[ Chapter13「逃げるは楽だが苦にもなる」 - F ]

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 ダイニングテーブルの上に密集していた星屑が一斉に弾けた。
 それらはどこにも積もることなく静かに消えていき、指輪が並ぶ両手だけが残った。ひなぎくの背に形作られていた翼もまた消滅していた。
「……もう、終わりか」
「はい。終了です。皆さんが無事に現場から撤退できましたので」
 ウィルは考えなく口にしただけだったが、ひなぎくはそれを疑問か名残惜しさとでも思ったのか、律儀に解説してくれた。
「冥府の調査官が犯人グループを制圧して、行方不明だった死者の方々を保護したようです。緊急の支援はもう必要なくなりました」
 求めてもいない説明を仕草だけで受け流して、ウィルはテーブルを睨み続けた。今まで虚像の上に投影されてきた様々な出来事を一つずつ思い起こしていく。
 高台を覆う結界。幾度か目撃した人の出入り。仲間の連携失敗とそれによる損失。突然観測された結界の乗っ取り、そして消滅。
 そこにはただ事実だけが映し出されていた。
 仲間から暴言を浴びそうなほど酷い現実だった。
 特に受け入れがたいのは結界に異変が起きた直後、その囲いから一人が逃げ出してきた場面だ。そのとき仲間たちは主に結界周辺で中の様子をうかがっていた。しかし全員の初動が遅れたために、結界を脱出した“保護対象”の人間を救助するどころか、接触さえできなかったのだ。
『なんですれ違う前に声かけなかったの』
『対象の移動速度は想定の二割増だった。坂の傾斜を加味しても……』
『タイミングの問題じゃなさそうだね。声に少しも反応しなかったところを見ると、呪縛でもかけられていたのかな』
 ひなぎくの指先を通じて現場の声を耳にしたとき、彼らが仲間をかばいたいのか非難したいのか、ウィルには判断できなかった。
(意に沿わない言動を封じる呪縛か。本当にそうか? あれが本人の意思だとしたら?)
 彼は口を閉ざし、自分なりに戦況とその打開策を考えてみた。先輩たちのうろたえようを不甲斐なくは思えたが、怒りは湧いてこなかった。
(意味を知った上で従っている。騙されている。いや、あの様子はむしろ、こちらの存在自体が眼中にないようだった)
 彼は冷静に分析しているつもりだった。しかし一方では、守護天使たちが人間を取り逃がすという結果になぜかほっとしていることにも、はっきりと気づいていた。
(だとしたなら、その目には何が映っていた?)
「ウィルさん」
 まぶたの裏から最後の残像が消えた。
 両手の指輪を外したひなぎくが、それを一つずつケースに収納しながら、後輩の様子を心配そうに見ていた。
「応援に出ていた皆さんがもうすぐ帰ってきます。せっかくですから一緒に」
「お断りします」
 ウィルは誘いの内容を聞く前に口走っていた。
 あっけにとられる顔を目にしてから言い方の誤りには気づいたが、もちろん既に遅い。後で教官の指導が入るところまで想定してから先輩に向き直ると、困った表情のまま優しく語りかけられた。
「びっくりしたでしょう? 私たち、守護天使(ガーディアンズ)だっていうのに、何も守れていないじゃないですか」
 驚いたと言うよりは拍子抜けしていたのだが、ウィルはつられるようにうなずいた。
 見学中に彼らの立場について考えたことは確かだ。肩書きこそ特別な任務の存在を感じさせるが、天の軍勢の階級で言えば最下層、一応訓練生よりは上という程度だ。故にたいした成果を上げられなくても仕方ないで済む。
 むしろ問題は彼らが担う役割にあった。地獄の軍団と刃を交えるにしろ、敵の動向を監視するにしろ、わざわざ肉体を得なくてもできることだ。明らかに効率的ではないやり方が採用されているのは何故なのか。
「教えてほしいことがあります」
「何でしょうか、ウィルさん」
「守護天使とは」
「はい」
「わざわざ人間の真似事をして味方の足を引っ張る職務なのですか」
 花のような笑顔が凍りついた。
 だがその氷結はすぐに解け、ひなぎくはゆっくりと息を吐いた。
「私も訓練生だった頃には似たようなことを考えていました。さすがにそこまで厳しい表現は思いつきませんでしたけど。でも、本当は、そうではありません」
 指輪のケースの蓋が音を立ててロックされた。それをテーブルに置いたひなぎくが同じ手で椅子の一つを示したが、ウィルはその意味を考えなかった。
「私たちは生まれつき『我らの主』の揺るぎない愛情、深い信頼を注がれていて、それを無条件に受け入れています。そしてそれに応えたい心から天の軍勢への忠誠心も使命感も育ちます。そこは解りますよね?」
「教官も似たような話をどこかでしていました」
 ウィルの心の奥に、訓練学校で接してきた同胞たちの姿が浮かんだ。
 今までほとんど関心がなかったから記憶は不完全だ。しかしどんな講義や訓練も真剣に、忠実に、そして不気味なほど素直に従事する者が確かにたくさんいた気がする。そうでなかったのはセラフィエル教官の下にいた面々くらいだった。
「ですよね。……でも皆さんだって、何も考えず任せきりにしているわけではないです。あなたのように軍勢の在り方や自分の使命について悩む訓練生も実はたくさんいます。そして大半は訓練生でいる間に答えを見つけて、喜んで戦列に加わります」
 教官のような口ぶりで説明する途中、ひなぎくの目に映る光の色が変わった。
「全員ではありません。中には世界を、とりわけこの物質界を守ることに疑問を抱いたまま訓練課程を終えてしまう者もいます。迷いを抱いたままの新兵をそうでないものと同じように扱うわけにはいきません。士気が下がりますから。そうして彼らは別の道を進むのです」
「別の道」
「悩み続けることは決して悪ではありませんから。その道の一つを選んだのが私たち。天使の身分を持ちながら人の身を生き、弱き者の目線で世界をより深く愛し、身の丈に合った使命を全うすること。それが守護天使の職務なのです」
 再び微笑みの花が咲いたとき、彼女は幼児たちに教える先生の顔に戻っていた。

 その後、ウィルは「いつでも遊びに来てください」の言葉を土産に先輩たちの拠点を辞した。
 すっかり夜が深まった空は暗く、テーブルの上に見た星空よりもどんよりした色が広がっていた。
(俺が全うすべきことは何だ?)
 誰もいない夜道を歩きながら、ウィルは考え続けていた。
 考えずにいられなかった。
(地域の人々がどうこうではない。たった一人を救うこと、あのとき敵の手に落ちた少年を解き放つこと、それが俺の本来の課題だったはずだ)
 自転車を押しながら歩いてきた道筋はおおよそ覚えていて、次にどこの角で曲がるかという類の選択に迷いはしなかった。
 しかし今は自転車のヘッドライトがない。死神の炎も役目を終えたのか消え去っている。
 光が足りない。
(あのとき「こいつこそ保護対象だ」と名指しした。情報提供も間違いなく行動の一つだ。それでもし首尾良く保護できていれば、俺は課題を達成していたことになるのか)
 正面に見えてきた歩行者用信号は赤く光っていた。
 まばゆい警告の色に目を引かれた彼の足が止まる。盤上に集っていた同じ色の光点が、守護天使たちが近づく前に爆発して散った星々が、ぼんやりと思い出された。
(それとも、俺がこの手で助け出さなければ、救ったことにはならないのか?)
 拳を握りしめた直後、耳に刺さるようなエンジン音が心の震えを止めた。
 ウィルが音のした方へ顔を向けたとき、自転車の数倍は強い光源が、徐々に速度を落としながらその信号機へと接近していた。そして彼が音の正体に気づく頃には、ちょうど彼の正面、赤信号に封じられた横断歩道上にぴたりと停止した。
 柳家の玄関先にいつも停まっているバイクだった。
 フルフェイスのヘルメットを被ったライダーが横を向き、車体にくくりつけていたもう一つのヘルメットをウィルに差し出した。