったモノを背負った存在がそこにあることは確かに感じ取れた。それも病を撒いた悪魔を追った時より鮮明に。
 だが、
(動いた。外に出る……いや、奥へ向かうのか?)
 突然その異質な気配が揺らいだ、あるいは消えたように感じられた。それを再び捉えたときには、弱くなったとも遠くなったとも言える小さな手応えしか掴めなくなっていた。
 もちろん人間の身体はそんな消え方をしない。ウィルは何者かの介入を疑い、少年の無事を肉眼で確かめるべく、家屋の角から駐輪スペースへと一歩踏み出した。
 その瞬間、人のような形をした無数の幻影が庭を埋め尽くした。
(やっぱり出て来たな)
 正体を確かめる間も置かずにウィルは引き金を引いた。一発の命中が影を吹き飛ばし、初冬の弱い日差しの下に一人だけが残った。
 黄金色の瞳を輝かせて笑う幼子がウィルの目の前にいた。
『敵の居場所の見当ひとつもつけられぬか。残念ながらもう遅い』
 嘲笑の残響を置いて敵は消え失せた。
 ウィルが顔を上げると、誰かが表玄関から出て行くところだった。それがまさに待っていた相手だと気づいた彼はすぐに駆け出したが、直後に後方からの声を耳が拾ってしまった。
「ちょっと、どこ行くの!?」
 先ほどの看護師が別の窓を開けて身を乗り出していた。
「すぐ戻る!」
 走りながら振り向いたウィルは、一言返したと同時に、片足を地面の溝に取られた。幸い転ぶことなく体勢を立て直したが、軽くふらつきながら敷地の外へ出たとき、先ほどの患者の姿はどこにもなかった。
 敵の視線もなければ、来るはずの味方の気配もない。
 ウィルは何の飾り気もない空を見上げた。
「俺は、また……負けたのか」