[ Chapter13「逃げるは楽だが苦にもなる」 - A ]

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 待機と沈黙を含めておよそ一時間の事情聴取が終わった。
 サイガを取調室から正面玄関まで案内してくれた藤井刑事は、道中で先輩の言動について何度も謝っていた。余計な、しかも言いにくい話までさせられたサイガが気分を害したのではと思ったらしい。
「稲瀬さんが言ったことは、本当に、気にしないでください。焦っているだけですから」
 そこまで深刻に考えていなかった当事者は、大丈夫だと言うしかなかった。
 彼に見送られて正面玄関を抜けた後、サイガの目にまず留まったのは、駐車スペースから出されて発進を待つ一台の車だった。しかしタクシーではない。ワインレッドの普通乗用車の脇に、手招きのような仕草をする祐子がいた。
「そちらも終わったようですね」
 問題の車の向こう側から篠原が顔を出した。
「篠原先生! じゃあ、そっちも」
「おかげさまで疑いは晴れました。ご心配をおかけしました」
 頭を下げる医師の顔色は署に着いたときと大差ないものの、表情はいくらか和らいだように見えた。
 サイガもつられて口元を緩めた。だがすぐ真顔に戻った。
『この地に用が無ければすぐに乗車しろ』
 黒一色の重武装をまとった兵士が、突然サイガの真横に現れたのだ。
 分厚い手袋をはめた左手がワインレッドの車に向けられると、助手席のドアがひとりでに開いた。それを見た祐子は篠原に後部座席を勧め、彼女自身はいそいそと運転席に乗り込むと、車内からサイガに目配せしてきた。
 乗れと言われている。それも座る席を指定されている。
 サイガは迷うことなく宣言した。
「乗るわけねーから。俺は一人で帰る」
 黄金色の眼光がサイガを射貫いた。
 その瞬間から首輪が急速に縮み始め、サイガは自分の首元を押さえながら大きくよろめいた。首輪の内側に指先を挟もうとするもうまく入らない。呼吸と血流を遮られた顔は真っ赤に染まり、口からはうめき声しか出なかったが、今回の彼は両足に力を込めて抵抗を続けた。
 長い攻防の末――実際には一分にも満たなかったが――サリエルが呆れ顔で左手首をひねり、首輪は元の幅に戻った。窒息を免れたサイガは再びよろめき倒れかかったが、なんとか踏みとどまった。
『何故そこまで頑なに拒む?』
「そこまでって、そりゃ俺のセリフだ」
 踏ん張るために前へ出した一歩で、サイガは歩兵に背を向けた。そして深呼吸で意識と体幹を引き締めると、次の一歩で車の前方、駐車スペースの出口へと走り出した。
 悲鳴のような声がした。続いてヒールの駆け足が追いすがるようにアスファルトを叩く音が聞こえたが、数歩も行かないうちに届かなくなった。
 その後は歩道をしばらく道なりに、大きな車道に出てからは車が多く流れている方向へ進んだ。あの威圧的な声は追ってこなかった。
(お、なんか普通に逃げ切れた?)
 赤信号には素直に従った。呼吸を整えたサイガは、これから向かう先の手がかりを求めて交差点の周辺を見回した。
 知らない町だった。夜だから方角も分からない。
「せめて駅がどっちか分かれば……」
「駅まででいいの?」
 落ち着き払った声と同時に、サイガの首筋に冷たい風が触れた。
「ひっ!? ……なんだ、アッシュか」
「さっきのやりとり見てたけど。一緒にいちゃいけない、危険だなと思ったらすぐ離れる。それ大正解」
 黒いブレザーの少女がサイガの横に立ち、白い手を静かに振りながら笑っていた。
 サイガも少しだけ笑い、首筋の寒気が引いてくると大きく息を吐いた。
「それで、最寄り駅まで案内したら、そこからは一人で帰れるのね?」
「どこの駅かは知らねーけど多分?」
 しかし、上着の外ポケットに両手を突っ込んだ直後、サイガの楽観は冷えて止まった。
「……いややっぱダメだ。財布がない」
 当然と言えば当然の話だ。ここまで来たのは完全に成り行きで、そもそも本来は家の前で見送る予定だったのだから、出かける準備などしていなかった。往路のタクシー代は恐らく篠原が払ったのだろう。
 幸い携帯電話は持っていた。問題の解決法に気づいたサイガは、すぐにそれを取り出してショートカットキーを押し、端末を耳に当てながら青信号の横断歩道を渡り始めた。
「母さん? そう、サイガだけど、さっき警察出て……」
 そして脇目を振った先に、あるものを見つけた。
 片耳で母親の声を聞きながら、頭はそれを無視して、全く違うことをひらめいた。
「……悪い、また後でかける!」
 サイガは迷うことなく電話を切り、方向転換した。横断歩道を途中で外れ、その手前で一時停止したタクシーの正面に躍り出たのだ。
 突然人間が飛び出してきたからだろう、運転手は目を皿のように開いていた。しかし携帯電話を掲げた片手に気づくと、《空車》表示のタクシーは自動ドアを開けた。
「サイガ!? いきなりどうしたの!?」
 客を迎えたタクシーがドアを閉めた直後、アッシュが窓をすり抜け車内に飛び込んできた。そしてサイガの隣に腰を下ろすと、ルームミラーに映る運転手の困惑した顔をにらみつけた。
「まだ発車しないでね。彼はお金を持っていないから」
「ちょっと待てアッシュ、余計なこと」
「あ、あのー……」
 口論に火がつく寸前、運転手がシートからこわごわと身を乗り出し、振り向いた。
 その顔を直視したサイガはまばたきを忘れ、車の内装を見回し、息を呑んだ。
「さっき俺たちを乗っけてくれた人!」
「……ご自宅まで戻られるということでよろしいでしょうか?」
「あっはいそうしてくださいお願いします」
 話がまとまると運転手はほっとした様子で座り直し、とっくに信号が切り替わっていた車道を走り始めた。その際の小さな揺れに合わせてサイガも姿勢を正し、それからシートベルトの存在を思い出して装着した。
「停車中でも車の前に飛び出すなんて危険すぎる。それにさっきお金ないって自分で言ってたじゃない」
「良い子は真似すんなよって話だろ、分かってる。金の話はよく考えたらアレだ。これから家に帰るんだし、だったら着いてからなんとかすりゃいいんじゃないかって」
「つまり母親の財布を当てにするつもりなのね」
「そっちは厳しそうだから頼るならじいちゃんかな」
 死神は口を開けたまま黙ってしまった。
 先ほどより夜が深まった町をタクシーが静かに走る。警察署の最寄り駅を通り過ぎ、小規模な飲み屋街をかすめ、やがて幅の広い市道に入った。
 復路のドライブは往路よりさらに会話がなく、赤信号による一時停止も少なかった。まさしく順調。サイガは安心してシートベルトに背を預け、眠気さえ感じ始めていた。
 しかし良い気分は突然吹き飛んだ。
 車がモノレールの高架下をくぐった直後、突然アッシュが運転手に停車を求めたのだ。
「あなた、本当はどこへ行きたいの?」
「行先変更ですか?」
「とぼけないで。さっきから後ろの様子をちらちらと見ていたでしょう。何かを期待するように」
 運転手の肩と帽子が小さく跳ねた。
 その反応に違和感を覚えたサイガは、シートベルトを掴んだまま前のめりになって、透明のパネル越しに運転席を覗き込んだ。
 ダッシュボードにカーナビの画面が見える。表示されている車の進路は、機械がはじき出した目的地までのルートから外れようとしていた。
「サイガが眠るのを待って、それからどうするつもりだったの」
 ハンドルを握る手が震えた。
 それをアッシュはどう解釈したか、さらに何か言いかけた。ところが言葉の続きは別の声によって払いのけられた。
『もう良い。繕うな。指示されているもう一つの目的地へ向かえ』
 いつの間にか助手席に黒ずくめの歩兵が座っていた。
 車内の前後を隔てるパネルの前で、サリエルは運転手のこわばった横顔を見つめた。
『悟られていないとでも思ったか。過去の一件に関して脅迫され、我輩の命令と相反する指示を受けていたのだろう?』
 対向車のヘッドライトが車内を照らした。
 運転手は青白い頬を震わせていた。
 サイガはシートベルトの力で座席に引き戻された。
『改めて命じる。行き先を変更しろ。貴様を脅した人物の元へ我々を運べ』
 数秒の沈黙の後、タクシーのブレーキランプが消えた。