[ Chapter14「樅の木は見ていた」 - E ]

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「えっ雨宮さん!? マジびびったわー」
 ホテル五階のエレベーター前で出会った沼田は、まりあを発見するなり駆け寄ると両手を掴んできた。彼の手の震えやうわずった声は、お化け屋敷から一人逃げ帰ってきたような怯えぶりを表していた。
「聞いてくれよ、サイガが急にいなくなったんだ! 雨宮さんここ来るとき見なかった!?」
「あの……西原くんでしたら」
 今そこに。まりあが言いかけたところへ、ささやき声が割り込んだ。
『言うな。多分こいつには俺のこと見えてない』
 聞いてから観察してみると、沼田は明らかにまりあの方しか見ていなかった。
 身体をなくして透けた姿の友人なんて見た日には、それこそお化けに出会ったときのリアクションぐらいはしていたかもしれない。
「さっきここで停電あったの知ってる? その時までは一緒だったんだけど。でも急に暗くなって何だっけ、非常灯とか言ってたな、あれがついた時にはいなくなってて!」
 まりあが少しだけ想像を巡らせる間に、沼田は詳しいいきさつを勝手に語り始めていた。
 客室を結ぶ廊下には避難経路を示す誘導灯が一定間隔で設けられている。まりあが知る限り、それは廊下の明かりが消える夜中でも常に光っているはずだが、先ほどの停電ではそれさえ消えてしまったというのか。
 沼田の話では急に廊下が真っ暗になり、しばらくして先に避難誘導灯が復旧したという。その辺りから誰もサイガの声を聞いていないらしい。
「最初はこっそり隠れておどかすつもりかって思ったけど、考えたらそういうタイプじゃないし」
『そういうことやりそうなのはお前だよな』
「先行っちゃったのかなーって誰か言ったけど、部屋行ってみても鍵かかってるし。つーか鍵壊れてて開かないし!」
『鍵持ってたの俺じゃないのに先回りとか意味不明』
「しょうがないから手分けして、フロント行くのとサイガ探すのと分かれたんだけど、オレだけここでお留守番。一人で! 今まで誰も来ないし! もうめちゃくちゃ怖かった!!」
『ホラー映画ガンガン借りてくる奴の言うことかそれ』
 沼田の百面相にサイガが何度か口を挟んできた。まりあは吹き出しそうになったが、当の沼田はやはり何の反応も示さなかった。
「そうだ雨宮さん今ヒマ? よかったらオレと一緒にここでみんなのこと待たない? 何でか知らないけどさっきからケータイもつながらないし」
「それ、私もです」
 再び巾着袋から取り出されたまりあの携帯電話には「圏外」の表示が居座っていた。
 誰もいない、誰も来ない、誰とも話せない。それは心細い状況だろう。
 ところが、
「あ、やっぱいいや。雨宮さん家族旅行で来てんだもんな。邪魔しちゃ悪いか」
 思いつきのような頼み事は思いつきのように取り下げられた。
 応じようとしていたまりあは返す言葉を失った。するとサイガがささやいた。
『行こう。この辺には本当にこいつしかいなかった』
「は……はい」
 振り向けば、エレベーターの一基が上階に到達して降りてくるところだった。まりあは慌てて下り方向のボタンを押しに行き、沼田とは簡単な挨拶で別れた。
 今度乗ったかごに他の乗客はいなかった。しかし下の階で待っている人はいるらしく、行き先も決まらないうちに扉が閉まり、降下が始まった。
「どうしましょう。他のお友達がいらっしゃるとしたら……」
『他の階と、あとフロントか』
 二人が言葉を交わす間にかごが停止した。乗りたい客はすぐ下の階にいたらしい。
 まりあは開く扉の向こうで待つ人のため、階数パネルのそばに立ち位置を移した。顔見知りが乗ってきて新しい情報をくれることを、ほんの少しだけ期待していた。
 現れたのは照明も内装もない真っ暗な空間だった。
 全身に鎖を巻きつけ、大きな威圧感を背負った誰かが、待ち構えていた。
「えっ……?」
『ドア閉めろ! あとどっか押せ! 早く!!』
 サイガの焦った声に背中を叩かれたような心地で、まりあは手元の「閉」ボタンを連打していた。自動扉が閉まり始めた頃に連打まではしなくていいことを思い出し、「1」のボタンを一度だけ押してから、パネルの上のデジタル表示に目をとめた。
 点滅する「4」。
 さっき止まったはずの階を、エレベーターは今まさに通過しているところだった。
「今のは……故障、でしょうか」
 降下するエレベーターの中、答える声は聞こえてこない。隣を見ると、サイガは何かを警戒する顔で天井を見上げていた。
 まりあは無意識に浴衣の衿に片手を添えていた。
 全身に感じられる加速は少しずつ緩んでいった。途中で止まることはなく、かごが静かに止まったときの階数表示は間違いなく「1」だった。そして自動扉が開いた先には、今日まりあが何度も目にしたエレベーターホールがあった。
 ほっとしながら踏み出した片足は、しかし半歩も進めなかった。
 突然上から降ってきた衝撃音と共にかごが大きく揺れ、続けてその天井辺りから何かが押し潰される音が聞こえてきたのだ。
『やべっ、逃げろ!』
 隣からの声とほとんど同時にサイガがエレベーターホールへ飛び出していた――少なくともまりあにはそう見えた。慌ててまりあも小走りで追いかけた。
「あの、これから、どちらへ」
『とりあえずフロント行こう、多分そこなら……!』
 彼女の前を走るサイガの言葉は、後ろから聞こえた悲鳴、そしてエレベーターに何かが衝突する音にかき消された。
 もう角を一つ曲がったから見えないと知っていても、振り返ることを怖く感じた。
 脇目も振らず、後ろめたさを封印し、全力疾走でフロントを目指した。公共の場で走ってはいけない、という常識は既にどこかへ隠れてしまっていた。
 そうしてまりあはホテル正面玄関奥のロビーにたどり着いた。立ち止まってから息が上がっていることに気づき、深呼吸しながら顔を上げると、そこには予想もしなかった光景が広がっていた。
「……す、すごい人だかり、です」
 フロントの前には大勢の宿泊客が詰めかけ、我先にと何かを要求している。人が多すぎて従業員らしき姿が全く見えないほどだった。その脇には別の方向へ連なる長蛇の列があり、目で流れをたどってみると、ロビーの片隅に置かれた公衆電話を目指す人々だった。
 あちらこちらから聞こえる怒号が、泣き声が、不安をかき立てる。
(トラブルがこんなにたくさん。これも停電の影響なのでしょうか)
「あれ、雨宮さんのところも何かあったの」
 横から聞き慣れた、しかも落ち着き払った声が入ってきた。
 声の主の方へ顔を向けた瞬間、耳をちくちく刺していた怒りがただの雑音に変わった。
「池幡くん! えっと、私のところも、ということはそちらでも何かが?」
「うちは部屋の鍵が壊れて中に入れなくてさ。なんか他にも鍵開かない部屋がいくつか出てて、人が足りないって言われたから待機中」
 ラフな私服姿の池幡は親指でフロントを指した。
「それと聞いた話だけど、結構いろんな部屋で中の電話が使えないらしい。携帯も全滅っていうし、しばらく収まらないな、この騒ぎ」
「そうでしたか……」
 彼の情報から、まりあはロビーの混雑の原因を察した。
 客室に備え付けの電話はフロントなどにつなぐ内線通話が主な用途だが、特定の操作によって外部への発信もできる。その両方が使えないから、人々はフロントと公衆電話に殺到しているのだろう。
「で、そっちは」
「私は……その……」
 客室のトラブルどころか両親をほったらかしにしてきた身で、しかもその理由は大変説明しにくい。まりあはあっけなく言葉に詰まった。
 直後、その視界を横切ったものに目を奪われ、そして疑った。
 山鉾のような。入道雲のような。とにかく場違いに巨大な輪郭を持つ何かが、凄まじい威圧感を放ちながら、人々の間を猛スピードで駆け抜けていったのだ。
「……どうした?」
 池幡の一言がまりあの目を覚まさせた。
 そこへ今度は別の人物が割り込んできた。まりあの両親と近い年頃、面長の顔にあごひげを蓄えた男性が、池幡の方に話しかけてきた。
「ちょっと外へ出てくる。みんなとここで待っていてほしい」
「外って柏木さん、今から何しに……!?」
 その人は池幡の呼びかけを無視し、正面玄関のガラス扉へと走っていった。とっさにその黒ジャケットの背中を目で追いかけたまりあは、一瞬で様々な気づきを脳裏に巡らせた。
 少し前にここを通り過ぎていった巨大な威圧感は。
 そもそも彼女自身がここへ来た目的は。
 直前まで一緒にいたあの彼は。
「……待ってください!!」
 男性の背中を追って走り出す他に、まりあは自分にできることを思いつけなかった。