[ Chapter14「樅の木は見ていた」 - G ]

back  next  home


 ホテル内で行方不明になった宿泊客が、庭園に面した露天風呂の屋根の上で、意識不明の状態で発見された。
 救出時に全裸だったことから、当初は本人が入浴中に悪ふざけで屋根に上ったとされた。しかし屋根を支える柱にそのような形跡がないことが判明し、さらに四階の当時内装工事中だった客室から衣服が発見されると、関係者と警察は態度を一変させた。
《犯人は停電中のわずかな隙に被害者を連れ去り、暴行を加えてから衣服を奪い、被害者を窓から投げ落としたとみられている》
 奇妙な殺人未遂事件は翌週の地元紙に載り、すぐに忘れ去られた。


 雪山をさまよう夢を見た。
 行く当てはなく、身体は少しずつ弱り、動いても進まない。
 風と粉雪に閉ざされた世界で、誰かに呼ばれている気がした――
「……つまり、僕以外にもあなたに声をかけられた人間がいた、と」
 サイガはベッドの上で目を覚ました。
 病院にいることを思い出すまでに時間はかからなかった。
『結界による封鎖と空間操作は想定内だった。様々な事態に対処できるよう備えていた点は事実だ。しかし、あの小娘は、違う』
 突然の停電の後、知らないところで何かが起こり、いつしか巻き込まれていたらしい。
 気づけば救急車の中に横たわっていた。山の麓の病院に搬送される途中、自分が屋外で倒れていたことを救急隊員から教えられた。
『そもそも、これの霊体を見たと証言しているのは貴様だけだ。刺客の姿を見た者、その挙動から敵対者と判断し始末した者はいたが、それが何を追っていたかは分からないと口を揃えている』
 軽い打撲と凍傷、と医師から告げられた。ついでに何故か説教された。内容は忘れたが、的外れな話だと感じたことはなんとなく覚えている。
 発見が遅れていたら凍死していたかも、と言ったのは誰だったか。
「なるほど。そういえば、あの子はこちらの事情を全く知らない様子でした」
 聞き馴染んだ声を耳にしたとき、サイガは思い出した。
 遅れて病院に駆けつけた柏木がいろいろと教えてくれたのだ。旅行の仲間たちは皆ホテルで待っていること。彼らは誰一人として、医師や警察が言うような悪事はなかったと信じていること。同じようにただ心配している人が他にもいるらしいこと。
「ところで一つ気になっていることがあります。あなたの言う“刺客”は何故、サイガくんをあんなところへ置き去りにしたのでしょう」
 意識は少しずつはっきりしてきたが、身体の方がまだ眠っているらしい。手足がやけに重たく感じられる。
 誰かがそこにいるようなのに、確かめられない。
『恐らくは時間稼ぎの為だ。言っておくが、奴等の目的はこれの殺害ではない。魂を奪い、精神を堕とし、贄としての価値が失われて初めて妨害は成立する』
 今は天井と壁ぐらいしか見えないが、きっとすぐそこにいるのだろう。視線を感じる。ついでに嫌なプレッシャーも感じる。
『停電後の混乱に乗じて捕獲したが、一連の工作を実行する前に魂を横取りされた可能性がある。その状態で肉体を壊しても目的は達せられない。想定外の事態だったはずだ』
 家族がこちらへ向かっている、と聞いたことを思い出した。
 誰と誰が来るかは忘れた。着く時間帯はうろ覚えだった。窓の外が明るいようなのでもうすぐかもしれないが、視界の中には時計がなかった。
『しかも電力復旧後は貴様や他の人間が館内の捜索を始めた。それを掻い潜りながら魂を奪い返す、あるいは同時に弱らせる為に、外気と天候を利用する心算だったのだろう』
 廊下に反響する足音が聞こえてきた。誰かがこちらへ向かってくるらしい。
『だがその策も破られた。しかも部外者に。これは勝利ではない、ただ弱き者が自滅しただけだ』
 引き戸が勢いよく開かれた瞬間、サイガは急に全身が軽くなったように感じた。
 跳ねるように起き上がると、見舞客を出迎える柏木の後ろ姿が目に入った。他にも誰かがいたような気がしたが、それらしい痕跡は見当たらなかった。


 三学期の始業式を明朝に控えた夜。
 まりあが自分の部屋で登校の支度をしていると、携帯電話が鳴り出した。
「……もしもし?」
『もしもーし、オレでーす。沼田でーす』
 画面の表示を確かめてから電話に出ると、表示された名前通りの声がした。学校で見かけるときと全く同じ調子に、まりあは肩の力が抜け、それから自分が必要以上に身構えていたことに気づいた。
「こ、こんばんは」
『ゴメンねーこんな時間に。こないだのことでちょっと話があって』
 まりあの心臓と肺が震えた。
 雨宮家の家族旅行は初日の夜にして笑顔を失った。一人娘が庭園の片隅に倒れる人を見つけ、両親がそれをフロントに通報したために、一家は事件の第一発見者としてホテルや警察から事情を聞かれたのだ。こうなってはとてもレジャーを続ける気にはなれなかった。
 滞在を打ち切り東京へ戻った後、両親は気落ちする娘に優しく寄り添ってくれた。しかし救助された級友を見舞うことができず、その様子を知るすべもなかったために、彼女の心配と不安はなかなか消えなかった。
 今や「こないだのこと」、過ぎ去った日付なのに、ついさっきのように思い出せる。
「あの、西原くんは無事だったのでしょうか。怪我をされていたと聞きましたが、今は」
『うわあちょっと待って、タイムタイム。雨宮さん何も聞いてないの!?』
 沼田は意外な反応に困惑しつつ、サイガが軽傷で済んでいたこと、仲間全員が事情聴取を受けて家に帰されたことを教えてくれた。
 もう退院したと聞いた瞬間、まりあの心を覆っていた黒雲が静かに消えていった。
「そうでしたか。教えてくださってありがとうございます」
 月並みな感謝の言葉を送話口に吹き込みながら、まりあはメダルの表面を軽く撫でた。
 あの夜も、翌朝になってからも、何度この胸元のお守りを握りしめたか。何度祈ったか。
『それで、その件のことなんだけど。明日から学校だろ?』
「はい」
『他のみんなにも会うだろ? そんで冬休みの話もするだろ?』
「すると思います」
 でもそれはきっと、隣の席の子が語る南国のお土産話が終わってから。
 華やかな話題に盛り上がる様子を思い浮かべながら相槌を打ったまりあに、沼田は思いもよらないことを告げた。
『オレらな、今回の事件のことは黙ってようってみんなで決めたんだ』
「えっ、それは……どういうことでしょうか」
『こないだのって、結局なんであんなことになったかわからないまんまで、まあタイホはナシになったけど。あのときホテルにいた誰かが事件のことネットに書き込んでて、変な話がどんどん一人歩きしてるんだよねー』
 まりあは息を呑んだ。
 話の広まり方は想像もつかない。でも、良くない話に形を変えているらしいことは、沼田の声の調子からうかがえた。
『で、それやらかしたのが隣のクラスの奴だったらお前どうする、って聞かれてさ。そりゃあ、そいつの顔見に行くよなって。そう言ったらさ、「隣のクラスから見たらサイガは他人だよな」って。オレすっげえドキッとした』
 たいして知らない人のことなら何を言ってもいいのか。そんなわけがない。
 当たり前のことなのに、声に出して言われると、何故かはっとさせられる。
『しかも肝心のサイガが停電の後のことなんにも覚えてないって言うんだぜ。それで晒しとかカワイソすぎるだろ。だからどこにもチクるなよってことになった。というわけで、雨宮さんも協力よろしく』
「は……はい」
『あっでも学校ではフツーにな。サイガに会ったときもフツーにしてて。そんじゃ』
 最後のたたみかけるような頼みを、まりあは半分も聞き取れなかった。
 一方的に通話を切られ、受話口から音が聞こえなくなっても、携帯電話を顔から離すことさえできなかった。
(何も、覚えていない。本当なのでしょうか)
 耳の奥を記憶が駆け巡る。
 確かにあの夜は言葉を交わしたのに。
 姿はいつもと違っているようでも、その声は、間違いないと感じたのに。
(二人で手がかりを探して歩いていたのは、まさか、幻だったのでしょうか)
 まりあが腕を下ろす前に、力の緩んだ指先から携帯電話が抜け出した。床に落ちた端末を拾おうとしたら、その手前の通学鞄が彼女の目線を捕らえた。
 明日の朝、どんな顔をして教室に行けばいいのか。
 気まずくなりそうな相手ばかりが頭に浮かんで、ため息しか出てこなかった。