[ Chapter13「逃げるは楽だが苦にもなる」 - B ]

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 自転車を押して歩いていたひなぎくが前触れなく足を止めた。ブレーキの衝撃が荷台を伝い、後ろにいるウィルをも立ち止まらせた。
 小さなヘッドライトが数メートル先の電柱をぼんやりと照らしている。その周囲はひどく暗い。
「……そんな……」
 白い吐息に続けて誰かの呼び名がつぶやかれたが、ウィルには聞き取れなかった。
 尋ねる間を与えずひなぎくが走り出した。ダッシュはほんの数秒。二軒先にある一戸建ての家の前でハンドルを切り、わずかに開いていた門から敷地内に入ると、引きずられるようについてきたウィルに自転車を押しつけた。
「すみませんが、そちらの一番奥に停めておいてください」
 そして彼女は玄関に立ち、震える手でバッグの中を探り始めた。
 ウィルは指し示された方向へ自転車を押して運んだ。そこは住宅の真下に設けられた車一台分の駐車スペースで、先客はなかった。隅に停めた自転車に施錠してから振り向くと、ちょうど玄関扉が開いたところだった。
「ありがとうございます。どうぞ、あがってください」
 ひなぎくの優しい声に嘘の色はなかったが、わずかな焦りは漂っていた。ウィルは鍵を持ったまま先輩の誘導について行った。
 その住宅は外観も内装も町中で見かける、正確に言うと新聞折り込みのチラシなどでよく目にする、ありふれた新築一戸建ての姿をしていた。もしウィルが以前この辺りを歩いていたとしても特に気にしないか、視界に入りさえしなかっただろう。
 だが玄関に一歩足を踏み入れた瞬間、彼は悟った。
(力が……天より与えられた栄光が、満ちている)
 一見平凡な敷物やタペストリーには不可視の仕掛けが織り込まれ、靴箱の上に飾られた置物は体内に何かを隠している。靴を脱いで上がった廊下の先にも同様の気配を感じた。あらゆる家財道具が共鳴し、家一軒を丸ごと包む頑強な結界を常に維持していているらしい。
(ここが、守護天使の前線基地)
 客人が考察する間にひなぎくは洗面所で手洗いとうがいを済ませ、ウィルにも同じことをさせてから、廊下の終点にある扉を開けて彼を中へ招いた。
 広い部屋の中央にダイニングテーブルが置かれ、その上に広げられた道具を痩躯の男が真剣に見つめていた。他には誰も見当たらない。
 ただいま、の一言が言い切られる前に、男が顔を上げた。
「おかえりなさい、『ひなぎく先生』。お疲れのところ悪いけど留守番代わって」
「スミレさんに何かあったんですか」
「もう感づいてたか。まあ、そんなたいしたことじゃない。手が空いてる奴らで例の件にあたってたら、あいつが大当たりを引いたらしいんで、今から応援行ってくる」
 男はひなぎくにだけ分かる言葉で状況を説明しながら、両手の指すべてにはめていた銀の指輪を一つずつ外していった。そしてテーブルの前に駆け寄った彼女にそれらをまとめて握らせた。
 ひなぎくは返事をしなかった。玄関の方へ出て行く男を見送ると、バッグを静かに足下へ起き、渡された指輪を自分の指に通し始めた。
「ウィルさんはそちらでお待ちください。本当は温かい飲み物でもお出ししたいところなのですが、時間がなくなりそうです」
 十本の細い指に繊細な装飾の施された指輪が並んだ。
「私達はこの家を拠点に、地域の皆さんの暮らしを陰から支える活動をしています。役割や活動時間はそれぞれ違っていて、普段は常に数名がこの家で休んでいます」
 テーブルの端に水を張ったガラスのボウルが置かれていた。
 指輪を装着した手指が水に浸されると、ボウル全体が青白い光を帯びた。テーブルに反射した光は波打つように天板全体へと広がっていった。
 両手を清めたひなぎくが指先を天板の上に置く。すると指からしたたる水滴がたちまち細かなしぶきへと変わり、光を帯びたまま空中に整列を始めたかと思えば、テーブル上に何かの輪郭を描き始めた。
 ウィルはテーブルの脇に立ち、奇異なものを見る目で展開を追った。しかし光の粒がまとまった形を成してくると、その意味に気づいて目を見張った。
 星屑を集めたような線が、彼らのいるニュータウンの全体図を作り出していた。
「今日のように応援要請があるときなども、一人は必ずここに残る決まりになっています。仲間の提案や状況、敵の動きなどを全員に伝える、連絡係として」
 幼稚園での打ち合わせを思い起こさせる丁寧な説明の後、ひなぎくは両手を広げ、手のひら全体を天板に置いた。すると光の糸で組まれた立体地図に異なる色の輝きが灯った。
 青白い銀河の中に赤い星団が生まれた。地図上ではとある高台の上に赤が密集している。さらに同色の点が他の場所にも現れ、星団に向かって水平移動を始めた。
「ここでクイズです。他と違う色は何を表しているでしょう」
「……敵の位置ですか」
「うーん、だいたい正解です」
 わざととぼけた声を出すひなぎくの背後にも青白い光が集まり、目に見えない翼に星屑の線で輪郭を与えている。
 ウィルはテーブルの反対側に回り込むと、地図に触れないよう慎重に顔を近づけた。赤色の星々はやがて一つの光源にまとまり、高台を作る青白い星を取り込み始めた。
「私達はそれぞれの職務に励みながら、この世界に害をもたらす存在を常に警戒しています。悪魔はもちろん、彼らの影響下に入ってしまった人間たちも。特にこの密集している位置には彼らが作り出した結界があるようです」
「つまり、要注意人物を追跡して監視するシステムが」
「いいえ。これは今まさに外出している皆さんから送られてきた情報です」
 予想と異なる返答にウィルは落胆を抑えきれなかった。
 この拠点に何名の守護天使が所属しているかは分からないが、住宅のサイズを考えたなら決して多くはないだろう。その程度の規模で総動員をかけたところで見張れる範囲は限られているし、他の拠点と協力するにしても一瞬で隊列を作れるほどではなさそうだ。この高台に軍団が押し寄せてきたらどうするつもりなのか。
 とはいえ、注意すべき数が多いと見張りにも技術が要る、という現実を彼は一応知っていた。不利な陣形で突き進むには限度が多い。教官に何度も言われてきた。
(何かがおかしい。ここは本当に前線なのか)
 天の軍勢は知識も技術も手駒も充分に備えている。危険の種を監視する方法などいくらでも編み出せそうなのに、わざわざ非効率的な手段を選ぶなんて。
 あたかも人間に職務を丸投げしたような布陣を置くなんて。
(もしこれを「我らの主のご意向」と称しているなら、真の目的は何だ)
 ウィルの額に暖かい人肌が触れた。
 反射的に上半身を起こしてから、彼は感触の正体がひなぎくの手の甲であること、立体地図に顔を近づけすぎて止められたことに気づいた。
「真剣に考察してくださってありがとうございます。ですが今は見ていてください。私達のやり方を」
 ひなぎくは後輩を小突いた手を地図上に戻し、高台に接している赤い光の一つに触れた。するとその一点だけが音もなく浮き上がり、真上の空間により強い光を放射した。
 顔を上げたウィルはその光の中に、ごく短い映像のようなものを見た。
 一台の普通乗用車が上り坂を走り抜けていった。背景には高台を覆うコンクリートの壁、そしてその上にあるらしい共同住宅の建物が映り込んでいた。
「今のは」
「ついさっき敵の結界内に入った個人タクシーです。これについて気になる報告がありましたので、目撃した仲間の視覚情報を共有しました」
「共有……」
 ウィルは目を閉じ、立体映像のような記憶を振り返った。数秒のこと、しかも光源を直視してまぶしささえ感じたのに、自分のまぶたの裏に置くと何故か鮮明に思い出せた。
 運転手の他に、乗客が三名。そのうち一名は見知った横顔、隣の一名にもどこか見覚えがある。もう一名は姿というより影だったが、映像と同時に受け取った禍々しい気配の残滓はよく知っているものだった。
「……どうして、ここに」
「彼らをご存じなんですね?」
 問いかけたウィルは固有名詞で答えた。それからショルダーバッグに隠し持っていた教官の日記帳を取り出そうとして、拒否を表す片手のサインに止められた。
「こちらでも確認しました」
 ひなぎくがテーブルに向けて語りかけた。
 両手の指に並ぶ銀の指輪が返事をするように青白く光った。タイミングも明滅のリズムもまちまちだった。
「堕天使とされるサリエル。そして先日通達のあった“保護対象者”一名に間違いないそうです」