[ Chapter14「樅の木は見ていた」 - F ]

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 正面玄関が備える二重の自動ドアがまりあの行く手を阻んだ。
 閉まりかけていた内側のドアが再び開いたとき、後方の声が聞こえなくなった。
 外側のドアが開き始めたとき、真冬の山の厳しさが襲いかかってきた。
「待って、ください」
 呼びかけようとした口の中に白い粒が浴びせられた。
 このときホテル周辺には猛烈な吹雪が押し寄せていた。室内着一式ではとうてい耐えられない寒さがまりあを包み、その足を止まらせた。
 それでも彼女は自動ドアを出て、先に外へ飛び出していったらしい級友を探した。
 まず目にしたのは一面真っ白になったエントランスと、そこに立ち止まる一人の男性だった。空は暗くても窓明かりと雪のおかげでよく見える。デフォルメされた馬が刺繍された黒のジャケットは、ほんの少し前に目撃し、呼ばれた名前と一緒に記憶していた。
(柏木さん。あの方が、恐らく皆さんの付き添いの方)
 まりあが次に気づいたのは、観光バスなどの乗降に使われる駐車スペースを何かが跳ね回る様子だった。さらに目をこらすと、大きな人影のようなものが右に左に走り、もっと小さな誰かを追い回す姿がぼんやりと見えた。合わせて三人か四人はいるだろうか。
 そのうちの一人はもしかして。
 つい思ってしまうと、そうとしか考えられなくなってしまった。
「西原くん……!」
 吹き荒れる風の中でまりあは懸命に叫び、雪原に飛び出した。
 雪上を駆け回る人影たちは呼びかけに少しも反応を示さなかった。しかし黒ジャケットの男性、柏木だけが驚愕した顔で振り向き、まりあの姿を見つけるや駆け寄った。
「君は、どうしてここへ?」
 かけられた言葉には疑念より心配の方が色濃く表れていた。想定外の人物から話しかけられ戸惑うまりあに、柏木は少し膝を曲げて視線を合わせてきた。
 彼の顔によって雪上の人影が視界から消えると、まりあの不安が少しだけ和らいだ。
「あの、私……その、今ははっきり見えていないのですが、先ほど……」
「さっきサイガくんから聞いたよ。迷子になっていた彼に声をかけてくれたそうだね」
(西原くんから、さっき……フロントで?)
 まりあは池幡に話しかけられた場面を思い出した。そういえば沼田に会ったときと違ってサイガの発言が聞こえなかった。その間に、別の場所で会話をしていたのなら。
(この人にも、姿が見えていた。頼りになる人と話すことができた。ああ、よかったです)
「信じがたい状況だったろうけど、彼を助けてくれてありがとう。ここは寒いから、後はこちらに任せて、早くホテルの中へ」
「そんな、私だけ戻るなんて。何かお手伝いさせてください。西原くんを助けたいのです」
 視界の端で大小の人影が動いた。一人が複数人に取り囲まれている。
 その姿が不意にかき消えた。
 まりあが身を乗り出すと、柏木は振り返り、同じ方向を見た。彼らの前には足跡一つない雪原だけが広がっていた。
「……サイガくん?」
「今……消えたような」
『消えてねーよ』
 二人のつぶやきは真後ろからの声に否定された。
 すかさず振り向いたまりあは級友の無事な姿に安堵した。が、口元の緩みは一秒ともたず凍りついた。
 エレベーターが突然止まった階で出会った、大小の鎖を全身に巻いた奇妙な人物が、サイガの背後に控えていた。しかも今度は隔てる扉も距離もない。
 鎖で縛られた手がゆっくりと持ち上げられる。その意味をまりあが察する前に、
「逃げろ!」
 柏木がまりあの腕を強く引いた。
 生じた一人分の空間をくぐるようにしてサイガが飛び退き、その直後、謎の人物の腕から外れた太い鎖が同じ位置をかすめた。
(危ない! あんなものがもし当たっていたら……!)
 体勢を崩したまりあが後ろから抱き留められるまでの間に、狙いを外した鎖は持ち主に引っ張られて再びサイガを追っていた。同じ場所にいて間違いなく顔を合わせたはずなのに、謎の人物はまりあたちに見向きもしなかった。
 周囲を見渡せば、他の人影は皆、距離を置いて立っている。門の前に一人。玄関を出て左手側の茂みに一人。
「君も、今のうちに」
 もの悲しく叫ぶ風雪の中、柏木のささやきがかろうじてまりあの耳に届いた。
「僕の推測だけれど、サイガくんの身体は消えてなくなったわけじゃない。恐らくこのホテルのどこかで助けを待っている。それを探し出せれば、彼は助かると思うんだ」
「……分かりました」
 それだったら、きっと。
 それだとして、どこへ。
 まりあは寒さに震える身を小さく丸め、胸元のメダルを握りしめた。
(早く見つけてあげないと……!)
 白い風が弱まった。
 今が好機と読んだ柏木に文字通り背中を押され、まりあは再び屋内へ駆け戻った。二重ドアの外側をくぐると、戻ってくる姿を見たのだろう、池幡が駆けつけて自分の上着をまりあの肩に掛けた。
「何やってんだこんな時に。柏木さんは」
「えっと、今、外で……」
 どうしようとしていたのか、そういえば聞いていない。そして池幡は事情を知らない。
 言葉に詰まったまりあは弁解もごまかしもできないままロビーへ連れて行かれ、池幡の友人から譲られる形でソファに座らされた。彼らが話しかけてきたことはなんとなく認識したが、内容までは頭に入ってこなかった。
 顔を上げると、壁に飾られた一枚の写真パネルが目に入った。南側からホテル全景を収めた空撮写真は春頃に撮影したらしい。建物周辺は緑と花の色に囲まれていた。
(さっき見たときは真っ白で、何もないと思っていたのに)
 まりあは席を立ち、パネルの正面に立った。
 正面玄関周辺をよく見ると、先ほどサイガが恐ろしい人物から逃げ回っていたあたりには花壇が写っていた。今はすっかり雪に埋もれているのだろう。そして大型車のため広く作られた道路の右側に、新緑に縁取られた細い道が見えた。
(そういえば、玄関から見てこちら側に、誰かがいたような。そう、この入口の辺りに)
 一度見ただけだったが、大まかな記憶にちょうど合いそうな配置だった。あの人物はサイガが外へ逃げ出さないように通路を塞いでいたのだろうか。
 まりあは写真上の道を目でたどってみた。ところが行き着く先は敷地外の道路ではなく、木々と高い塀に囲まれた庭園だった。
 そこにはなんとなく見覚えのあるものも写っていた。
(これは……もしかして)
 まりあは即座に回れ右をして、差し出される手も言葉も振り切って駆け出した。フロントや公衆電話に群がる人の数は増えていたが、誰も動かないので衝突はしなかった。
 エレベーターホールには客の他にかごを調べる作業員の姿があった。天井板がいきなり落ちたんだって、と誰かが語っていた。点検中の一基の他はどれも既に上昇中だった。
 その脇の階段から三階へ上がったまりあは、三桁の数字を心の中で唱えながら廊下を突っ走った。そして数字に一致する客室の前に着くと、一息入れてからドアをノックした。
 少し間を置いて、ドアが中から開け放たれた。
「まりあ! 無事で良かった、いったいどうしたの!」
「お母さんごめんなさい、今急いでいるのでお話は後で!」
 出迎えた母親が思わぬ返答に怯んだ隙に、娘はその脇を抜けて客室へ飛び込んでいた。脱いだスリッパを揃えることを忘れ、真新しい畳に足を取られかけても立ち止まらず、一直線に突き進んだ。
 そしてついに窓辺までたどり着いたまりあは、既に閉められていた遮光用カーテンを断りもなく端へよけ、さらに飾り付きの障子とガラス窓までも開け放った。
「ちょっと、いきなりどうしたの!?」
「捜し物です!」
 目の前に雪模様の空が広がっている。そこから少しだけ手前に、雪を被った一本のもみの木が、室内からの光を浴びて白く浮かび上がっていた。
 人の横顔にも見える形状の木は、写真の中の庭園に植わっていたものとよく似ていた。
(これです。間違いありません)
 まりあは窓枠の外に取り付けられた転落防止用の柵を掴み、思い切って身を乗り出した。吹き下ろす風の音と小さな悲鳴が前後から聞こえた。
 窓の外には確かに庭園が広がっていた。一面を雪に覆われていても、多様な植栽が作り出す高低差が散歩道の形を作っている。敷地を囲むフェンスの辺りまでは暗くて見えなかったが、雪上に人の足跡がないことは確認できた。
(誰もいません。ではどうしてあの方たち、道を塞ぐ必要が……?)
 彼女が冷え切った上半身を引っ込めようと姿勢を変えた直後、ホテルの建物から庭園に向けて突き出したひさしが目に入った。
 それを見たのは一瞬のことだった。
 しかしそれは、今日のどんな出来事よりも彼女を身震いさせた。