[ Chapter11「彼と彼女と彼女の裏話」 - E ]

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 どちらを向いても、しゃれた造りの店かマンションが目につく。裏路地から抜け出したなら、そこは東京でも有数の繁華街。
 サイガが車から降ろされたのはそんな場所だった。祐子一人を乗せた車はどこかへ走り去り、土地勘どころか縁もない街に彼だけが取り残されていた。
(目的地『周辺』……クッソ、もうちょっとカーナビよく見とくんだった)
 しばらくして祐子が徒歩で戻ってきた。車を近くの駐車場へ預けてきたのだろう。
「お待たせ。やだ、そんな心配そうな顔しないで。もう着いたんだから」
「着いた、って」
「私がさっちゃんを連れてきたかった場所。さ、行きましょ」
 さりげなく絡められた腕に引かれてサイガが連行された先は、真正面にあるヘアサロンだった。ガラス張りの壁から見える店内に先客はない。派手なマーブル模様のブラウスを着た女が手を振っているが、恐らく店員だろう。
 これまたサイガには縁遠い種類の店へ、祐子は遠慮なく足を踏み入れた。
「ただいま、店長!」
「ホントに連れてきちゃったのね。あらあらさすが祐子ちゃん、なかなかいい素材じゃない」
「はぁぁ!?」
 サイガは声を上げたそばから、自分が何に驚いたのか分からなくなった。
 祐子の予想外の挨拶か、女とは思えないテノールの返答か。あるいは会話の内容か。
「もう、しっかりしてよ。これからが本番なんだから」
 目を白黒させるサイガに微笑みかけた祐子は、掴んでいた腕を放したその手で今度は背中を叩き、それから彼の正面に回り込んだ。
「実は私ね、初めて会ったときからずーっと気になってたの。その髪! 全部自己流だって一目で分かって、とにかくもったいないって思ってて」
「は、ちょっと待て、それって」
「お願い。私に切らせて。カットだけじゃなくて、カラーリングもトリートメントも全部やらせて。絶対今よりカッコイイさっちゃんにしてみせるから。もちろんタダだから。ね?」
 祐子は両手を合わせ、思い切りよく頭を下げた。強くカールした髪がバネのように揺れた。その後ろでは店長と呼ばれた人がクツクツと笑っている。
「下心ナシのお気に入りってワケね。心配いらないよ、いろいろうるさい子だけど腕は確かだ。何ならカットモデルってことにしてバイト代出したっていい」
 サイガの頭の中で天秤が揺れた。
 目の前にいる女はどうやら本物の美容師らしい。面倒も代金もなし、今なら小遣いまでついてくる。相場は知らないが恐らく破格の条件だ。
 そんなうまい話が本当にあるのか。仮にも相手は一度理性を投げ捨てて襲ってきた奴だ。それに問題は他にもある。
「ってか、いつになったら俺の質問に答えてくれんだよ」
「やらせてくれたら答えてあげる。今度はごまかさないから、絶対に」
 自分の願望を推して拝み続けていた祐子がようやく一歩下がった。
 サイガは目の前で上下する頭を、完璧に手入れされた髪を、冷たく見下ろした。
「分かったよ。……またはぐらかしたり、変な顔して襲ったりしたら、慰謝料も取るからな」
 今朝のテレビから聞いたキーワードを拝借してすごんでみたら、祐子は少しだけ気まずそうな目でサイガを見上げた。その後ろで店長が大笑いした。

 理髪店にさえもう何年も行っていないサイガにとって、女性をメインターゲットとした美容室は完全に未知の世界だった。内装もBGMもなじみがない。鏡の前に据え付けられたチェアに腰を下ろしてからは、警戒より息苦しさが勝り始めた。
「もしかして緊張してる? 変なことはしないから大丈夫。それにここはおじさまの常連さんもいるのよ?」
 祐子はサイガの首回りにフェイスタオルを巻き、その上から半透明のクロスを掛けた。それから傍らに置いたワゴンの方を向くと、薬剤らしきボトル数本とサイガの後頭部を見比べた。鏡に映る顔には営業スマイルも浮かれた調子も見られない。
「ところで、さっちゃんは私のコト何だと思ってた?」
「……誘拐犯。怪しい女」
「それだけ? えっそれだけ??」
 聞いた祐子はショックを受けたようだが、サイガには他の答えが思いつかなかった。
 文化祭の件だけ言えば「誘拐犯の仲間」になる。だが今日のこの流れも、出るところに出れば立派な未成年者誘拐になるかもしれない。そうすれば今度は主犯だ。
「まあ、わかんないか。さっちゃんは普通の人間だもんね」
 黒い器に注がれた薬剤が手早くかき混ぜられ、ハケの先端に乗せられた。
「簡単に言っちゃうと、私はさっちゃんやセンパイたちとは違うイキモノなの。違うルールでできた世界からやってきた存在。サリエル様もそう。あの死神のコもそう」
「違うルールの、世界」
「そう。私はやりたいことがあってこの物質界に来たんだけど、まだ来たばっかりの頃、トラブルに巻き込まれちゃって。そのときサリエル様に助けてもらったの」
 黄銅色の髪にカラーリング剤が乗った。見慣れた色の前髪に、影の色に包まれた頭頂部に、ゴム手袋をはめた手が違う塗り方で薬剤を馴染ませていく。
「ホントにカッコよくって。もう嬉しくて。あれがなかったら私きっと夢を諦めてた」
「だから俺の敵じゃないって?」
「私はそのつもりなんだけど」
 鏡に映った祐子が困り顔をサイガに向けてきた。彼女の手は動き続けている。立ち位置をチェアの後ろから横に移し、もみあげのラインを丁寧にハケで撫でていく。
 サイガは正面を向いたまま、薬剤の粘着力でオールバックになった自分の頭を見つめた。
「だったらなんで俺をあんな風に捕まえた?」
 ハケを握る手が大きく震え、止まった。
 一度手を引っ込め、サイガの頬についた薬剤を濡れたタオルで拭いながら、祐子はため息をついた。
「……さっちゃんを助けるためよ。信じられないでしょうケド、ああするしかなかったの」
 彼女にとって発端は文化祭の前週だという。
 ある夜、普段通り仕事を終えて帰ろうとした祐子の前に、かつての恩人であるサリエルが突然現れた。そして、いつか恩を返したいと願い続けていた彼女に依頼を持ちかけた。
「サリエル様と敵対してるグループがさっちゃんを連れ去る計画を立ててるから邪魔したい、っていう話でね。私の役目はグループに近づいて、計画を骨抜きにするコトだった」
 集団自体は目先の利益につられた者の寄せ集めで、潜り込むのは簡単だったらしい。途中でなぜか鏡の端から店長がにらみをきかせてきて、祐子は気まずい顔で話題を変えた。
「そうだ、覚えてる? あのときさっちゃん、センパイに『俺のせいで巻き込まれた』って言ってたじゃない。あれ大正解。なんでそう思ったの?」
「あいつが、サリエルがあのとき言ったんだ。狙いは俺の命だって。前から何度かヤバイ目に遭ってたし、警告もされてた。でもあいつ先輩のこと助ける気なさそうだったから、俺は結局罠に飛び込む方を選んだ。……そこまで込みで、狙い通りだった?」
「んー、そういうことになっちゃうかな」
 祐子は残念そうに言うと、ハケを器の縁に置き、手袋を外した。キッチンタイマーの操作音は次の工程へ進む合図だ。
「センパイはおびき出すための餌。でも最初の計画では、さっちゃんをあの公園に呼び出した後、その場で殺す予定だったの。あとセンパイも乱暴してから殺すって決まってた」
「は? ふざけんなよ」
「ホントそうよね。そんなこと『私たちは』許せなかった。だからちょっとでも隙を作ろうとあれこれやってたら、さっちゃんに電話かけたリーダー格の子に正体バレちゃって。それであんなことに……あ、ちょっと待ってて」
 洋楽をなぞった着信メロディが会話に割って入った。祐子は話を打ち切り、店の隅に移動して誰かからの電話に出た。
 残されたサイガは鏡越しにぼんやりと周囲を見て、なんとなく肉眼でも確かめた。同じチェアが左右に並ぶがそこに座る客は来ない。店の外を人や車が通る音もしなかった。
(やっぱり陣内先輩なんかは、フツーにこういうとこ来るんだろうな)
 文化祭の舞台上で輝いていた先輩の姿を思い起こした。
 見知らぬ男たちに捕まりおびえる先輩の姿も想像してしまった。
(何考えてんだクソ、もう終わったことだろうが。……それに、全部忘れてるはずだ)
 まともな現実で思考を上書きしようとサイガがあれこれ考えていると、通話を終えた祐子が戻ってきた。ついでに用意したのか、ティーセットを乗せたワゴンを押していた。
 淹れたての紅茶がサイガの手元に差し出された。目の覚めるような香りをまとった湯気があたりを包む中、サイガはティーカップの中を見つめ、ふとよぎった疑問を口にした。
「あのとき、そういや先輩に『本当は助けたかった』とか言ってたけど、あれも作戦?」
「ううん、あれは個人的な本音」
 祐子はキャスター付きのスツールを持ち出してサイガの隣に座った。
「私の一族は、人間の女の情欲が煮詰まって生まれた存在でね。普通は人間の男に取り入って、精力を少しずついただいて生きてるの。男を産むのも女でしょ? だから女の子は大切にしなくちゃいけないって教わったし、私も大切にしたいって思ってる」
 鏡に映った祐子のウインクを見た瞬間、サイガはなぜかめまいを覚えた。