[ Chapter14「樅の木は見ていた」 - C ]

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 手がかりは一瞬見た彼の動作だけ。両親の後ろから離れたまりあは、客室やレストランの方面へ流れる人の波をかき分け、廊下の端へとたどり着いた。
 そこにはラウンジがあった。ソファで囲われた無人の空間を、飲み物の自動販売機の照明が煌々と照らしていた。
「こちらに行かれたと思ったのですが……」
『合ってる』
 一度は見失った級友がまりあの隣に戻っていた。
 サイガは右手で奥のソファを示した。その辺りに座るよう勧める仕草に見えたので、まりあは素直に従った。勧めた方はその隣に立った。
『呼び出しといて言うのも何だけど、お前さっきからなんにも考えないでホイホイついてきて、頭大丈夫か? 俺がお前の立場だったらまず疑うし多分シカトしてるぞ』
「えっ、でも、西原くんですよね?」
『普通驚くとこだろ、これって。なんでこんなところにとか、何その格好とか』
「ここにいらしていることは、池幡くんからうかがっていましたから」
 正直な返答が何故か見当違いのように受け取られたらしい。首をひねるサイガを見上げたまりあは、彼の顔色があまり良くないことが気になり、「失礼します」と立ち上がって片手をかざした。
 自分より少し背が高い級友の額に触れるつもりだった。
 しかし指先は何にも触れることなく、そればかりか彼の姿を一瞬だけぶれさせながら、空中に曲線を描いた。
「……あら?」
『やっぱりそうなるか。さっきお前に呼ばれた後も肩叩こうとして』
「ちょっと待ってください。なんだか身体が透けているような、えっ、これは……」
『今気づいた!?』
 頭を抱えるサイガの姿が、まりあの目には確かに見える。それなのに手をいくら動かしても袖の先さえ掴めない。
 先ほど通路で目撃したのは浴衣の柄による錯覚ではなかった。
 現実的なトリックとは違うもう一つの仮説が思い浮かぶと、まりあは自分の頭から血の気が引いていくさまをはっきりと感じた。
『おい、しっかりしろ雨宮。気絶すんな。今俺のこと見えてんのお前だけなんだよ』
「そう……なんですか……」
『だから落ち着いてくれると助かる。えーとまず深呼吸して』
 促されるまま深く息を吸い、吐き出しながら再びソファに座った。
 心拍数以外が多少は落ち着いてきても、まりあの視界にはサイガが映っていた。しかも触れてみようとする前より明瞭に。
「もう大丈夫です。ご心配をおかけしました。……ところで、どうしてそんな姿に?」
『それが俺にもよくわかんなくてさ』
 サイガはその場にしゃがんで、大浴場の方を見やった。座っているまりあの視点に近づいた顔は曇っていた。
『確か、みんなと飯食って風呂入って、部屋に戻ろうとして。それから……そうだ、停電があった』
「停電! さっきの……!」
 大浴場で遭遇した混乱がまりあの頭をよぎった。ついでにホテル内の各所で起きていそうな騒ぎの想像図もよぎった。
『そっちでもあったのか』
「はい、ありました。二十分ほど前だったかと思います。えっと、停電までは皆さんと一緒にいらしたわけですね?」
『そう。エレベーター降りた時までは一緒だったんだ。でも廊下歩いてる途中で急に真っ暗になって、それから何だ、その、いろいろあって。気がついたら、さっきお前に声かけられたあの場所に突っ立ってた。俺一人で』
 停電後の話になると、サイガの言葉が急速に歯切れ悪くなった。
 思い出せないのか。それとも。
 視線をそらす彼があまりにもかわいそうに見えてきたので、まりあはつい大げさに、彼の前に両手をかざしていた。
「だ、大丈夫ですよ! ほら、下を見てください、両足がついています!」
『足?』
「はい、足です。つま先まで分かります。ですから……幽霊になってしまったというわけでは、ないと、思います。きっと大丈夫です」
 とっさに浮かんだ単語を口にしたのは、彼女自身のためでもあった。つい連想してしまう様々な悪いニュースを取り除こうと、特に最後の一言は強調した。
 すると、
『あー、そういうことか。だったら心配ない。俺も、俺が死んだとは思ってない』
 サイガの方も、まりあの勢いを押しとどめるように強調した。
「そうなんですか?」
『なんとなくだけどな』
 彼が一言付け足した頃、一人の宿泊客がラウンジ脇の自動販売機コーナーを訪れた。
 まりあはその人と目が合ったように感じた。しかしそれは勘違いだったのか、その人は何のリアクションも示さず、ただ愚痴をまき散らしながら去って行った。
『……で。雨宮、お前ケータイ持ってる?』
「はい? あ、あります、けど」
『頼む、それ貸してくれ。みんながどうなったか心配なんだ』
「分かりました。私のでよければ、使ってください」
 まりあが巾着袋から携帯電話を取り出すと、サイガの顔全体を覆っていた緊迫感がわずかに緩んだ。
 しかし端末を差し出された直後に希望の色は薄れた。
 受け取ろうとした彼の手は、端末に触れるどころか、煙のように通り過ぎていた。
『畜生、これもダメか』
「あの、私がかけてみましょうか。沼田くんの番号でしたら登録してあります」
『沼田に? ……この際だからしょうがねーか。頼んだ』
 彼にとってはあまり良くない人選なのだろうか。不安そうな表情にさせたことを気にかけながら、まりあは電話帳を表示して沼田の携帯電話番号を探した。
 ところが、目当ての画面が見つかる前に、もっと重大な問題が彼女の目に留まった。
「どうしましょう。電波が届いていません」
『マジかよ』
 聞くなりサイガが立ち上がってまりあの手元を覗き込んだ。
 画面右上に《圏外》の二文字が表示されていた。
「そういえば停電が起きたとき、近くにいらした方が、電話がつながらないと話していました」
『でも停電自体はもう直っただろ?』
「もしかしたら別のトラブルが起きて、電話だけが使えなくなっているのかもしれません。復旧を待ちましょう」
 まりあは携帯電話を巾着袋に戻した。
『クソッ、なんとかなりそうだと思ったのに……』
 サイガは力なく座り込んだ。
 その姿がかすんだように見えた気がして、まりあは思わず叫びそうになった。幸い数秒で元に戻ったので悲鳴はこらえたものの、相次いで目の当たりにした不思議な現象は、冬の風以上に彼女の心身を冷やしていた。
 続いて湧き出る悪い想像を振り切ろうと懸命に考える。
 もしこれが幻なら、彼は何のために現れたのか。
 もし本物の幽霊なら、せめてできることはないか。
 どちらでもないとしたら、突然一人でここに現れた彼には、何が必要か。
「西原くん」
『ん?』
「探しに行きませんか。お友達の皆さんを」
 まりあがソファから立ち上がると、サイガもつられて上を向いた。
「電話はつながらなくても、このホテルのどこかにはいらっしゃるはずですから。皆さんが無事なら私も安心ですし、もしかしたら西原くんの身に何が起きたのか、ご存じの方がいらっしゃるかもしれません」
 彼の返事を待たずに、まりあは右手を差しのべた。
 今はその手を握れないと気づいても引っ込めなかった。
『それもそうだな』
 遅れてサイガが立ち上がってから、二人はラウンジを出た。
 エレベーターホールへ通じる廊下はいくらか混雑が落ち着いていた。大浴場の入口付近は変わらず騒がしかったが、隣にいる人を見失うほどではなかった。
「そういえば、さっきの停電の後、『助けて』と言いませんでしたか?」
『……さあ、わかんねーな』
 問いから返答までに、やけに長い間があった。