[ Chapter13「逃げるは楽だが苦にもなる」 - D ]

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(落ち着け俺。こいつら普通に人間だし。ゾンビなんているわけねえし)
 季節外れの連想は振り払えたが、掴んだ手の方はサイガの抵抗を全く受け付けなかった。
 腕をねじっても腰をひねっても、取り押さえる力は緩まない。それどころか三人分の手指それぞれに尋常ではない力が込められていて、神経の絶叫と骨のきしむ音が今にもまとめて口から飛び出しそうだった。
(痛い、潰れる、やべーよ、これ、骨折れる!?)
 対抗するように歯を食いしばった、その時。
 目の前のタクシーが突然クラクションを鳴らした。
 サイガは音の衝撃に鼓膜を殴られ大きくよろめいた。なんとか持ち直し、何事かと顔を上げた直後、開いたままだった自動ドアの内側から黒い物体が飛んできた。とっさに伏せようとしても首しか動かない。目をつぶって顔をそらすのが精一杯だった。
 雪玉が壁に当たるような音が間近に聞こえた。それも続けて三発。
「うお危ね……っ?」
 自分に当たった感触がない。サイガは疑問に思ってから、上半身をのたうつ痛みが少し引いたことに気づいた。
 さっきと同じように振り返れば、動く屍にしか見えなかった顔に泥のようなものが貼りついていた。そして常人離れした握力による拘束は明らかに緩んでいた。
 直感が思考より先に両足を動かした。
 サイガは走り出していた。タクシーの前を横切り、奇襲に反撃する死神を視界の片隅に入れ、集合住宅が建ち並ぶ方向へ。
「あ、こらフザけんな、待てえい!」
 どこかの暗がりから聞こえた声に、複数人の足音が続く。それが追っ手の駆けつける音と察したサイガは、等間隔に並ぶ建物の間の通路に迷わず突入した。
 住人が少ないのか朝型が多いのか、日付が変わる前なのに窓明かりはまばらだった。追っ手の他に騒ぐのは北風ばかり。助けを求めて叫んでも反応は期待できそうになかった。
 全力で逃げる以外に手を思いつかない。
 しかも最初は勢いに任せて建物の端まで突き抜けるつもりだった。ところが前方にも誰かの影を認識し、挟み撃ちという言葉を思い出すと、一番近くの階段を駆け上がった。
 幸い底は二階の通路から建物の裏側へ通り抜けが可能だった。進行方向に見つけた別の階段を二段飛ばしで駆け下りる頃、後方の足音は少しだけ遠くなっていた。
「いたぞ!」
「待ちやがれコノヤロー!」
 後ろに加えて横からも、いかにも柄の悪そうな男の声が飛んでくる。
 サイガは正面に見える次の階段を一段飛ばしで上った。集合住宅の各棟は全く同じ構造をしていたので、同じコース取りで軽々と二棟分を通り抜けられた。
「ナメてんのかクソガキぃぃ!!」
 数えて四棟目の階段を上りきったところで一瞬だけ背後を見ると、追っ手は三棟目を下りてくるところだった。左右から応援が現れる様子もない。
 そのまま立ち止まることなく前方の階段を下りたサイガは、もう一度周囲に怪しい者がいないか確認した。そして次の建物との間を隔てる通路は使わず、階段の手すりを支点にUターンして、階段の裏側に空いたスペースに身を隠した。
 疲労のにじむ足音が立て続けに階段を駆け下りていった。
 幼稚な怒号とワンパターンの罵声が遠ざかっていった。
(行ったか……?)
 サイガは階段の真下にうずくまり、右手で鼻と口を覆い、息を潜めた。
 一度やり過ごせても油断できない。誰かが廊下や通路に立ち止まっていてもおかしくなかったし、先へ進んだ男たちが獲物を見失ったからと引き返してくるかもしれなかった。
 もし一人に見つかればすぐ仲間が集まってくるだろう。
 安全を確かめたくてもうかつに動けない。
 どんなに寒くてもくしゃみ一つできない。
(……しまった、体冷えてきた)
 運動で溜まった熱を外気が遠慮なく奪っていく。身震いに誘われるように、先ほど掴まれていた腕やら脇腹やらが交互に痛み出した。
 サイガは音を立てないよう慎重に右手を下ろし、最初に握られた左手に触れてみた。袖の上から指先で軽く押しただけで、鈍い痛みが腕の周りを包んだ。
 右の手首と肩、両脇腹も似たような反応だった。骨は無事だが内出血はほぼ確定。今頃あちこちが青黒く染まっているだろう。
 自分の状態を確かめてから、ため息の分まで空気と唾を呑んだ。
(もしかしなくても、これってバッチリ青アザ残るやつ? うっわ、ダサすぎ!)
 ここでは服を着ているが、いずれ脱ぐときが来る。明日は部活があるのだ。温水プールで水着に着替えても隠し続けられそうな箇所は一つもなかった。
 一方、気まずいのが部活だけでよかった、という発想もサイガの頭をよぎった。
(殺し屋がこれ見たら何言い出すか。あいつ変なとこで想像力凄すぎだから……)
 そんなことを考えるうち、ふと全く違う問題にスポットライトが当たった。
 高校入学以来、彼が生活指導の小森谷先生に手や肩を掴まれた回数は十や二十では済まない。抵抗すればさらに強く押さえつけられたし、一緒に登校した友達から強引に引きはがされたこともあった。
 とはいえ、正直な話そんなに痛くはなかった。
 抵抗している間はもちろん多少の痛みを伴う。まとわりついてくる指のねっとりした熱は不快極まりなかった。しかし手を離されたらそれまでで、後には汗くらいしか残っていなかった。
 つまり、先生は人を取り押さえるための適切な力加減ができていた。
 対してさっきの三人組には加減する気などまるでない、ありったけの力を込めているような感触があった。何が彼らをそうさせたのか。そしてどこからあんな握力を出せたのか。ちらっと見た一人の顔色や首回りは、筋肉自慢の人間とはほど遠かったのに。
 考えたところで分かるはずもない。
 疑問を放り出したら、思考の片隅にB級映画の場面が戻ってきた。
(理性もクソもねーから手加減もなしってか。いやいや、そんなわけないない)
 あらすじもろくに思い出せない物語を再び頭から追い出す。
(……そういや、もしあいつらに捕まりっぱなしだったら、俺どうなってたんだろう)
 骨折まで行ったかどうかではない。その後の扱われ方は。
 思った直後にサイガの背筋を冷たいものが走った。そこから全身に広がる寒気が冬の夜風のせいなのか、恐怖心が震えたからなのか、彼には区別できなかった。
 それから彼は考えることそのものをやめた。
 ただ耳をそばだて、息を殺し、あの男たちが再び近くを通らないよう願った。
 しばらくして静寂の中に一人分の足音が入ってきた。それは遠く敷地の端から建物間の通路に入り、その途中にある階段へと着実に近づいてくるように聞こえた。
 まさかあの正体不明の男たちの仲間か。
 遅い時間に帰ってきた住人なのか。
 階段の陰から覗き込むわけにもいかないので、子供のようにうずくまって時を待った。
(頼む、このままスルーしてくれ……!)
 足音は同じリズムを刻み続け、まさにサイガが隠れている階段の前へ来ると、それを一段ずつ数えるようにゆっくりと上り始めた。十二歩まで重ねたところで音の響き方が少し変わった。中二階に並ぶ郵便受けの前で立ち止まったらしい。
 そして衣擦れの音がしたかと思うと、
「もしもし」
 男の声が誰かに語りかけるように発せられた。
 サイガは一瞬だけ身構えたが、すぐに落ち着きを取り戻した。こんな場所で独り言を始めても奇妙にしか見えないが、その手に携帯電話があるなら話は別だ。
「そちらにいらっしゃいますよね?」
 優しく問いかける声が階段の下に反響した。
 二言目はサイガに抵抗どころか隠れていることさえ忘れさせそうになった。というのも、それは間違いなく知っている声だったからだ。
(篠原先生……!)
 うっかり返事をしそうになって口を塞いだ、その声が漏れたのだろうか。篠原はクスクスと笑ってから大きく息を吐き、見えない相手との会話を続けた。
「状況はうかがっております。今回の一連の事件に関して、責任は私にあります。あなたを巻き込まないようにするには、たとえ心配や不信感を招いたとしても、もっと早く本当のことをお話しするべきでした」
 一歩分だけ引き返す足音がした。
 それからちょうど三秒後、階段の手すりを超えてその脇に、何かが降ってきた。