[ Chapter10「怪人ハンターと賑やかしの記事」 - F ]

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 夜はすぐそこまで迫っている。
 街灯と玄関灯に照らされた丁字路の中央で、沼田が尻餅をつく。
 それがどうしてゆっくりした動きに見えたのか、どうしてモノクロームの世界に見えたのか、まりあにはその時もその後にも分からなかった。
「沼田くん!?」
 とっさの呼びかけに反応は来なかった。
 まりあは級友の側まで行こうとして、自分の膝元にいる要救助者の存在を思い出した。こちらはこちらで放っておくわけにはいかない。体感時間で数秒悩んでから、その人の肩口に添えていた手を後頭部に移し、舗装された地面との間に持っていた鞄を差し込んで枕にした。
「もうすぐ救急車が来ます。それまでもう少しだけ待っていてください」
 かけた言葉が妥当なのか考える余裕などなかった。まりあは立ち上がると、名前も知らない怪我人をその場に残し、今度こそ目の前の丁字路へ駆けつけた。
 沼田は葛原が入った曲がり角を向いて座り込み、目を見開き、ガタガタと不規則な音を奥歯から発していた。明らかに腰が抜けている。まりあが軽く背中を叩いたことでようやく我に返ったが、それから彼が取った行動はひとつ、自分の正面方向を指差すことだけだった。
 震える指先に導かれ、ゆっくりと、まりあも同じ方向を見た。
 腰を下ろした姿勢で、同じ高さの視点で、同じ現場を見た。
 目撃した。
「……葛原さん……?」
 住宅が並ぶ区画に挟まれた細い道路に、動く影が二つある。
 仇敵に出会ったような顔で突進する葛原記者と。
 突っ込んでいく彼を片手で軽く受け流す人物と。
 交差しては離れるその様子はひと目で危険な場面だと判ったのに、まりあは何故だか少しも怖さを感じなかった。
(これは……どういうことなのでしょう)
 かわされ、はねのけられ、転びかけ、それでもなお葛原は挑みかかった。その手に握った何かが小さくきらめいて、次の瞬間には黒い手に弾き飛ばされていた。
 黒い手袋をはめた左手が翻る。葛原の右腕を捻り上げ、彼の動きを止めてみせた人がいる。白のダスターコート。心持ち色素の薄い髪。横顔に貼り付く無彩色の仮面。白色が街灯の光を強く反射しすぎて全体像が見えづらい。
 違和感と既視感がまりあの眼を揺さぶった。
 ある名前が頭の奥には浮かんで、しかし喉の奥につかえて出てこない。
(そんな)
 記者の身体が背骨を軸に一回転半、ネジが外れるような軌道を描いて倒れた。どちらが優勢かは明らかだった。それでも闘志があるのか必死なのか、彼はすぐまた起き上がろうとしたが、その動作は数秒で止まった。
 時間が止まったように一切の動きをやめてしまった。
(何が起きているのですか)
 葛原が頭から影の先まで停止した後も、争っていた相手はしばらく彼を見下ろしていた。しかし急に爪先の向きを変え、二人の高校生が乗っている丁字路の標識に近づいてきた。
 仮面の人物が静かな足取りで進み、沼田の真正面に立った。
 “怪人ルシファー”を追い続けていた少年の前で立ち止まった。
 座り込む沼田を、その隣にしゃがむまりあを、見下ろした。
『言っておくが、今この場で貴様が見たものは只の事故だ』
 低く重苦しい声は仮面の中から発したようにも、違う方向から響いたようにも聞こえた。
 答える声はない。
 風の音さえ聞こえない。
『全容を知りたいか?』
「い、イエ、結構デス」
 ずっと奥歯を打ち鳴らしていた沼田が、ようやくまともな声を出した。ただし途中から裏声が混ざっておかしな口調になっていた。
『ならば二度と好奇心に身を任せるな』
 突き放す言葉を聞いた次の瞬間、沼田の全身の震えが止まった。同時に筋肉のこわばりも解け、尻餅をついたまま固まっていた姿勢はあっという間に崩れて、アスファルトの上に四肢を投げ出す格好になった。
 まりあは両膝をついて手を伸ばしたが、倒れる級友を支えるには間に合わなかった。空振りの勢いのまま身を乗り出して彼の顔色をうかがう。気を失った、あるいは心がどこかへ逃げたようだった。
「沼田くん? 聞こえますか? しっかりしてください」
 級友の肩を軽く揺すってみても反応はなく、すぐには目覚めそうになかった。まりあはどうしようかと悩み、しかしすぐに考えることを忘れた。
 彼の傍らに別の影が近づいてくる。
 まりあが振り向き見上げたとき、街灯を背に立った怪人が彼女を見下ろしていた。
 表情のない仮面の奥に、黄金色の炎のような輝きが燃えていた。
(ああ、思い出しました。この顔です。あの時に見た顔です)
 相手を見つめ続けることが良くないように思えて、まりあは仮面の目元からその下へ視線をずらした。無意識に引いた右手はセーラー服の胸元に隠れたメダルを握りしめていた。
 口元、首筋、襟まで降りていった視界の中に、また別の金色を捉える。
 謎の人物はコートの下に黒い服を着ていた。首周りを覆う形状をした襟の直下に、控えめな大きさながら確かな存在感を持つ金色のボタンが光っていた。
(カソック? ……詰め襟? 学ラン?)
 にわかに噴出した疑問に押し上げられ、まりあは上を向いた。そして白い仮面がさっきより近づいていることに気づき、思わず膝を浮かして一歩分下がってしまった。
『その手に握っているものは誰から手に入れた?』
 仮面の男が発したらしい言葉の意味を、彼女は当初理解できなかった。まず何と言ったのかを見失いかけ、次にそれが誰へ向けた発言かと疑い、それからようやく意図を察した。
 黄金色の灯火が揺れる。
 葛原を倒した左手が、制服を掴む右手に向かって伸ばされる。
「……言えません」
 まりあはつぶやいた。
 発した瞬間は何も考えていなかったが、自分の返答を自分の耳で聞いて、全くその通りだと意識全体が賛同した。
 右手の指先により強い力を込め、彼女はまっすぐに仮面を見据えた。破けそうなほど爪に食い込む布の感触の中に、金属のぬくもりを確かに感じながら。
『答えろ』
「嫌です」
 今度は意識して断言した。
 誰かから何かを言われたわけではない。握りしめているものは値打ちだけで言えばたいしたものではない。彼女にとっては宝物、ただそれだけのものだけれど。
 このメダルを守らなければいけないと直感が告げていたから。
『答えろ』
「お答えできません」
 発した声は少しも震えなかった。
 明瞭な返答に怪人は無言の行動で応えた。前に向けていた左手を一度引いてから数回手首をひねると、その手の中に銀色の短剣が現れていた。現代人が持ち歩く小型ナイフよりは童話の挿絵で見られるものに近い形状の刃物が、迷いなくまりあに向けられた。
 空気を切り裂く音がして、白いコートの左袖が振り下ろされた。
 直後。
 まりあの直ぐ目の前で、鮮やかな色の火花が弾けた。
「えっ……!?」
 とっさに目をつぶった時には痛みを感じなかった。しかしまりあがゆっくりとまぶたを開けてみると、視界に白い残像が焼きつき、前がほとんど見えなくなっていた。
 穴だらけの世界の片隅で、スニーカーを履いた足が後ずさりしていた。
『今日は見逃してやる。だが、ここで目撃した内容を断片でも他言したなら次はないと思え。仔細を知ろうともするな』
 道路上の小石を踏みにじる音がした。
 残像が薄れ、世界が夜の色に戻っていく中、声と足音はまりあの横を通り抜けたようだった。
『今夜の出来事の真相を知った者には誰であれ、貴様が払いのけた災いが代わりに降りかかるだろう』
 脅迫めいた口調で不可解な一言を残し、怪人ルシファーらしき男は丁字路のもう一つの分岐、誰も通っていない方向へと去っていった。
 まりあは冷たい舗装の上に腰を下ろした。足にうまく力が入らないのは緊張が緩んだからだろうか。
(つまり……今起きたことは、あの人のことは、誰にも言うな。ということでしょうか)
 遠くから救急車と警察車両、サイレンの二重奏が聞こえてきた。
 右の手のひらに感じていた脈動が少しずつ収まり始めた。