[ Chapter13「逃げるは楽だが苦にもなる」 - C ]

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 良く言えば、ニュータウンが作られた頃の面影を今に伝える。
 言い換えれば、改装も手入れもされず老朽化が進んでいる。
 そんな古い集合住宅の敷地内に入っていったタクシーは、建物群の外側を半周ほど走り、入り口から見て最奥の位置で停車した。
『動くな』
「降りてください」
 助手席と運転席からほとんど同時に声が上がった。
 サイガはどちらの発言も今ひとつ聞き取れなかった。直後に自動ドアが開くとつられて降りようとしたが、よく見ると、ドアの操作をした運転手が隣を見てひどく怯えている。うかつに動いてはいけない状況と察して足を止めた。
 エンジンを止めた車の周囲は静かで暗い。後部座席から振り向けば、街灯と数少ない窓明かりがあるものの、それらが照らすのは駐輪場の壊れた屋根ぐらいだった。
「サイガを車から降ろして、その後は?」
 アッシュが生徒手帳サイズの情報端末を開きながら尋ねると、運転手は一層縮こまった。
「い、言われたのは、そこまでで……」
『ならば従う必要はない。まだ動くな。そしてドアを閉めろ』
 すぐに自動ドアが閉まった。真冬の外気にさらされていたサイガは、慌てて足を引っ込め、鳥肌が立った腕をさすりながら一息ついた。
「ここ、なんか気味悪いっつーか、息苦しい感じがするんだけど。文化祭のときみたいな」
「文化祭の最中にあなたが女性を助けようとして逆に捕まった事件?」
「ひでえ言い方された」
 アッシュの解釈は間違っていない。しかし重要な要素が抜けている。犯人グループの本来の狙いはサイガで、他の被害者はみんな巻き添えだった。接点がなければ怖い思いなどしなくて済んだのだ。
 ちょうど今、運転席で震えている人物も、同じと言えば同じかもしれない。
「なあ、もしかして、また俺なのか。狙われてる、殺されそうになってるって、二人とも前に言ってたよな?」
 問われた死神は視線をさまよわせた。
 助手席にいる歩兵は振り向きもうなずきもしない。
「桂が俺のとこに来たのはあのクソ野郎のせいで、俺が危ない目に遭ってんのは桂と関わったからで。でも関わったから殺されるって何だよ。映画かよ」
 運転手は既に顔を背けている。
 サイガだけが、怒りに声を震わせ、思考を覆い尽くそうとする混乱と闘っていた。
「なんでこんな面倒なことになってんのか。いい加減俺にも分かるように教えてくれ」
『いつまでゴタゴタやってんだよお!』
 答えたのは車内にいる誰でもなかった。
 タクシーに積まれている無線通信のスピーカーから、ノイズ混じりの耳障りな怒鳴り声が発せられたのだ。
 とっさに身を引いて両耳を塞いだサイガを、助手席のシート脇から黄金色の目が見下ろした。
『構うな。雑魚だ』
 重みのある低音の一声は、音を拒否しているはずの耳に問答無用で入ってきた。
「この期に及んで何を言い出すかと思ったら」
 すぐにアッシュが口を挟んだ。
 サイガは歩兵の反応をうかがおうと顔を上げた。しかし正面を向いた直後、全く別のものに目を奪われ、いらだちも反発も忘れてしまった。
 フロントガラスの前方に誰かがいる。
『動機も手段もあると言ったな。ならば説明してみせろ』
 いつからそこにいたのかは分からない。
 その存在にサイガが気づいたときには、タクシーのヘッドライトの光がようやく届く程度の距離が開いていた。しかし、その特徴を捉えようと注視する間に、それは少しずつ近づいてきていた。
 おぼつかない足取りでこちらへ歩いてくる。
『死者の魂を奪い、その行方を知る骸を隠し、我輩が何を為そうとしたか。答えろ』
 どうして近づいてくるのかは分からない。
 ヘッドライトの強い光を跳ね返した姿はとてもまぶしく、目を細めてやっと直視できた頃には全身が照らされていた。体つきは女性のものに見える。子供ではなさそうだった。
 腕や肩の揺れ方もぎこちなく見える。
『答えられないか。当然だ。……死せる者が囚われたなら、それが何某かの寵愛でも受けていない限り、まず冥府の役人が動く。しかもこの地域だ、貴様にはすぐに連絡が入ったはず』
 一目では違和感の理由までは分からない。
 サイガは耳を押さえる両手に力を込め、それでも入ってくるサリエルの声を懸命に無視し、着実に近づいてくる謎の人物に注意を集中させた。光に塗り潰されていた様々なことが次第に判断できるようになってきた。
 たとえば服装。少し外気に触れただけで身震いする寒さの中、防寒具どころか上着さえも着ていない。
 たとえば表情。ヘッドライトという強力な光源が視界に入り続けているはずなのに、目元や眉間が少しも動かず、口元にも変化がない。
『まだ解らぬか。棺荒らしの狙いの一つは貴様の介入だ。改めて我輩を糾弾し、西原彩芽を取り上げるべく乗り込んできたのだろう。だが言っておく、それを解き放つことで喜ぶのは冥府だけではない』
 人形みたいだ、とサイガが思ったその時。
 不自然に揺れながら近づいてくる動きが止まった。
 その人物は車のボンネットのすぐ手前にたった。
 下からあおるように照らされる顔は、最近どこかで見たような気がした。
「そんな……!」
 耳を封じていた指先がアッシュの悲鳴に揺さぶられた。
 サイガは思わず手を下ろして隣を見た。
 死神の横顔は直前の声とは裏腹に落ち着いて見える。彼女は情報端末を握りしめ、画面に表示された文字列を読んでから正面を見据えた。
「あなたの説明には納得してないけど、あれを見て分かった。今回は確かにあなたじゃなかった。盗んだ魂を利用するにしても、こんな使い方はさすがにないわ」
 助手席からため息が聞こえた気がした。
 車の正面には謎の人物がまだ立っている。まばたきひとつしないで車内をじっと見つめていたが、よく見るとわずかに震えているようだった。
「まさかここまで予想していたからドクターを置いてきたなんて、言わないでしょうね?」
 フロントガラスに一瞬だけ天然色の残像を見た。
 サイガの頭の中である名前が浮上すると、電光の早さで記憶が結びつき、残像の正体を突き止めた。答えが導かれると無意識にそれを口に出していた。
「……高峯、薫……あれが……」
 見ればその顔はテレビで紹介された卒業写真の人に似ていた。
 見るほど常識外れになる光景がサイガの背筋を凍りつかせた。
「惑わされないで。あれは抜け殻。生き返ったわけじゃない」
「え?」
 サイガが聞き返したとき、灰色の髪の死神は運転席と助手席の間を飛び越え、いつの間にか車外へ飛び出していた。ボンネットの上を軽やかに跳ねてから着地したのは、立ち止まっている人物のすぐ隣。肩を並べるとすぐに手を動かし、用意していた黒色のリボンでその人物を縛り上げてしまった。
 時間にして十秒にも満たない捕獲劇だった。
 そして死神は捕らえた女性に何かを語りかけ――鈍器を振り上げた姿勢で肉薄する誰かに、背を向けていた。
「アッシュ!!」
 叫ぶと同時に身体が動いた。
 サイガは後部座席のドアを内側から手動で開け、シートベルトを外し、ほとんど真横に跳ぶような一歩目で外に出た。二歩目でバランスを取り、三歩目でドアの横へ回り、車の前へ出るべく駆け出した。
 そのつもりで動いていた。
 筋肉は反応していた。
 しかし四歩目を踏み出す瞬間、誰かに左腕を強く掴まれた。驚きと痛みに気を取られた隙に、続けて右肩と脇腹、さらに右手首をそれぞれ別の手に握られていた。
 足が空振りを経て止まったとき、サイガは背後から三人がかりで取り押さえられていた。
「クソ、何すんだ、離せ!」
 振りほどこうと肩を揺らしながら首を回し、相手の顔を見た途端に思考が止まった。
 不自然にこわばった顔。
 化粧を施された顔と土気色の首元。
 右手首に感じる冷たさ。
 何故か脳裏をよぎったのは、水泳部の夏合宿中に見たB級ホラー映画の一場面だった。