[ Chapter13「逃げるは楽だが苦にもなる」 - E ]

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 階段の裏側を見上げていたサイガはその瞬間を音だけで知った。しかし何が落ちてきたのかは音がした方を向いてもよく分からなかった。
「いいですか。そこに、あなたの目の前に、私の上着があるはずです」
 言われてから目をこらし、ようやくそれが丸められた厚手のコートだと気づいた。
 サイガはうずくまった姿勢から重心をゆっくりと前に動かし、階段に頭を打ちつけないよう注意しながら、暗い色のコートに手を伸ばした。誰かに姿を見られないためにはそうするしかなかった。
 どうしてここに来たのか、聞きたくても訊けない。
 ここで何を目撃したのか、教えたくても言えない。
 コートの裾を掴んだサイガが素早く身を引き、再び階段の下に隠れる間に、篠原の声が再び聞こえてきた。
「私が皆さんの注意を引きます。その間にそれを着て、すぐに逃げてください」
 途中からはほとんど声色を乗せない小声の指示に変わった。
「上着があったところを見てください。その方向に、壊れた鉄条網があります。それを乗り越えて真っ直ぐ進めば、ここまで来た時に上ってきた坂道に出られます」
 サイガは指示された方向を確かめるついでに周囲の様子をうかがった。一度だけ建物の端を誰かが横切ったぐらいで、こちらへ向かってくる人は見えなかった。
「動き出したら、決して立ち止まってはいけません。後ろを振り返ってもいけない。坂の下で祐子さんが待っています、それまでは逃げ切ることに集中してください。……では」
 少し間を置いて、足音が階段から遠のく方へと動き始めた。電話を切ったのだろう。
 余計に思える指示を疑う暇も、おとりになるとの宣言に戸惑う猶予も、もうなかった。
 やがて階段を勢いよく駆け下りる音がわずかに聞こえてきた。それがやまないうちに、別の物音と誰かの声が階段の上の廊下に反響した。
「いたぞ! お前ら早く回り込めぇぇ!」
 鬼ごっこが再開されたらしい。手分けしてサイガを探していたらしい人々が一斉に走り出し、同じ方角へ遠ざかっていく様子が、音だけでもよく分かった。
 サイガは暗がりの中で慎重にコートを広げ、手探りで袖を通した。表も裏地もこれまで触れたことのない上品な手触りで、しかも直前まで篠原本人が着ていたのだろう、人のぬくもりが冷えた体を心地よく包んでくれた。
 コートのボタンを閉じ、襟元を整えた頃には、階段の周囲は完全に静まりかえっていた。
(先生も、ちゃんと戻ってくるよな……?)
 意を決したサイガは階段の下から這い出した。そして大きく息を吸うと、篠原が示していた方向へ走り出した。
 残っていた体力と気力をあるだけ注ぎ込んだ。
 重傷ではないと分かった上半身の痛みは努めて忘れた。
 速度を上げながら前方に目をこらすと、集合住宅の敷地を囲む人工林が見えてきた。古びたアスファルトの道路と湿った落ち葉が積もる土、色の違う二つの領域はさびた鉄条網で区切られていた。
 ところが「壊れている」と言われた障害物は、有刺鉄線が切断された状態で放置される中、一本だけが張られたときの形を保っていた。サイガがそれに気づいたとき距離は既に数メートルもなかったので、速度を落とさずハードルのように飛び越えるしかなかった。
 林の中ではより深い夜闇と柔らかい地面が待ち受けていた。木の根や雑草が邪魔して走りにくい中を指示通り前進し、目が暗さに慣れてきた頃、土地を支える丘の斜面にさしかかった。踏みとどまろうとした直後、サイガは落ち葉に足を取られ、急傾斜を滑り落ちた。
(動き出したら、決して立ち止まるな)
 言い聞かせながら体勢を立て直し、再び走り出した。
 がむしゃらに突き進んでいると前方に街灯の光が現れた。集合住宅と外を結ぶ私道が緩やかにカーブする場所で、そこを曲がりきった光は丘を取り巻くように作られた下り坂だった。サイガはすぐにタクシーで上ってきた往路を思い出した。
 新しいアスファルトで舗装された道路は、ついさっきとは桁違いに走りやすかった。部活のランニングで連れ出される学校近くの坂より楽だとさえ彼には思えた。
 後方から車が追いかけてくるような音はせず、丘の上へ向かう車も現れなかった。ただ一度出会ったのは歩行者だった。坂を徒歩で上ってくるサラリーマン風の男と同じ白線の上で鉢合わせ、ぎりぎりのところでサイガが一歩横にそれることで衝突を避けた。
「あっ、ちょっと、そこの君……!」
 その男だろう、呼び止める声を聞いた気がした。しかしその時既に距離は広がっていた上、サイガの方は走る足に勢いがつきすぎて止まれなくなっていた。
 すれ違ったときにぶつかったか、何か起きたのかもしれない。それでも、
(後ろを振り返ってもいけない)
 忠告を思い出してあきらめをつけ、走り続けた。
 下り坂の終点にたどり着くと、二車線道路の向こうに明かりを消してまどろむ住宅地が広がっていた。光るものといえば電柱から生えた街灯と、何十メートルも先に見えるコンビニの看板だけ。ガードレールに守られた歩道を走る人はいたが、車の往来は全くなかった。
 待っているはずの車も見当たらなかった。
 話が違う。サイガは現実を飲み込めず、気づけば足を止めて車道の左右を何度も見ていた。そこそこハードな運動をしたためにコートの内側は暖まっていて、吹き込む風が余計に冷たく感じられた。
 しかし困惑していられる時間もそう長くはなかった。さっき通ってきた坂を人が駆け下りてくる、足音と情けないうめき声が聞こえてきたのだ。
(誰か来る!?)
 サイガは狙いも当てもないまま、ひとまず人のいない方向へ駆け出した。
 すると一区画だけ進んだ先、信号機のない横断歩道の脇に停まる車を発見した。つやのあるワインレッドの車体には間違いなく見覚えがあった。
「早く乗って!」
 祐子の呼びかけがはっきりと聞こえた。
 深く考える前にサイガは後部座席のドアを開け、中へ飛び込んだ。シートに転がるような格好から慌てて体を起こし、内側からドアを閉めたのとほぼ同時に、車が発進した。
「もう、聞いてよセンセ……じゃなかったわ。おかえり、さっちゃん」
 似ていると思えない人物に間違われたことをサイガは不思議に思ったが、すぐに今自分が着ているコートが借り物だという事実を思い出した。
 窓から差し込むわずかな光を頼りに座り直し、習慣でシートベルトを締めてから、ようやくコートの本来の色と形を見ることができた。ついでにボタンを外して前を開けてみると、左胸部の内ポケットから、高級紳士服ブランドの有名なロゴが堂々と顔を出した。
「……篠原先生は、今」
「心配? なんとかなるでしょ。あのね、センセは今、大事なカノジョを助けに行ってるの」
 ルームミラーに映るローズピンクの唇は誇らしげな曲線を描いていた。
 サイガの脳裏を、彼女は友達だったと語る祐子の笑顔がよぎった。
 うまく言葉を紡げない唇で何かを訴える、人形のような彼女の顔も浮かんだ。
『あれは抜け殻。生き返ったわけじゃない』
 死神の言葉が再生されたところで思考が進まなくなった。
「もしかしてさっちゃん、薫さんに会っちゃった?」
 後方確認のついでに固まった表情を見つけた祐子が、どこかすねたように口をとがらせてから運転に戻った。
「言いたくないなら別にいいケド。私だって気になるし、ホントは一緒に行きたかったのよ」
 泣き出しそうとまでは言わないが、その手前にあるかのように、声が震えていた。
 サイガはしばらく考えてから、「全部は覚えていない」と前置きした上で、警察署の近くでタクシーに遭遇してからの出来事を祐子に話した。何が起きたか彼自身よく分かっていないことは見聞きしたままを語るだけで精一杯だったが、祐子は黙って耳を傾けてくれた。
 一通りを話し終えたとき、車は市道に入っていた。それまでの道よりいくらか交通量が増えただけで、夜が深まっているはずの街は逆に明るくなったようだった。
「ね、さっちゃん。あのとき逃げなければとか、他にやれることあったかもとか、もしかして考えちゃった?」
「それは……」
 口ごもるサイガに、祐子は運転席脇のポーチから取り出した小さな袋を差し出した。市販のキャンディと分かる個包装にキャラメル味と書かれていた。
「大丈夫。今日さっちゃんがやったこと、全然無駄じゃないから。もしあのとき素直に私の車に乗ってたら、センセが薫さんを助けるチャンス、なかったかもしれないし」
「は?」
「それに自分の足だけであそこから逃げ切れたじゃない? さっちゃんが普段からカラダ鍛えてて、スピードもスタミナもあったからできたことよ。サリエル様もきっと、あなたならできると考えたから、逃げるチャンスを作って送り出してくださったのよ」
 一連の出来事を祐子は何故か我が事のように喜び、我が子の快挙のようにたたえた。
 しかし当事者であるサイガは眉をひそめ、首をかしげた。
「できると考えたからって……」
 現実はそう簡単ではない。たとえば追われているときに一度でもつまずけば、階段の下に隠れる現場を見られていれば、あの柄の悪そうな連中に捕まった可能性は大いにあった。
(それでも信じて俺に賭けたつもりなら、すっげえ危ないバクチじゃねーのか……?)
 サイガは車の助手席に目をやった。そこには誰もいなかった。