[ Chapter11「彼と彼女と彼女の裏話」 - C ]

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 ワインレッドの車の助手席で、サイガは出かかったくしゃみを全力でこらえた。
「どうしたの?」
「別に」
 土曜日の午前十時頃。かつて事件現場となった桜埜公園にサイガが着いたとき、それを待っていたとしか思えないタイミングで問題の車が現れた。祐子と名乗っていた女はサイガを助手席に乗せると、すぐに車を発進させた。
 車は見慣れた駅前広場を通り過ぎ、集合住宅が建ち並ぶ一帯を抜けると、高速道路と並走する一般道に入った。カーナビにはどこかへの道順が表示されていたが、目的地の情報は出ていなかった。
 出発からしばらくの間、車内は沈黙に制圧されていた。それを打ち破るのがなぜか怖くなったからサイガはくしゃみを潰したのだが、結局そこから会話が始まってしまった。
「よかったー。このままずーっと口きいてくれなかったらどうしようって思ってたの」
 困っていたと主張する割に祐子の声は弾んでいる。
「さっちゃんだったら来てくれるって、この前も言ったけど私信じてたから。それにサリエル様も反対なさらなかったでしょ?」
「それは……」
 呼び戻された記憶がサイガの頬をこわばらせた。
 祐子と再会した雨降りの日、帰宅したサイガを玄関先で出迎えたのは桂だった。弟はたどたどしい発音で「オカエリナサイ」と言うと、兄の顔をじっと見つめ、それから急に何かを哀れむ表情に変わった。
 その直後、最近ようやく聞き慣れてきた低音の声を耳にしたのだ。
『あの女が信用に値するか否かは、自分自身で判断しろ』
 質問する前に回答を拒否したともとれる言いぐさに、そのときのサイガは憤った。だが後から考えてみると、何を訊かれるか知った上でそう言ったとしたなら、少なくとも嫌悪や不満が込められていた印象はなかった。だとしたら。
(多分、こいつに殺されることだけは、ない)
 サイガは右隣に座る女を横目で確認した。
 進行方向を向いて運転に集中しているらしい横顔は、どこか浮かれた様子に見えた。
「……あいつの名前出せば俺が信用すると思ったのかよ」
「うふ、さっちゃん可愛い。……でもそういうことじゃなくて。ほら、さっちゃんは“呪縛(いましめ)”を着けられているでしょ? 首のソレ」
 指示語につられてサイガの右手が黒いチョーカーの存在を確かめた。
「サリエル様はそこを通していつもさっちゃんの様子見てるみたい。もし私が敵で、嘘ついてさっちゃんに取り入ろうとしたら、すぐバレて始末されちゃうから」
 その言葉もまた真偽不明。できるならおかしな発想と笑ってやりたかった。しかし残念なことに、サイガにはそれを受け入れると説明のつく怪奇現象に心当たりがあった。
 チョーカーの先端に爪が引っかからない。
「そんで? お前結局何者、っていうか、あいつの何なんだ」
「私は味方のつもりだけど。何者かっていうのは、まだナイショ」
「じゃあ今これはどこ向かってんだよ」
「それもナイショ」
 車が交差点で停止信号に引っかかった。信号の真横に掲げられた地名はサイガにとって名前しか知らない場所だった。
 思ったより遠くまで連れてこられていた。そしてさらに遠くへ向かうらしい。
「だったら……お前こないだ、俺に会いに来たっつったけど。あれは何だったんだ」
「もう、だから祐子って呼んで」
 運転者はラメで飾った唇をわざとらしくとがらせた。信号の色が変わり、再びアクセルを踏み込んでからもその調子なので、サイガは仕方なく言い直した。
「……祐子は、なんで俺に会いたいって思ったわけ」
「そりゃもう、個人的に気になってたし、気に入ってたから。あの事件の時はいろいろメンドーな事情あったからたいしたお話もできなかったけど、今は完全フリーだし?」
 名前を呼ばれただけで祐子はもったいぶることをやめた。しかしその勢いで前の質問にまで答えることはなく、逆にサイガへ質問を向けた。
「私のことは話したから、今度はさっちゃんの番よ。いいでしょ?」
「はぁ、俺?」
「どうしても気になってたことがあるの。その頭、どうしてそういう色にしてるの?」
 祐子の横顔を追っていた視線が激しくぶれた。
 何を訊かれるのか予想もできないまま、投げ込まれたのは恐らく考えても予想に入らなかっただろう話題だった。サイガは運転席と逆方向に勢いよく首を回し、サイドミラー越しに自分の頭髪を確かめた。
 手入れの必要を感じながら何もできていない、はがれかけの金髪がそこに映っている。
「いや、どうして、って」
「それ自分でやったんでしょ? そのカラーリングが好きなの?」
 戸惑っていると、より具体的に尋ねられた。サイガは流れゆく街の景色をぼんやりと眺めながら返答を探した。
 現時点で染まった部分の色合いは気に入っている。だが狙ってこの明るさにしたわけではなく、偶然というか失敗の産物だった。手に入れたモノを好きになるのと、好きだから手に入れるのは、まるで別物だ。というより……
 その先を考えるのが面倒になって、浮かんだ本音を口にした。
「別に本当は何だっていいんだよ。黒じゃなければ」
「えぇー?」
 今度は祐子から意外そうな反応があった。しかし彼女のそれには何かを喜ぶ音色も含まれていた。それから運転席で鼻歌が始まったので、ここで会話は途切れた。目的地に近づいたから運転に関心が戻ったというわけではなさそうだった。
 ワインレッドの車はいつしか高速道路との並走から、高架下を走る道に移っていた。高い天井と周囲のビルが作る細い隙間から昼前の日差しが入ってくる。
(そうだよ。何だっていいんだ。あいつと被りさえしなきゃ)
 駆動音と振動だけが跳ね回る車内で、サイガはなんとなく記憶の蓋を開けた。
 自然と浮かんだのは高校の入学式翌日の出来事だった。

 風紀検査のことはあまりよく覚えていない。ずっと忌避していた男のふざけた笑みを鏡の中に見た瞬間、頭が真っ白になって、気がつくと保健室の天井を仰いでいた。
 はっきりした記憶はその後に始まる。ヘアスプレーを洗い流してから教室に戻ったサイガを待っていたのは、級友たちの哀れむ視線と、放課後に職員室へ行くようにとの通知だった。すぐに制裁の第二ラウンドを覚悟した。
 ところが訪れた職員室に生活指導担当の姿はなく、手招きしてきたのは初老の男性教師だった。職員室奥の校長室へと通される間に、サイガはその人が季花高校の教頭であることを知った。
 校長は席を外しているという。二人きりの校長室で、教頭はサイガに染髪をやめない理由、そして体育館で取り乱した件についての心当たりを尋ねた。
『遠慮しないで正直に話してくれるかな。君の話を聞いてから、対応を考えたいんだ』
 サイガは戸惑ったが、言い分を聞いてくれるというので、抱える事情をすべて話した。
 少々訳ありの家庭環境とそれ故のいらない苦労。
 鏡の中から消えてくれない自称父親の幻影。
 嫌な記憶を封じ込める効果的な手段が他に見つからないこと。
 前月まで中学生だった子供の言い訳に、教頭は黙って耳を傾けていた。そして説明終了を確認すると、穏やかに笑って言った。
『事情は分かった。なるほど、君はなかなかの強敵と常に戦っているわけだ。しかし君はもう高校生だ、自分の敵とだけ戦っている場合じゃない。それは分かるかな?』
 サイガはすぐにはうなずけなかった。すると教頭はこう続けた。
『人は内面が大事だとはよく言うが、一目で内面を直接見抜くのは難しい。だから人は外見に内面が反映されると考えて、外見で人を判断する。顔のかたちや傷跡は仕方ないとしても、人相や服装、髪型といったものは、整え方次第でどうにでもなる』
 だから制服があり、校則で指針を示している。そう言われ表情を硬くしたサイガに、
『いい機会だから、そろそろ鏡におびえない自分、元の自分を取り返してみないか』
 教頭はそっと手を差し出した。
 そのときのサイガはどう応じたらいいか分からなかった。
『すぐにとは言わない。少しずつ髪の色を暗くして、目を慣らしていくといい。小森谷先生には私から言っておくから。そうだな、高三の修学旅行までなら、なんとか押さえられるだろう』
 秘策の存在をうかがわせる意味深な笑顔が、窓から差し込む午後の光に重なった。

「目的地周辺です」
 サイガを乗せた車は白いビルに挟まれた大通りを走っていた。どちらを向いても広い歩道は大勢の若者で埋め尽くされていた。
 カーナビの自動音声が打ち切られてすぐ、祐子は車を左折させた。行き交う人に道を空けさせ、高級腕時計の看板の脇を抜けた車は、入り組んだ裏路地の途中で突然停車した。
 助手席側の窓の前で、ナチュラルカラーに彩られた小ぎれいなヘアサロンが店を開けていた。