[ Chapter10「怪人ハンターと賑やかしの記事」 - G ]

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 新たな傷害事件の知らせを受けた警察が対応に追われている頃。
 級友の受難を知らないサイガが普段通りに帰宅し、居間に顔を出すと、母と祖父母がちゃぶ台を囲んでテレビを見ている場面に出くわした。
「おかえりなさい。晩ごはんはいつでも始められるから、早く手を洗ってきなさい」
「わかってるって」
 美由樹から念を押すように言われたサイガは、「ガキじゃねーし」の一言を口ごもりながら食卓へ視線を落とした。
 彼女の隣には今日も子供用の食器が一式並んでいる。だが、その席には誰もいなかった。
「……あれ?」
「あ、桂ちゃん? それがさっきから寝ちゃってて。手を洗って鞄を置いてからでいいから、お部屋に行って起こしてきてくれない?」
「はいはい」
 今夜は断る口実も逆らう理由も特に思いつかなかった。居間を横断して廊下に出たサイガは、洗面所と自分の部屋に立ち寄ってから、隣の部屋の引き戸をそっと開けてみた。
 そこにうたた寝する幼児の姿などなかった。
「あ? 部屋にいるんじゃなかったのかよ」
 届きはしない文句を口にしながらサイガは室内に踏み込んだ。しかし入口からは死角になっているあたりを覗き込んだ途端、文句の残りは汗と共に畳敷きの床へ落ちた。
 既に何度か出会った黒ずくめの歩兵が壁を背にして座っていた。
 突然の登場はサイガを怯ませたが、驚くべき点はそれだけではなかった。相変わらず武装してはいるものの、口元を覆っていたマスクが外され、素顔が露わになっていたのだ。色白の顔はどこか西洋の彫刻を連想させつつ、親戚の誰かに似ているようでもあって、どこで見た顔なのかとサイガをひどく混乱させた。
 だが最大の問題は歩兵の表情だった。険しくなりすぎた恐ろしい形相は単純に怒っているのとは違う。サイガは直感で察し、すぐ裏付けとなりそうな記憶を思い出した。
 それは勝つべき試合に敗北した悔しさに悶える顔だった。
 番狂わせに翻弄された屈辱を噛みしめる顔だった。
 こんなときにかけられる言葉があるだろうか。
「……桂」
 サイガは目を閉じ、深く息を吸ってから、静かに呼びかけた。
「飯の時間。さっさと起きろ」
"I know."
 威圧感のない高音の声が返ってきた。
 声の主を判断したサイガはすぐ目を開けたが、彼の前にはもう誰もいなかった。


 翌朝。
 まりあは普段通りの時間に家を出て学校へ向かった。しかしその足取りは誰から見ても重く、顔色は面識のない通行人さえ心配させるほどにひどいものだった。
 他人の反応がそんな調子なのだから、彼女の優しい両親は当然心を痛めたし、一人娘の身に起きたことを誰よりも案じていた。昨夜警察署へ娘を迎えに行って以来、彼らは何度も涙を浮かべたし、何度も娘に学校を休むよう勧めた。それでも、
「私は、大丈夫です」
 本人が一点の曇りもない笑顔で言い切るものだから、両親は仕方なく娘を送り出した。
「お願いだから、無理だけはしないで。どこかで一休みするのよ」
「はい」
 そうして予定通りに登校したまりあだったが、親や通行人と違って一年三組の女子生徒たちは「様子を見る」という選択肢を持たなかった。加えてどこから伝え聞いたのか、既に級友たちは昨夜の出来事について多くを知っていた。
「まりあちゃん、例の通り魔見たってホント!?」
「警察行ったって聞いたんだけどぉ」
「また沼田についてったんだって? あれだけ言ったのに!」
「学校来て平気なの? 本当に何もされてないの?」
「ちょっとみんな落ち着こうよ、まりあちゃん困ってるじゃない」
 当事者を取り囲む質問者たちの間に幹子が割り込み、まりあをかばうようにその隣へ立ったことで、場の白熱は少しだけ引いた。幹子は続けてまりあに発言を促す視線を送った。
 まりあは十数個の瞳から逃げるようにうつむき、小声で答えた。
「あの、皆さん、本当に……大騒ぎするようなことでは、ないんです」
 少なくとも自分自身のことについては、面白く聞いてもらえる話ではない。彼女は本心からそう考えていた。
 事件現場にいた目的は一つ、知り合いの落とし物を届けようとしていただけで、他には何も考えていなかったし気づいていなかったことも。
 負傷者が救急搬送された後、警察から事情を聞かれ、その際に落とし物を託したことも。
 事情聴取に立ち会った女性の刑事が、家に帰るまでずっと付き添ってくれたことも。
 ベッドに入っても全く寝つけず、結局朝までずっと起きていたことも。
「怪我をされていた方も、命に別条はないそうですし」
「あのね、まりあちゃん。そういう問題じゃないの。自分が超ヤバイ事件に巻き込まれたってこと分かってる?」
 幹子の問いに答える形でいきさつを語ったまりあが、最後に一言足すと、すかさず依子に左右の二の腕を掴まれた。
「で、ですが」
「依子、もういいじゃない。好きで一緒に行ったんじゃないっていうのは本当みたいだし」
 別の友だちになだめられた依子はしぶしぶ引き下がった。そこへタイミングを図ったように始業のチャイムが鳴り、集まっていた女子たちは自分の席へ戻っていった。
 まりあの視界が広くなった途端、隣の列の前方が目に入った。黄銅色の頭のすぐ後ろに、小柄な男子生徒が座っていた。
(沼田くん! よかった、元気そうです)
 普段と変わりない横顔を見たまりあは胸を撫で下ろした。
 その目に映る現在と同時に、昨夜最後に見た彼の様子が、頭の中を流れていく。空気が抜けた浮き輪のような姿はとても痛々しかった。怪我はしていないと知ってはいたが、まりあが警察の車両に誘導されてから後のことは聞いていなかったので、無事を確かめられたことはやはり嬉しかった。
 けれども。
(……あれは、何だったのでしょうか)
 自分のことより、あの時彼の身に起きた何かのほうがよほど心配で、そして重要に思えてならない。
 家へ帰る車の後部座席で、深夜のベッドの上で、まりあが何度も考えたことだった。いくら記憶を組み立て直しても答えは出そうにないことには早い段階で気づいた。しかし他の誰かに手がかりを求めようとするたび、記憶の断片が心に突き刺さるのだ。
『今夜の出来事の真相を知った者には誰であれ、貴様が払いのけた災いが代わりに降りかかるだろう』
 そんなことはあるわけがない、と最初は思った。
 あるとしたら何が起きるのか、と次に首をかしげた。
 しかし疑問を人に打ち明けることは結局できなかった。それは脅迫めいた一言を気にしたことだけが理由ではない。救急車が来た時はまだ頭が混乱していたし、警察に事情を聞かれたときは、葛原を犯人扱いするよう誘導する匂いが気になって事実を言い出せなかった。
(災いが降りかかる。それは、危害を加えるという意味なのでしょうか。……でも)
 本当に何か悪い出来事が訪れるのかもしれない、と疑ったのは夜が明ける前の何時頃だったか、首から外して枕元に置いていたメダルが指先に触れたときだった。
 向けられた刃を払いのけたあの火花こそ、今回まりあが目撃した中で最も説明がつきそうにない現象だった。そこに何があって、どうして光ったのか。偶然が起きたのか、仕掛けられたものがあったのか。
 ただ、仮面の男はあれに怯んで退散を決めたようだった。だからまりあにとっては幸運な出来事に違いなく、喜んでいいことなのかもしれないが。
(あの人は、これのことを気にしていました)
 まりあは机の上に肘をつき、セーラー服のスカーフを掴んだ。その内側には今日ももちろん、大切な銀色のメダルが隠れている。
 スカーフを握る指を少しだけ緩め、指の間に左手の指先を滑り込ませて、もう一度握りしめる。縮こまって祈るような姿勢でじっと考えていると、目の前に影が落ちた。
 沼田がまりあの席の前に立っていた。
「おはよう。や、昨日はゴメン。マジでどうかしてた」
「えっ?」
「だってさ、マジで人が倒れてんの見たの初めてでさ。パニクっちゃって。何やったか全っ然覚えてないんだ。救急車呼んでくれたの雨宮さんだよな? ありがとう!」
「……ええっ!?」
 まりあは両手を組んだまま、沼田の顔を確かめた。
 照れくさそうに笑う級友はとても嘘をついているようには見えなかった。


 その後、葛原記者が都市伝説について書いた記事は二度と紙面に載らなかったという。