[ Chapter11「彼と彼女と彼女の裏話」 - F ]

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「そ、それじゃウチ、何か歌うわ!」
 穂奈美が自分の口元に向けられていたマイクを奪い、立ち上がった。
 不気味な話題の余韻に染まっていた空気に少しだけ明るい色が差した。その変化に照らされた友達二人が同時にリモコンを掴み、同時に穂奈美へ差し出すと、笑いの突風が余韻を完全に吹き消した。
 こうしてパーティールームに賑わいが戻った。穂奈美のシャウトに合いの手が入り、おかわりのソフトドリンクが早速消費されていく。続けて何人かがマイクを引き継ぎ、一部ではおしゃべりも再開された。
「本音と言えば」
 連続で予約された何曲目かの後奏が流れる頃、依子が急に身を乗り出した。
「結局、まりあちゃんの好きな人って誰なのよ」
「ふえっ!?」
 まりあの手の中でグラスが指一本分だけずり落ちた。
 慌てて口の中をアイスティーで満たす間に、同席者全員の視線が集まっていた。次に歌おうとしていた友達はわざわざ曲目の予約キャンセルまで始めた。
「サイガじゃないっていうのはさっき分かったけど、じゃあ本当のところはどうなの。いい加減教えなさいよ」
「あっそれウチも知りたい」
「好きなタイプでもいいよぉ。芸能人で言うと誰かーとかぁ」
 友達の顔が四方八方から迫ってくる。ハンバーガーショップにいたときは思い出話の端から他の話題へと移ったので答えずに済んだが、今度ばかりは逃れられそうになかった。
 何をどう説明したらいいのか。たとえられそうな芸能人はいたかしら。
 まりあは考え込むうちに両手を胸の前で重ねていた。何を願うわけでもないのに祈るポーズを取った理由は、彼女自身にもよく分からなかった。
 そこへすかさず人差し指を突きつけた少女がいた。
「まりあちゃん、困ったときいつもそこ触るよね。もしかしてあのペンダントと何か関係あるの?」
「ぴいっ!?」
 思わぬ方向からの指摘に、まりあが言いかけた返答は裏返った悲鳴に化けた。
 違う学級の友達に依子が小声で説明し始めた。まりあが常に身につけているアクセサリーの存在は、体育の授業のたび一緒に着替える面々には知られていた。だが目立つようなものではなかったので、わざわざ注目まではされてこなかったのだ。
 そう、今までは。今日までは。
「否定しない。じゃあ聞かせてよ、減るものでもないし」
「その前にペンダント見せて。ちらっとしか見てないから、実はちょっと気になってたんだ」
「あ、……は、はい」
 まりあはさっき潤した口に早くも渇きを感じながら、首の後ろへ手をやって金具をたぐり寄せ、首から提げていた鎖を外した。そこからつり下がった銀色のメダルを隣に座る友達へ渡すと、すぐさま回覧が始まった。
 メダルの片側には聖女の絵姿が彫られている。
 もう片側の面には祈りの言葉が刻まれている。
(そういえば、こうやって人に見せるのは、初めてです)
 誰の肖像なのか。何語でどんな意味なのか。少女たちが口々に思いつきを並べながらリレーを続け、程なくメダルはテーブルを一周してきた。その間にまりあは期待の視線を痛いほど感じながら、話を切り出す一言を探した。
 メダルが再び持ち主の手に戻った瞬間、待ちわびたようにマイクが突き出された。
「で? この大事なペンダントは彼氏からのプレゼントですか?」
 まりあの頭の中で何かが突沸する音がした。
「ち、ち、違います! そんな、そんな関係では……!」
「ほほう。否定はするけどまんざらでもなさそうな顔。さては好きな人からもらったな?」
 追い打ちを受けて固まった頬がみるみる熱を帯びていった。
 わかりやすい反応に聞き手たちは沸き立った。誰も直接口にはしないが同じことを思い、また空気の中に同じ期待を感じ取っていた。
――さあ、聴かせろ。
 まりあは戻ってきたメダルへと視線を落とし、一度だけ深く息を吸った。
「……これは、私が東京へ引っ越す直前に、親しくしていた方からいただいたものです」
 糸口を声に出してみると、何を話せばいいのかが少しずつ見えてきた。
 目を伏せていても感じる期待の視線に、背筋を伸ばして答え始める。
「私、それまでにも何度か引っ越しをしていまして、前の場所に住み始めたのは私が中学校に入る少し前でした。その当時、その方は私達の近所に住んでいました」
「男だよね? 格好いい人? 年は?」
「え、と、はい。素敵な方です。年は少し離れていて、知り合ったときは高校三年生でした」
「小六の時に出会ったわけだから五、六歳違いか。確かまりあちゃん早生まれだよね、下手するとほとんど七?」
 質問を振った誰かが年齢差を数え始めたが、まりあの耳には曖昧にしか聞こえてこなかった。自分自身の心臓の鼓動が誰より騒ぎ立てて思考を乱していく。
「それで? 詳しくどうぞ」
「それで……最初は、慣れない土地で道に迷っていたところを、助けていただきました。その後もいろいろとよくしてくださいました。私はずっとお世話になりっぱなしで」
 優しく、賢く、気遣ってくれる。そんな人物への好意が恋心へと変わるまでに時間はあまりかからなかった。一家が土地に慣れてからは自宅周辺でたまに会う程度になっていたが、彼女はもっと会いたいとひそかに夢見るようになった。
「でも、その人は……私が自分の気持ちに気づいたときにはもう、手の届かないところに行っていました」
「どゆこと?」
「その人は高校を出てすぐ修道院に入りました。私と出会うよりもずっと前から、神様に仕える道を進路と決めていたそうです」
 仏の道を目指す者が出家して寺で修行するように、俗世を離れて祈りと奉仕の生活に入るのだという。戒律は厳しく、恋愛などもってのほか。彼の場合は教会に行けば会うことはかなうものの、その時間は限られ、以前ほど気軽に話すことはできなくなった。
 しょうがない、の言葉を口にする代わりに、まりあはため息をついた。
「だから告白しないであきらめたってこと? もったいない」
 口をとがらせたのは依子だ。異議を唱えられたまりあは小さくうなずいた。
「中学校でできた友達にも、同じことを言われました。私はそれでも良かったですが、隠すのは良くないと説得されて、一度だけ告白しました。やんわり断られましたけど」
 周囲から残念がる声が上がった。話の流れからわかりきっていても、やはりどこかで期待してしまうものらしい。
「結局その後も、その人は変わらず優しくて、勉強や部活のことで相談に乗ってくださるときもありました。でもやっぱり、それは恋ではない愛でした」
「恋のライバルは神様、かあ。でも宗教でしょ? 勧誘とかされなかった?」
「なかったです。興味のない人に無理強いするようなものではない、とは言っていました」
 素朴な疑問にまりあが答える間に、マイクが穂奈美の手に渡った。今度は音楽が始まることはなかったが、物音に反応したハウリングが全員を怯ませた。
「聞いてて思ったんだけど、結局そのペンダントを、わざわざ引っ越す前にプレゼントされたんでしょ? 本当は想われてたってことじゃないの?」
「……そう、だと、よいのですが」
 摩擦を受け続けた鎖がメダルを巻き込んで床に落ちかけた。
 まりあはすかさず鎖を捕まえて落下を阻止した。そして金具をたぐり寄せ、再び首にかける間に、話題の人の声を思い出していた。
『毎日祈るよ。神様が君の願いを心に留めてくださるようにと』
 別れの日に彼が見せた笑顔を思い浮かべただけで、頬の緊張もそこに帯びた熱も、ゆっくりと溶けていった。
(いつもありがとうございます。私は今、とても幸せです)
 金具が引っかかる手応えがあった。
 まりあは手を下ろすと、依子の方を向き、わざと意味ありげな表情を作ってみせた。
「そういえば私、堀内さんのお話をちゃんと聞いたことがない気がします。すてきな恋のお話、もちろんお持ちですよね?」
「あっ、当たり前じゃない!?」
 次の瞬間、仲間たちの視線が一斉に依子の方へ舵を切った。
 楽しい時間が再び加速し始めた。

 パーティーを終えて店を出る際、まりあは先ほどの絵画の前で一度足を止めた。
 泉のほとりで遊ぶ女の表情が、そのときはなぜか、少女たちを送り出す微笑みのようにも見えた。