[ Chapter12「Vの悲劇」 - B ]

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 炭酸飲料をベースにした緑色のノンアルコールカクテルを、サイガは三回に分けて飲み干した。その隣で篠原医師はウイスキーに口をつけ、柏木は今夜の通常営業に向けて仕込みを進めた。
 そして一息ついたサイガは身を乗り出し、まだ二つ隣に居座る歩兵の顔を覗き込んだ。
「で、何を始めるって?」
『貴様には今からこれを家に連れ帰ってもらう』
「はい?」
 聞き返されたサリエルは、視線に加えて左手で、はっきりと篠原を指していた。
『事情は今朝聞いたはずだ。この顔を見ろ。事件以来帰る家を失い、一睡もできず、放心状態で路上を彷徨っていたのだ。本来ならすぐにでも勤務先へ連れ戻すべきところだが、その前に一度安全な場所で休ませる必要がある。……ここまで話しても理解できないか?』
「いや理解ってそんな、疲れてるってのはわかるけど、ちょっと大げさすぎじゃあ?」
 サイガはカウンターの内側へ同意を求める疑問符を送った。柏木からは苦笑いと優しい問いかけが返ってきた。
「サイガくんは、事件の話は聞いたよね? K大病院の近くで女性が襲われたっていう」
「一応、ざっくりとは」
「ざっくりと、か。……篠原先生が、その被害者の女性と同棲中だった、という話は?」
「聞いたけど、えっマジ、婚約者って本当だったの」
「そう。で、事件はただいま警察が捜査中。現場を保存するために、先生のご自宅は立ち入り禁止になった。だから帰りたくても帰れない。……まあ、仮に帰れたとしても、ね」
 丁寧な説明が具体的な記憶を引き出した。アパートの一室が黄色のテープで封鎖されている様子が、テレビのフレーム付きでサイガの脳裏に浮かんだ。
「頭の中が真っ白になっていると、誰かに助けを求めることも、案外思いつかないものだから。いったん休ませるのは僕も賛成。ただ、僕は今から店を開けなきゃいけないから、先生の面倒までは見られない」
「そりゃそうだけどさ。連れて帰れって」
「君の家には静かでゆっくりできる場所があるからね。美由樹さんには僕から電話しておいた。先生の力になれるなら喜んで協力すると言っていたよ」
 柏木がカウンター越しに手を伸ばし、サイガ専用のタンブラーを回収した。その間にサイガは呑み込みきれない言葉に首をかしげ、家の間取りを指先で宙に描き始めた。だがどうしても条件に見合う場所を思いつかなかった。
 たまらず両手を掲げて降参したサイガに、柏木は「仕方ないか」とつぶやいた。
「陽介のアトリエだよ」
 数秒の硬直の後、サイガの口から重苦しい息が漏れた。
 明後日の方を向いていた篠原も同じタイミングでため息をついた。

 連れ立って店を出たサイガと篠原がビルの外に出た頃、空はすっかり夜の色をしていた。
 何故かサリエルがタクシー移動を禁じたので帰路も徒歩になった。しばらくはサイガが半歩先を行って道を案内した。彼なりに客人の体調に配慮して歩速を落とし、話しかけることも遠慮していたが、意外にも篠原はしっかりした足取りでついてきていた。
 高校の近くを通り過ぎ、道路をまたいで架かる歩道を渡ったとき、強い風が吹いた。その冷たさに身を縮めたサイガが振り向くと、篠原が気持ちよさそうに風を受けていた。
「本当に寝てないんですか。その……三日間?」
 サイガは黙っていられなくなり、正直に尋ねた。それから頭の中でカレンダーをめくって一言付け足した。
「実はよく覚えていないんです」
 力の抜けた笑い声で返された。
「横になって休んだ記憶も実感もないので、ぼーっとした状態で徘徊していたのかもしれません。でも、さっきのお酒がいい気付けになりました。たまには飲むのもいいですね」
「あんまり飲まないんですか?」
「いつ何が起きて呼び出されるか分からない仕事ですから、酔っ払う暇もないですよ」
 それが何を指しているのか、サイガは瞬時には理解できなかった。考えながらしばらく歩き、ようやく話の意味と重大さを悟ってから再び振り向くと、すぐそこにいたはずの篠原との間に距離ができていた。
 早くも気付けの効果が薄れ始めているようだった。
「……先生。篠原先生」
「あ、はい。すみません」
 篠原は疲れの濃くなった顔でなんとか笑ってみせた。サイガは歩く速度を落とし、医師の真横に並んだ。
「もうちょっとで着くんで、倒れるのはナシにしてください。ところでもう一ついいですか」
「何でしょう?」
「あいつとの……サリエルとの関係は」
 ああ、とこぼれた息が街灯の光の下に溶けた。
 黒い歩兵は今ここにいない。戻る場所は二人と同じはずなのに、何故かバーから出ようとしなかったのだ。今頃何をしているのか、サイガに知るすべはない。
「昔、助けられたことがありまして。もう二十年近く前の話です」
 白い息が年月の経過に思いを馳せる。
「そのときはそれきりで、その名前も消息も知らないままになりました。ですが、今年の九月。ちょうどあの自動車事故の直後ぐらいに、突然あのひとが、職場を訪ねてきました」
「あいつが?」
「はい。助けていただいたとき、いつか再会したら手を貸せと言われていましたから、すぐに何かあると察しました。そして私はあのひとの依頼を受け、西原さんがうちに転院できるよう手配した、というわけです」
「えっ、じゃあ、あのクズの知り合いっていうのは嘘だった?」
 サイガが疑惑を思ったまま口にすると、篠原は吹き出しそうになった息をこらえ、小さく首を横に振った。
「それが、そうでもなくて。留学中に知り合った、という話は、本当です。……ただ、当時は連絡先の交換、していなくて。私が帰国してからは、何も……ですから、西原さんの、霊体と、対面したときは……驚きました」
 裏話の内容はともかく、話の節々で何かをこらえるように奥歯を噛みしめる動作が、サイガの不安をかき立てた。タクシーを使わなかったことを後悔しながら前を向くと、似た形の住宅が並ぶ中に全く違うタイプの屋根を一つだけ見つけ、少しだけほっとした。
 古びた一軒家の玄関先で美由樹が待っていた。長男と客人が門の前までたどり着くと、母はすぐに門扉を開けてくれた。
「篠原先生! お待ちしていました。事情はうかがっています。どうぞこちらへ」
「……ご迷惑、おかけして、すみません」
「いいんですよ。先生には夫のことでいろいろとよくしていただいていますから」
 美由樹は篠原の背中に手を添え、玄関ではなく庭に誘導した。そこに鎮座する薄汚れたプレハブ小屋は、久しぶりに室内の明かりがつき、入口の簡単な引き戸から光が漏れていた。
 引き戸が開く音を聞いた瞬間、サイガは心臓に針を刺すような痛みを覚えた。
「どうぞ、一番奥のベッドをお使いください。シーツと掛け布団は新しいものを敷いてありますので」
「ありがとう、ございます……」
 篠原は多少ふらつきながらもどうにかベッドまでたどり着き、腰を下ろした。小屋の中まで彼に付き添った美由樹は長居せず、軽い挨拶だけを残して再び庭に出た。
 その間サイガはずっと庭に立っていた。小屋の戸が閉まるまではおとなしくすることを心がけていたが、母親が玄関の方へ戻ると、その足を追い抜いて母屋の中に飛び込んだ。
「サイガ、おかえりなさい」
「ただいま……」
 緊張からも寒さからも解放された今、やっとこちらに声を掛けられたことは問題ではなかった。サイガは母親の二言目を聞き流して廊下を突き進み、洗面所でこれ見よがしにうがいの音を立ててから、自分の部屋に直行しようとした。
 ところが、台所の前で待っていた美由樹が息子の行く手に割り込んだ。
「食事はもうすぐできるから。これだけ篠原先生のところに持って行ってくれる?」
 蓋付きのマグカップを押しつけられたサイガは仕方なく庭に出た。だが外の空気に触れたときに一度、小屋の前に立ったときに一度、身をすくませ立ち止まった。
(落ち着け。奴はここにいない。何も起きない)
 深く息を吸い、吐き出してから、そっと引き戸を動かしてアトリエに踏み込んだ。
 画材や箱やがらくたに囲まれた狭い空間の奥で、篠原医師はベッドに座ったまま起きていた。彼はかすかに笑いながらマグカップを受け取ると、それをベッド脇の木箱に置いてから、サイガの両手を握った。
「今日は本当にありがとうございました。あなたがたがいなければ、私はどうなっていたか」
 天井の蛍光灯がまたたき、突然消えた。
 窓から差し込む街灯の光が、握手したまま深々と頭を下げる客人を照らした。
 重なった手を、腕を、白く照らし出していた。
 やがてサイガは手のひらに伝わってくる震えに気づいた。不審に思って篠原の顔を覗こうとした瞬間、急に右腕を引き寄せられ、直後に鋭いものが前腕に突き刺さった。
「……は?」
 何が起きたのか、サイガには理解できなかった。
 肌を舐められる感触も熱い吐息も、歯を押し当てられた筋肉の痛みも、ただ進行する事実としてしか認識できなかった。