[ Chapter14「樅(もみ)の木は見ていた」 - A ]

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《すてきな写真をありがとうございます。
 ハワイの初日の出、本当にきれいですね!
 こちらはホテルの外に立っていた木です。モアイ像の形に見えませんか?
 今日はよく晴れていて、絶好のスキー日和になりそうです(^^)v》

 まりあは携帯電話のメール画面に入力した文章を二度読み返した。そして五分ほど前に撮影した雪山と立木の画像を添付し、送信ボタンを押した。
 メールが飛んでいった先は遠い南の島。
 差出人がいるのは日本国内のとあるスキー場。
 新年を迎えて一週目、世間が正月休みと呼ぶこの時期に、まりあとその両親は二泊三日の家族旅行としてその地を訪れていた。彼らは転勤に伴う大移動は何度も経験してきたが、単純なレジャー目的の遠出は実に十年ぶりのことだった。
(無事に着くことができて本当によかったです)
 携帯電話をポケットに差し込み、顔を上げる。
 ロビーの一角で待つ妻と一人娘の元へ、チェックインの手続きを終えた夫が戻ってきた。それはきっとどこにでもある旅の一場面だろう。
「お待たせ。さあ、荷物を置きに行こう」
「はい!」
「あなた、レンタルスキーの受付の場所、確認してくれた?」
 はやる気持ちを抑え、まりあは自分のバッグを持ち直して両親についていった。二人の間に割り込まず少し後ろに落ち着くと、両親の頬の緩みが同時に見て取れた。
 この旅の発端は夏の終わり頃にあった。彼女の母親が雑誌の懸賞で旅行会社のギフト券を当て、引っ越したばかりの新居に賞品が転送されてきたのだ。本人は応募したことをすっかり忘れていて、当選が分かってからもしばらくは「いつか使おう」止まりだった。
 ところがその「いつか」は案外早くやってきた。年中多忙な父親が珍しくまとまった休みを確保できたと判ると、直滑降のようにすらすらと計画がまとまった。
 そうして家族の一大イベントが決定したその日から、まりあは誰よりその日を心待ちにしていた。ただし、
(お父さんもお母さんも、とても嬉しそうです)
 本人はそのことを少しも自覚していなかったが。
「何階へ行くの?」
「えーと三階の、エレベーターを降りて右手って言われたから、西館か」
「逆でしょ、降りたときは逆を向いてるんだからこっち、東館」
 夫婦は分かれた意見を戦わせながら、エレベーターホールの手前で足を止めた。
 自動扉の前は同じように休暇を過ごしに来た人々で混み合っていた。両親の真後ろで立ち止まったまりあの視界は狭く、フル稼働しているだろうエレベーターが何基あるのかも分からなかった。
 大きなバッグやキャリーケースを携えた人々の列が少しずつ進む。
 色鮮やかなスキーウェアを着た人々がスキー場への連絡通路に流れていく。
 やがて雨宮家も列の先頭に近づいてきた。あと一回だけ満員のかごを見送れば次は乗れそう。そんな風に見積もって次回の到着を待っていたまりあは、到着したエレベーターから降りてきた客を見て、目と口の両方を丸くした。
 見覚えある顔が先頭にいた。
 聞き覚えある声で名前を呼ばれた。
「おおっと、美少女がいると思ったらなんと雨宮さん!」
「声でかいぞバカ」
「沼田くん!? 池幡くんも!」
 まりあがその場で口にした名前は二人分にとどまったが、彼らと一緒にエレベーターを降りたうちの三名までは学校内で顔を見た覚えがあった。他のクラスの生徒だろうか。
「もしや雨宮さんちは家族でご旅行ですか!? いやーうらやましい、あっそうだあけましておめでとう」
「後ろ詰まってるからさっさと歩け」
 背中を叩かれた赤のウェアが大きく揺れた。池幡の大きな手によって押し出されていく沼田をなすすべもなく見送る間に、まりあたちの順番が回ってきていた。
「今のにぎやかな子、確かこの前警察にいた……一緒にいた子もあなたのお友達?」
「はい。今の学校で同じクラスにいる人です」
 母親の問いに答えながらかごに乗り込むと、一時の名残惜しさはこれからの楽しみな気持ちに取って代わられた。
 客室に着いた一家はまず宿泊用の荷物を分け、再び外へ出る支度をした。まりあはこの日のために用意した水色のスキーウェアに袖を通し、窓からの景色を眺めた。先程の写真の題材、雪を被って顔のような形になった不格好なもみの木がちょうど正面にある。それを見ているだけで不思議と心が和んだ。
「忘れ物はないな?」
「大丈夫よ。むしろあなたの方が心配」
 三人の準備が整い、揃って客室を出た頃には、エレベーターの混雑は落ち着いていた。
 しかしフロントの階から連絡通路を抜けた先、スキー用具レンタルの受付に、先ほどのエレベーターホール以上に長い行列ができていた。おまけに列の前方で誰かが大騒ぎしていて、なかなか進まない行列が時折うっとうしそうに横へうねっていた。
 雨宮家が最後尾についてまもなく騒ぎの元が判明した。真っ赤なウェアを着た小柄な少年が、通路上にしゃがんだり両手をついたりしながら、彼らの方へ近づいてきたのだ。
「あの、沼田くん、何かお探しですか?」
「オレのレンタルチケット見なかった!? あっその顔は見てないっぽい、やっぱいいや!」
 級友は一方的にまくし立て、一人で結論を出して連絡通路に消えていった。
 呆然と沼田を見送ったまりあの前に、今度は紺色の大柄なウェアが現れた。普通に通路を歩いてきた池幡が一家の後ろに並んだのだった。
「池幡くん、その、いいのですか? 沼田くんと一緒に行かなくて」
「来てほしかったらそのうち呼びに来るから。まあ来ても今度は突き放すけど」
 通路の方向を眺める目は諦めに染まっていた。
 程なく列が少しだけ前に進んだ。池幡は一歩分の動きで隙間を詰めてまりあの横に並び、その両親へと丁寧に頭を下げた。
 まりあはしばらく後ろを気にしてみたが、沼田が戻ってくる様子はなかった。それから何度か立ち位置を前に移すうち、別の事柄が気になり始めた。
「そういえば、池幡くんのご家族は……?」
「来てない」
 池幡は簡潔に答えてから、眉間に少しだけ力を込めた。
「中学の時つるんでた仲間と、高校生になったらみんなだけでスノボ行こうぜって話してて、それが今日。だから親と来てる奴はいない。一人だけ付き添いがいるけど」
「付き添い、ですか」
「そう。ここから……見えないか。他の奴と一緒に先行ってるよ多分」
 行列は左右に揺れることこそなくなったが、先はまだ長い。後ろもいくらか人数が増えている。そして多くの雑談にあふれている。
「俺なんかは全然問題なかったけど、サイガだけ家族に猛反対されて、そりゃもう大変で」
「西原くんもこちらにいらしているのですか?」
「え? そうだ、さっきあいつエレベーターに乗れなかったんだ。いや、その家族の言い分がすごくてさ。『仮に誰かがゲレンデで事故を起こしたとして、誰の助けも借りずに自分たちだけで全責任を負えるのか』って。それ言われるとちょっとな」
 池幡は声色を変えて誰かの言葉を引用し、ため息をついた。そんな動作が出てしまう心境はまりあにもよく理解できた。
 高校生ともなれば分別も良識も充分身につく年頃と言っていい。ただそのほとんどは未成年なのだ。もし何かあったら、本人がどれだけ気丈に振る舞っても最終的には親が呼び出され、子供だけで行かせたことも含めて責任を問われるだろう。
 いい切り返しも異論も思い浮かばない。
「……では、西原くんだけご家族が一緒に?」
「いや、親の友達だって人を連れてきた」
 保護者不在の問題を解消するために。
 親が呼び出されるような事態が起きたとき、方々の橋渡し役になるために。
「引き受けてくださる方が見つかってよかったですね」
「本当にな。ついでに俺と沼田も車に乗っけてくれて、おかげで交通費浮いて大助かり」
 池幡は最後だけおどけたように言ってから、行列の前方に大きく手を振った。
 レンタル利用者以外の往来のために空けてある通路を誰かが駆けてきた。まりあが顔をなんとなく覚えている、しかし名前までは知らない一年生だった。
「あれ、池幡だけ? 沼田は?」
「部屋まで戻ったんじゃないか? 鍵フロントに預けたこと忘れてなきゃいいけど」
 人の行き来が絶えない連絡通路に、赤いウェアの少年は今のところ見当たらなかった。